第十五話 独善的
キス……などという、おおよそ俺の高校生活において無縁だったはずの、イベントを短時間に二度も体験したにもかかわらず、俺の気持ちはどん底に落ちていた。
本当ならば甘い思い出として心に刻まれるはずの、美少女とのキスはこのままでは、俺にとって甘酸っぱい、どころか激苦な思い出として心に刻まれそうだった。
が、それを打開するべく有効な手段など、恋愛に疎い俺には何も思いつくはずもない。
三時間目、数学の授業を受けていた俺が、校庭を眺めていると、また一年生が体育祭の練習をしているのが見えた。なぜ、一年だと分かったかというと、窓際の男子を中心に皆、授業そっちのけでダンスを眺めているからだ。もちろん、皆の注目は水川だ。
一年の女子たちはラジカセから流れる音楽に合わせてポンポンを前後左右に一糸乱れぬ動きを見せている。ついこの前までは少しまばらだった動きがすっかり纏まっているのを見て、体育祭がすぐ目の前に迫っていることを実感する。
そして、そんな女子たちの中に俺は水川の姿を見つけた。彼女は必死に、他の生徒たちに後れを取らぬよう、一生懸命、体を動かしている。
そんな彼女をしばらく眺めていると、音楽が止まり生徒たちが方々に散らばっていく。どうやら小休憩を取るようだ。水川もまた近くの木陰へととぼとぼと歩いていくが、不意に彼女は校舎を見上げた。
目が合った……ような気がした。
彼女は立ち止まってしばらく、俺を見上げていたが、不意に顔を俯けるとまたとぼとぼと木陰へと歩いていく。
俺もまたため息を吐いて、視線を教室へと向かう。
ただ彼女と仲良く生活をしていたい。たったそれだけのことが、今の俺にとっては果てしなく遠い、雲の上の出来事のように思えた。
※ ※ ※
そして、昼休み。俺はいつものように放送室へと向かう。大人気のお昼の放送を手伝うためだ。本当のことを言えば、あまり気は乗らなかったが、さすがに個人的な事情で部活動をおろそかにするわけにもいかず、放送室へとやってきた。
「失礼します……」
コンコンとノックをして、放送室に入ると既に中にいた水川と冴木さんが同時に俺の方へと顔を向けた。
「お、お疲れ様です……」
水川はそんな俺をしばらくじっと見つめてから、不意に顔を逸らす。
そして、冴木さんは……。
「あら、渦中の友一くん、お疲れさま」
と、そんな俺たちを煽るように笑顔でそう言うと、俺のもとへと歩み寄ってくる。
「ねえ、友一くん、今日の夜、暇かしら?」
何を言い出すかと思えば、唐突にそんなことを俺に尋ねる冴木さん。
「は? な、なんでですか……」
「実はね、今日はお父さんが出張で家にいないの。だから、今日、うちに泊まりに来ないかなと思って」
「いや、なんでそんなこと……」
「いいじゃない。私たち付き合っているんだし。それとも、何か私の家に泊まると不都合なことでもあるの?」
そう言って冴木さんは妹の顔を見やった。水川は、一瞬、目を大きく見開いたが、すぐに俯いてしまった。そして、静かに口を開く。
「せっかくだし、泊まってくればいいじゃないですか……」
「いや、だけど……」
「実は今日、友達を家に泊めることになっているんです……。先輩がいるとその子も気を遣いますし、むしろ、先輩にどこかに泊まってきて頂いた方が、私は好都合です……」
「…………」
嘘だ。
そんなことはすぐにわかったが、そう言われてしまった以上、俺に言えることは何もない。
「じゃあ、決まりでいいかな?」
※ ※ ※
結局、一ミリたりとも乗り気にはなれなかったが、俺が冴木さんの家に泊まるというのは既成事実化してしまった。放課後、さっそく教室まで俺を迎えに来た冴木さんに強制送還される形で、俺は彼女の家を訪問した。
冴木さんの家は、学校から二キロほど離れたタワーマンションの一室だった。その巨大なマンションにやや気圧されながらもお邪魔すると、冴木さんは「御飯ができるまで、そこでゆっくりしててね」と俺をリビングのソファへと案内する。
いまだ、こんなにも楽しくないお泊り会を俺は知らない。
キッチンで料理を作る冴木さんを眺めながら俺は、ため息を吐く。
彼女の目的はなんだ。本当に俺を家に泊めたいのか?
