第十四話 微笑みの天使の悪魔の微笑
ショッピングセンターを出るとあたりはすっかり暗くなっていた。腕時計を確認するともう八時を回っている。思っていたよりもウィンドウショッピングに夢中になってしまっていたようだ。
「そろそろ帰りますか。じゃあ先輩、また明日学校で」
そう言って水川は俺の自宅とは逆方向へと歩き出すので、思わず呼び止める。
「あれ? 今夜は泊まらないのか?」
「え? そんなに私をお持ち帰りしたいんですか?」
「そういうことじゃねえよ。だけど……ほら、最近はずっと家に泊まってたから」
当たり前のように今晩も泊まるものだと思っていただけに、少し拍子抜けではあった。冷静に考えてみれば、学園のアイドルが当たり前のように家に泊まるってのは、俺にとってかなりの事件なのに、本当に慣れというものは本当に恐ろしい。
「今日はお母さんが帰ってくるんですよ」
「ああ、そういえば父さんも早く帰るってメールしてきたような気が……」
「日本での仕事に区切りがついたらしいです。だから、今日は実家に帰ります。それにお母さんと一緒に過ごせる時間もあとわずかなので」
「確かにそうだな。今のうちにうんと甘えておけ」
「はい、今夜はうんとお母さんに甘えます。あ、そうだ、昨晩のカレーが冷蔵庫に残っているので、お父さんと一緒に食べてくださいね」
「本当に抜かりのない奴だな。でも、ありがとな」
「じゃあまた」
そう言って水川は俺に手を振ると逆方向へと歩いて行った。そんな彼女を見送ってから、俺も自宅へと歩きはじめる。
一人になるのは久々のような気がする。別に寂しいというわけではないのだが、一人で街を歩くのに違和感が抱く自分に少し驚いた。一人で行動することには慣れているはずなのに、どうしてなのかわからない。
が、そのことを深く考えることは、なんだか妙にムズ痒いので、あえて、考えることを止めて家路に就く。
しばらく歩いていると大きな公園へとたどり着いた。この公園を通るのが自宅へと最短ルートだ。
「友一……くん?」
遊歩道を歩いていると、ふいに背後からそんな声が聞こえてきたので足を止める。振り返ると一〇メートルほど後方に同じ高校の女子生徒のシルエット。街灯が手抜きをしているせいで、顔までははっきりとは見えないが、俺のことを友一と呼ぶ女子生徒なんて一人しかいない。
「冴木さん……ですよね」
「やっぱり友一くんだ」
女子生徒は俺のもとへと駆け寄ってくる。答え合わせのようにフローラルな香りが鼻をくすぐる。やっぱり冴木さんだった。
冴木さんは俺の前までやってくると可愛らしく小首を傾げる。
「もしかして、友一くんもこっち?」
「ええ、ってことは冴木さんも」
「私の家は公園を抜けてしばらく歩いたところ。本当はバスの方が楽なんだけど、今日は天気もいいから歩いてるの」
にこにこと笑みを浮かべながら冴木さんはそう答えた。
「せっかくだから、一緒に帰りましょ?」
そう言って冴木さんが歩き出すので、俺も隣を歩く。
左側に冴木さんの存在を感じながら思う。
女の子と並んで歩くのはどうも慣れない。水川と初めて一緒に歩いたときもこんなだったっけ? 冴木さんと並んで歩いて、本当に自分が水川に慣れつつあることに驚く。
「優菜ちゃんには怒られなかった?」
不意に冴木さんがそう尋ねる。俺は突然飛び出した『優菜』という言葉にわずかに肩を震わす。
「なんで、水川の名前が出てくるんですか?」
「優菜ちゃんに見られてたみたいだから」
「見られてた?」
「放送室でのこと」
そこまで言われてようやく理解する。と同時に目を剥いた。
冴木さんは知っていたのだ。放送室で彼女が俺の手の傷を労わっていたとき、すでに水川が放送室の前にいたことを……。
「優菜ちゃんは、ああ見えて繊細な女の子だから、変な勘違いをしなきゃいいんだけど……」
冴木さんは笑みを浮かべたまま、俺を見やった。
やっぱり彼女は勘違いしているようだ。彼女は俺と水川が付き合っていると思っているようだ。少なくとも、その勘違いは正しておかなければならない。
「水川は嫉妬なんてしないですよ」
「どうしてわかるの?」
