第十五話 天使をやめた天使

 何が『微笑み天使』だ……。


 昨晩から考えることは男子生徒から『後輩殺しの微笑み天使』と呼ばれる女のことばかりだ。


 これってもしかして恋?


 いやいやそれだけはない。断じてない。絶対にありえない。とか、言うとツンデレみたいで変に意識をしているみたいだけど、少なくとも昨晩の一件で、冴木涼花さえきりょうかに対するイメージは一変した。


 俺はああいう女が嫌いだ。


 が、俺は放送部に入部してしまったのだ。つまり、それはほぼ毎日、否応なしに冴木さんと顔を合わせなければならないということだ。水川がいる手前、下手に敵意をむき出しにするわけにもいかないし、先が思いやられる。


「少なくとも、水川を巻き込むことだけは避けないと……」


「私が何に巻き込まれるんですか?」


「いや、だから俺と冴木さんが……って、おいっ!?」


 目を剥いて隣を見やると、いつからそこにいたのか制服姿の水川が当たり前のようにいた。


「おはようございます。先輩っ」


 水川はにっこりと笑みを浮かべながら俺に会釈をした。


「心臓に悪いから、突然、俺の思考に干渉してくるのは止めてくれないか?」


「ごめんなさい。だけど、先輩ったらぶつぶつ何か一人で話してるから、てっきり私がいることにとっくに気づいているのかと思っていました」


 自分でも気づかないうちに思考が言葉になっていたらしい。


「なんだか新鮮ですよね」


「新鮮?」


「登校途中に、ばったり会って、おはようって挨拶することですよ。なんだか付き合いたてのカップルみたいでドキドキしますよね?」


「付き合いたてのカップルかどうかはわからないが、確かにこういうのは初めてかもな」


 ここのところ当たり前のように水川が家に泊まり、彼女と一緒に家を出るという生活が当たり前になりつつあった。確かに水川の言う通り、こうやって登校途中にばったりというのは少し新鮮だ。


