第十三話 妹にはなれない

 翌朝、いつもの時間にいつものように目を覚ました俺は、洗面台で顔を洗って、これまたいつものようにリビングへと向かう。すると、いつものように水川はキッチンで俺たちのお弁当を作っており、いつものように卵焼きの匂いが鼻をくすぐる。


「おはよう。今日もお弁当ありがとな」


 と、いつものようにもはや定型文となりつつあるそんな挨拶をすると、フライパンを握っていた水川は、ビクッと体を震わせた。そんないつもとは違う、水川の行動を僅かに不審に思いながらもテーブルに腰を下ろす。


「お、おはようございます……。今日はちょっと早いですね」


 と、水川が尋ねるので壁掛け時計を見やる。べつにそんなにも早くもないけどなと首を傾げていると、彼女はトーストの乗った皿を二枚持ってテーブルへとやってくる。


「ありがとう」


 そう言って、トーストに口をつけようとすると、妙に左に座る水川から視線を感じる。俺が手を止めて、左に顔を向けるとやっぱり水川がこちらを見ていた。


「どうかしたのか?」


 そう尋ねると、水川ははっと大きく目を目を見開いて、慌てて前を向く。


「な、なんでもないです……」


何かを紛らわすようにトーストを頬張る。そんな水川をしばらく眺めて俺は再びトーストに口を付けた。


 何かおかしい……。


 なんとなくだが、今朝の水川は何やらそわそわしているようだった。


「あの……先輩……」


 と、そこで不意に彼女が俺を呼ぶ。


「なんだよ……」


「実は今朝、廣神さんから連絡があったんです」


「ああ、あの変なスカウトか? お前やっぱ、あの人によっぽど見込まれているんだな」


 俺には芸能界のことはよくわからないが、スカウトのそれもある程度の役職となれば、なかなか忙しい仕事だろう。そんな人がこまめに連絡を寄越してくるのだ。それは何が何でも彼女を芸能界に引っ張り込みたいというのは相当な熱意だろう。


「よかったじゃねえか……」


 俺はコーヒー牛乳でトーストを流し込むと、彼女に微笑みかける。が、俺の言葉に彼女はなにやら浮かない顔をしている。


「今度、片岡紗々ちゃんのドラマの撮影があるらしいんです。今度はドラマの撮影らしいので、さすがに体験参加みたいなことはないと思いますが、特別に見学させてもらえるそうです……」


 グラビアの次はドラマか……。廣神さんの着々と足場を固めている感じが見え透いている。あくまでこれは俺の憶測ではあるが、その撮影現場には監督や下手すれば、もっと上の人だっているかもしれない。もしかしたら廣神さんはそういう人たちと水川を引き合わせようとしているのかもしれない……。


 水川はしばらく黙ったまま俯いていた。が、不意に顔を上げると、再び俺を見やる。


「せ、先輩はどう思いますか?」


「どうって……それだけ、お前が期待されているってことだろ? それに芸能界はお前の憧れていた世界なわけだし、断る理由なんてないと思うけど」


 彼女がいやいややっているのであればともかく、彼女はひそかにこの世界に憧れを抱いていたのだ。だとすれば、彼女がそれを断ることは、自ら夢から遠ざかることになる。


 にもかかわらず、水川はその嬉しい誘いに喜んでいるような様子はない。


「正直、私は怖いです……」


 小さく呟く。なんというかここのところの水川はらしくない。俺に対する異性の良さも影を潜めている気がする。が、まあ、彼女の気持ちは理解できないでもない。


「まあ、確かに怖いだろうなあ。俺はあまり詳しくないけど、きっと芸能界ってのは実力社会だ。そこにいきなり飛び込むのは誰だって怖いさ」


「わ、私が恐れているのはそこではありません……」


 水川は首を横に振った。気がつくと彼女の瞳にはわずかに涙が浮かんでいた。


「私が恐れているのは、芸能界になんて入ってしまったら、今までの生活が続けられなくなってしまうことです」


 そう言えば昨日も同じようなことを話していたっけ?


「気持ちはわかんなくもないけど、芸能界はお前の憧れなんだろ?」


「そ、そうですが……で、でも、先輩とこのまま一緒に暮らすことも、私にとっては大切な夢です」


 と、そんなことを言うので俺は困ってしまう。


「おいおい、芸能界だぞ? 誰もが叶えられるような夢じゃないんだぞ? そんな大きな夢と、ちっぽけな夢を」


「ちっぽけな夢を抱いちゃいけないんですか?」


「それは……」


 水川は俯く。そして、俺の袖へと手を伸ばすとぎゅっと握りしめた。


「私は、いつまでも先輩といたいです……」


「…………」


 水川の言葉はわずかに震えていた。俺はそんな彼女の手を優しく掴んでやると、彼女に体を向ける。


「確かに、俺だって水川との生活は楽しいと思っているさ。だけど、俺たちは兄妹なんだ。一生このまま二人で生活していくわけにもいかないんだし、お前だっていつかは好きな人が出来て、結婚して新しい家族を持つんだ。そこに俺の居場所はないことぐらい、お前だってわかるだろ?」


 いつかはお互い家庭を持って巣立っていく。そんなものは全国どこの家庭でも一緒だ。まあ、俺に家族ができるかはまた別の問題だが、少なくとも水川にはできるはずだ。家族というのは兄妹というのはそういうものなのだ。


 少なくとも俺はそう思う。


 が、水川は納得ができないようで、俺の袖をぎゅっと握ったまま動かない。


「私、時々先輩の考えていることがわからないです……」


 どうやら、俺の言葉は水川の望んでいたものではなかったようだ。が、だとすれば、俺は彼女になんて言ってあげればいいのだろうか? そのことが俺にはわからない。


 と、そこで水川が立ちあがった。


 俺はそんな彼女の行動に首を傾げていると、彼女は不意に俺に顔を接近させた。


 そして、


「んんっ!?」


 直後、俺の唇に柔らかいものが触れた。そして、目の前には目を閉じる水川の顔。その突然過ぎる行動に俺が身動きできないでいると、彼女はそっと唇を離す。


 俺は目を見開き彼女を見つめる。


「ばかっ!! 冗談が過ぎるぞ」


「私が冗談でこんなことすると思いますか?」


 水川は真剣に俺を見つめる。


 そして、彼女は続ける。


「私は先輩の妹にはなれません」


 そう言うと、彼女は皿を置いたまま、鞄を手荷物と玄関へと駆けて行ってしまった。

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