「簡単ですよ。俺と水川はお互い嫉妬をするような関係ではなないですから」
「つまり、今はお互いの距離感を探っている時期ってことかしら?」
「いや、俺と水川の間に恋愛感情はないので」
そうはっきりと答えると、冴木さんは「へぇ……そうなんだ」と相変わらずの笑みで小さく呟く。が、すぐに悪戯な笑みを浮かべた。
「私にはそうは見えないけどなぁ……」
どうやら彼女は俺の言葉を信じるつもりはないらしい。
「少なくとも優菜ちゃんは友一くんのこと、気に入っているように見えるけどなぁ……」
「あいつは俺をからかっているんです。俺が少々オーバーリアクションなんで、それを見て楽しんでいるだけですよ」
そう答えると冴木さんは何も答えずに笑みを浮かべているだけだった。
そこからしばらくの間、会話は途切れた。
「ねえ、昼間の言葉は覚えているかしら?」
沈黙を先に破ったのは冴木さんの方だった。俺が首を傾げていると、冴木さんは「もう忘れちゃった?」と彼女も鏡合わせのように首を傾げる。
「私にも友一くんの恋人になるチャンスがあるのかなって話よ」
「なっ……」
目を剥く俺を見て冴木さんは可笑しそうにクスクス笑う。
「確かに優菜ちゃんが、あなたをからかう理由がよくわかるわ」
「冴木さんって微笑みの天使なんて言われてますけど、案外、酷い人ですね……」
彼女を睨むと彼女は「ごめんね。だけど、あんまり可愛い反応するから」と笑い涙を拭いながら謝った。
本当に水川そっくりだ。水川は目の前の美少女から悪い部分ばかり吸収している。
と、そこで冴木さんは俺に顔を接近させる。彼女の顔が間近に迫る。
「もしも私が、友一くんのことをもっと知りたいって言ったら、きみはどう答えるかしら?」
「ありえない前提に答えて意味があるんですか?」
「ありえないなんて、どうして友一くんにわかるの?」
「それは……」
俺には彼女の言葉の意図が理解できなかった。これも俺の反応を楽しむためのからかいなのだろうか? 俺には冴木さんの考えていることはわからない。ただ、わかることはこの距離で冴木さんと見つめ合っていると、頭がおかしくなってしまいそうだということだけ。
俺は逃げるように彼女から目を逸らす。
「少なくとも冴木さんが、俺に興味を抱くような理由が俺には思い当たりません。どうして俺みたいな地味な生徒に、微笑みの天使が興味を持つんですか?」
「つまり、きみは私があなたに興味を持つことが信じられないのかしら?」
「少なくとも今の俺には無理です」
「私は男の子たちから『後輩殺しの微笑み天使』なんて変なあだ名で呼ばれてるみたいだけど、私も普通の女の子よ。普通の女の子が普通の男の子に興味を持つことは自然だと思うのだけれど」
「…………」
俺は何とも言えない空気に息が詰まりそうだった。彼女はごく自然な笑顔で、そんなことを口にすることができる。少なくとも俺にはそんな芸当はできなかった。
「冴木さんは、俺をどうしたいんですか? からかいたいだけですか?」
「私で我慢してほしいの」
「は? 言っている意味が分かりません」
「取引がしたいの」
「取引?」
やっぱり冴木さんの言葉には裏があったようだ。いったい、彼女が何を企んでいるかはわからないが、彼女が何かしらの敵意のような感情を俺に抱いていることは理解できる。
「私は優菜ちゃんと比べて、女性としての魅力が劣ることは自覚しているわ。だけど、友一くんを精いっぱいの母性で包み込むことはできるかもしれない。まあ、それはきみが私を女性として魅力を感じていることが前提だけど」
「話の筋が見えませんね」
「単刀直入に言えばいいかしら? 優菜ちゃんに近づかないで欲しいの」
わからない。
彼女が何を言っているのかがわからない。ただわかるのは、彼女のその言葉にからかいなんていう生ぬるい意図はこれっぽっちも含まれていないということ。
「そんなことをして、何の意味があるんですか?」
「それは友一くんには関係ないわ。だけど、私にとって、友一くんの存在は邪魔なの。もしも、きみが優菜ちゃんから離れてくれるなら、私はあなたのいいなりになるわ。友一くんが望むなら、どんな屈辱的なことだってしてあげる。それとも私じゃ役不足かしら?」