 たった一晩しか離れていないのに、水川と会うのはひどく久々のように感じるのは、それはそれで感覚が麻痺しているのかもしれないけど。


「先輩、今日の放課後空いてますよね?」


「その断定的な言い方は腑に落ちないが、一応は空いているぞ」


「今日の夕方にベッドが届くんです。私一人で組み立てられる自信がないので先輩にも手伝って欲しいです」


 そういえば数日前に彼女と一緒にお姫様ベッドを購入しに行ったことを思い出す。確かにあの仰々しいベッドを彼女一人で組み立てさせるのは少々酷だ。


 俺が「構わんよ」と答えると、水川は「やっぱり頼るべきは兄ですね」と俺の腕にしがみついてくる。


「少なくともお前は兄に対するスキンシップの取り方を間違えてる」


「そうですか? 先輩が読んでいたラノベの妹はこんな風にしていましたが……」


「なっ……」


 水川の言葉に頬が急速に過熱される。もしかしたら俺は彼女にとんでもないものを読ませてしまったかもしれない……。


 俺は動揺を必死に押し殺してこわばった笑みを彼女に向ける。


「水川さん、小説っていうのはあくまで空想を具現化したもので、現実と区別ができないなんて先が思いやられますね……」


「でも、嫌いじゃないんですよね?」


「…………」


 水川は冴木さん仕込みの悪戯な笑みで俺の反応を伺っている。


「先輩ったら、本当に素直じゃないんですから」


 どうやら水川は今日も上機嫌のようだ。


「あ、そうだ先輩」


 水川が不意に何かを思い出したように、しがみついていた腕をぐいぐいと引く。


「今日のベッドの組み立てなんですけど、助っ人を呼ぶことにしました」


 そう言って水川はにやにやと笑みを浮かべる。


「今日は涼花さんも組み立てを手伝いに家に来てくれるそうですよ」


「はっ!?」


 唐突に飛び出した冴木さんの名前に、思わず目を見開く。その反応に水川もまた驚いたように目を見開いた。


「ど、どうかしましたか?」


「い、いや、なんというか……」


 当たり前だが、昨晩のことは水川は知らないはずだ。少なくとも水川に俺と冴木さんの間にひと悶着あったことは知られるわけにはいかない。


 俺のその中途半端な反応を見た彼女は少し申し訳なさそうな顔をする。


「ごめんなさい。一応お父さんには許可は取ったんですが、先輩にももっと早く言っておくべきでしたよね……」


「いや、あそこはお前の家でもあるんだ。友達でもなんでも家に入れるのは問題ないんだけど……」


 それ以前に俺は疑問に思う。


「そもそも冴木さんは俺たちのことを知ってんのか?」


「私と先輩がひそかに同棲を始めたことですか?」


「俺とお前が兄妹になることだよっ」


 こいつは脳内に背徳変換ソフトでもぶち込んでるのか……。


「そのことは先輩が入部するときに、既に涼花さんに伝えてあります」


「はあっ!?」


「ごめんなさい。勝手なことをしました……」


 どうやら水川は彼女が俺の許可なく兄妹になることを冴木さんに伝えたことを、俺が怒っていると思ったらしい。


「いや、それは問題ないんだけど……」


 怒りがふつふつと沸いてくる。


 どうやらあの微笑み天使(笑)は俺と水川と兄妹になることを知っていながら、俺に水川との関係を問いただしてきたということだ。


 本当にどこまでも性格の悪い女だ……。


「お仕置きしますか?」


 と、そこで水川がわけのわからないことを言う。


「なんだよ。お仕置きって……」


「あのラノベみたいに、出来の悪い妹をお仕置きしたいですか?」


「勝手にありもしないシーンを付け足してんじゃねえよ」


 本当に油断も隙もない女だ……。


 が、水川が俺が怒っていないか気にしているのは事実のようだ。だから、俺は極力平静を装って彼女を見やる。


「わかった。じゃあ、今日は冴木さんにも手伝ってもらって三人でベッドを完成させよう」


 そう言ってやると水川は少し安心したように微笑んだ。



※ ※ ※



「先輩、今日も来てくれたんですねっ」


 昼休み、新入部員である俺が放送室のドアをノックしようとしたら、耳元でそんなことを囁かれ俺は思わずビクつく。


 振り返るとそこに立っていたのは水川……ではなかった。


「優菜ちゃんだと思った? 残念でしたっ」


 そこに立っていたのは水川ではなく、冴木涼花だった。


「俺の顔を見ると反吐が出るんじゃなかったんですか?」


「反吐は出るわよ。本当に唾をかけてあげたいほどに。でも、それだと友一くんにご褒美をあげちゃうことになっちゃうかしら?」


「あんたは俺の性癖をなんだと思っているですか……」


「でも、優菜ちゃんにからかわれているときの友一くん、幸せそうだけどな?」


「余計なお世話だ……」


 本当に心底根性が曲がった女だ。こいつが男だったら今すぐぶん殴ってやりたいほどに……。


「私ね、昨日の夜考えたの」


「悪だくみをですか?」


「微笑みの天使さまがそんなこと考えると思う?」


 ついに自分のことを天使とか言い出したぞこいつ……。


「思っているから聞いているんです」


 そう言うと冴木さんは何故だか嬉しそうにニヤニヤと笑う。


「やっぱり、私、友一くんのこと落としてみせるわ」


「俺はあなただけには絶対に落とされない自信があります」


「それはどうかしら? 私、こう見えてもモテない男の子をその気にさせるのは得意なほうよ?」


「大層な自信ですね」


「だって私モテるから」


 どうやらこいつは俺の前で猫をかぶることをやめたようだ。まあ、変に猫をかぶられるよりも、こっちの方が清々しいと言えば清々しい。


「そこまでして水川から俺を遠ざけたいですか?」


「そうね、今すぐにでも優菜ちゃんの記憶から、あなたを消し去りたいわ」


「…………」


 冴木さんは相変わらずの悪戯な笑みで俺に顔を近づけると、間近で俺を見つめる。


 悔しいけど容姿だけは文句のつけようがない。不本意ではあるが、彼女に間近で見つめられると反射的に頬が紅潮してしまう。どうやら冴木さん自身もそのことを知っているようで、俺の感情を弄ぶようにしばらく俺を見つめてから、人差し指で俺の顎を撫でた。


「私、いつでも友一くんの恋人になってあげるわ。友一くんのしたいことなんでもしてあげる」


「余計なお世話です。だいたいどうして冴木さんは俺と水川のことをそこまでして遠ざけようとするんですか?」


「それはね」


 と、何かを答えようとしたところで冴木さんの視線が俺から、俺の後ろのドアへと向いた。そして、彼女は不意に俺のネクタイへと手を伸ばす。


「友一くんったらネクタイ曲がってるわよ」


 そう言って、曲がってもいないネクタイに触れた。


「先輩っ!!」


 直後、冴木さんの背後からそんな声がして視線を向けると、そこには小さく俺に手を振る水川の姿があった。どうやら冴木さんはドアの窓ガラスの反射で彼女の存在に気がついたらしい。


「さあ、それじゃあ今日もお昼の放送を頑張りましょう」


 冴木さんは一度俺にニヤリと不敵な笑みを浮かべると、即座に天使のような屈託のない笑みを浮かべなおして、放送室へと入っていった。

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