「いや、あなたは水川に引けを取らないほどに魅力的な女性だと思います。はっきり言って俺なんかには勿体ないほどの」
「だったら」
「だから、取引には応じられません」
彼女の目を見て答える。彼女はほんの少し驚いたように目を見開いていた。
「やっぱり冴木さんは少し勘違いをしているみたいです」
「勘違い?」
「ええ、確かに俺にとって水川優菜が大切な存在になりつつあることは確かです。けれど、きっとそれは冴木さんが考えているような感情とは少し違います」
「へえ……それはいったい、どんな感情かしら?」
「それはあなたがよく知っているんじゃないですか?」
冴木さんは俺をじっと見つめたまま何も答えない。まるで、次に俺がどう出るか見極めているようだった。
「俺には冴木さんと水川がどれだけ強い絆で結ばれているかはわかりません。だけど、今の俺には決して敵わないような強い絆であることはわかります」
俺には冴木さんと水川の絆を決して理解することはできない。たった数日間、水川と生活をしただけでは決して手に入れられないほどの絆。俺が思わず嫉妬してしまうほどの絆が確かに存在している。だからこそ、冴木さんはおかしな取引を俺に持ち掛けてきた。
だけど、思った。
冴木さんのその決断は、きっと水川にとって、そして冴木さん自身にとって望ましい決断ではないように思えた。
俺は水川の兄になると決断した以上、彼女にとって望ましくない未来は選ぶわけにはいかない。そして、冴木さんが何かを犠牲にしてまで決断することもまた、水川にとって望ましい未来ではないように思えた。
冴木さんはしばらく、俺の顔をじっと観察していた。
が、不意に笑みを浮かべた。その笑みが俺を油断させるための作り笑いなのか、本心からなのかは俺にはわからない。
「へぇ……ただの地味な男子生徒ではないみたいね……」
「いや、俺はただの地味な男性生徒です」
「きみには猫だましは通用しないみたいね」
そう言って冴木さんは俺の頬をツンツンと突いて、俺から顔を離した。
「だったら、はっきりと言うわ。私はあなたみたいな童貞臭い男の子は嫌いよ」
「ええ、もとよりあなたみたいな『微笑みの天使』は俺には眩しすぎるので好都合です」
「だけど、私はあなたみたいに思い通りにならない男の子を、屈服させるのは嫌いじゃないわ」
彼女の顔がからかいモードの笑顔に戻った……気がする。
「本当に性格の悪い人ですね」
「友一くんには特別よ。きみには私の意地悪な部分を嫌と言うほど見せてあげるわ」
そう言って冴木さんはニヤリと意地悪な笑みを見せた。
「だけど、猫をかぶっているのはお互い様じゃないかしら?」
「俺が猫をかぶってる?」
「ええ、あなたは自分自身の本心を隠して、優菜ちゃんによくわからない絆を押しつけようとしているみたい」
「俺はそうは思いませんね」
「そう思うならそうでもいいわ。だけど、油断しているといつか火傷するわよ」
「ご忠告どうも」
頭の悪い俺には火傷の意味は理解できなかった。
「あなたと一緒に帰ろうかと思ったけど気が変わったわ。あなたの顔を見ていると反吐が出るわ。じゃあまたね、明日も放送室で会いましょう」
そういうと冴木さんは踵を返して俺の家とは逆方向へと歩いていく。
公園の奥に家があるんじゃなかったのかよ……。
俺は愕然としながら、彼女の後姿を眺めたが、彼女は姿が見えなくなるまでこちらを振り返ることはなかった。
怒っているのだろうか?
それとも何か別の感情を抱いているのだろうか?
俺にはわからない。
だけど、きっと彼女は彼女の意思に基づいて突き進んでいる。
本当にはた迷惑な人だ。だけど、俺は彼女のことを憎むという感情は不思議と抱くことができなかった。
ただ、彼女は俺と水川の絆を結ぶ上できっと乗り越えなければならない大きな障壁なのかもしれない。
俺は自宅へと再び歩き始める。
水川にとって冴木さんは、冴木さんにとって水川は、そして、俺にとって水川はどういう存在なのだろうか?
今の俺にはまだわかりそうになかった。
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