「別に後ろから急に抱きしめて来てもいいのよ?」
野菜をトントンと切りながら、冴木さんは俺を挑発する。
「逆に、どうして料理をしている人を突然、後ろから抱きしめなきゃいけないんですか?」
「あれ? 恋人ってそういうものなんじゃないの? 突然、後ろから抱きしめて『もう、料理中だから』なんて言いながらイチャつくのが定石だと思っていたけど」
「残念ながら、俺にはそんな積極性は皆無です」
「そう……。こんなに可愛い女の子を好きにできるチャンスなのに勿体ないわね」
と、謙遜することなくそんなことを言う冴木さん。
その後、しばらく俺は全く頭に入ってこないニュースを眺めていると「できたわよ」と冴木さんの声が聞こえたので、テーブルへと向かう。
「どう? 美味しそうでしょ?」
と、冴木さんは相変わらずの自信で、俺の顔を見やった。
悔しいけど、めちゃくちゃ美味そうだ……。
テーブルに並べられた色とりどりの料理を眺めていると、不本意ながら腹が減ってきた。俺は着席すると冴木さんにお礼を言って食事に手を付ける。
「う、美味いです……」
と、素直に感想を述べると冴木さんは「そう」と答えた。
そして、何故か冴木さんは俺の方へと手を差し出すとにっこりと微笑む。
「なんすか、その手は」
「材料費と、私の手間賃、合わせて六〇〇円頂こうかしら」
「ゲホッ!! ゲホッ!! 金取るのかよっ」
「私、お金を取らないなんて一言でも言ったかしら?」
「いや、言ってないですけど……」
「当然だと思わない? 私は友一くんのために材料を買って、それを料理にしてあげた。それを当たり前のように享受できるほど、世の中は甘くないわよ」
「そ、そうかもしれないですけど……」
俺はポケットから財布を取り出すと、六〇〇円を冴木さんの手に乗せる。すると彼女は「まいどあり」と微笑みながら答えて、お金をポケットに入れた。
どうやら冗談ではなかったようだ……。
「ねえ、友一くん」
「なんすか?」
「私はお金をもらってご飯を作ったからいいけれど、これを母親でもないのに、お金も貰わずに毎日続けて、さらには洗濯や部屋の掃除までする女の子ってバカだと思わない?」
唐突にそう尋ねる冴木さん。彼女は微笑みながらそう尋ねるが、その目は笑っていない。
「何が言いたいんですか?」
「いや、私だったらそんなことできないなと思っただけよ」
「水川のことを言っているんですか?」
「さあね……」
と、彼女ははぐらかす。そんな彼女の反応に俺がムッとすると、彼女は俺の頬をツンツンとつついた。
「もう、拗ねないの……」
「別に拗ねてないですよ」
「ねえ、どうして優菜ちゃんが、あなたのために毎日文句も言わずに家事をやったり友一くんの身の回りのお世話をするかわかる?」
「それは、俺がずぼらな性格で――」
「本当にそうだと思っているのなら、友一くんの鈍感さは、もはや人を傷つけるレベルね」
「だけど、そんな鈍感な男を好きになっちゃったんだからしょうがないわよね? 優菜ちゃんも、私も……」
冴木さんは「はぁ……」とため息を吐いて食事に箸を伸ばした。
わかっている。冴木さんの言葉は痛いほどに俺の胸に突き刺さる。俺のこの優柔不断さが彼女を傷つけているのだ。なのに、俺はこんな風にのうのうと冴木さんの手料理を食べているのだ。
味噌汁を啜る。冴木さんの味付けは完璧で文句のつけようがない。だけど、今の俺にはその美味しいみそ汁を美味しいと感じられるほどの精神的な余裕はない。
「マズいわね……」
と、そこで冴木さんはそう呟いた。
「ああマズい……。こんなにマズい晩御飯を食べたのは、お父さんとお母さんが離婚することを初めて聞かされたとき以来だわ……」
「…………」
「あなたはこれからも優菜ちゃんの作った美味しいはずなのに、マズい料理を毎日食べるつもりなの? だとしたら、救いようのないドMさんね」
「そんなこと言ったって、俺にはどうしようも」
「あなたにしかできないんじゃないの?」
冴木さんは箸を置いて俺を見つめる。
「明日からのご飯を美味しくするのもマズくするのもあなた次第だと、私は思うけれど……」
「あの……冴木さん」
俺も箸を置く。
彼女は俺に喝を入れてくれているのは嫌というほどにわかる。今朝、俺にキスをしたのも、俺を家に招いたのもすべては俺の目を覚ませるためだ。
だけど、そんな彼女を見ていて俺は思う。
「冴木さんはどうして、そんな嫌な役割を演じるんですか……」
「いや、役回り? 私は単に――」
「そんなことないです。水川がシンガポールに行くって言ったときも、今も冴木さんはわざと嫌な役割を演じて、俺の目を覚まそうとしてくれる。本当は優しい水川のお姉さんなのに、どうしてこんなこと……」
俺にはそれがわからなかった。冴木さんの行動は全て誰かのためだ。俺に変に接近したところで、俺に疎ましがられるのだって知っているはずなのに、彼女はあえてそれを演じる。
彼女はどうしてそこまでして……。
「いい加減に気がついてよ……」
冴木さんはそう言って俺を睨んだ。冴木さんはしばらくじっと俺のことを睨みつけて、そして、俺から目を逸らした。
「私はこんな風でしか、友一くんの力になってあげられないことに、どうして気がついてくれないの……」
そう言う冴木さんの言葉はわずかに震えていた。
「わ、私は友一くんのことが好き……」
そして、震える声で冴木さんは絞り出すようにそう呟いた。
その言葉に、俺は何も答えられない。
何故ならば、俺は気がついてしまったから。
俺はずっと水川のことばかりを考えていた。そして、冴木さんは俺や水川のことを思って矢面に立ってくれている。だけど、本当に俺が傷つけているのは水川だけでないのだ。こうやってヒール役でしか俺に接することのできない彼女のことも、俺は傷つけている。
ホント反吐が出るほどのクソ野郎だよな……俺は……。
「俺は……」
「…………」
俺は声を振り絞る。
「俺は、冴木さんのことを、異性として好きになることはできません……」
冴木さんは黙ったまま、俯いていた。
「何故ならば、俺が好きなのは……」
ちゃんと言わなければならない。これ以上に、彼女の気持ちを宙づりにしていたら、俺はどうしようもない屑野郎になってしまうから。
「俺は水川のことが好きです……」
たったその一言を口にしないがために、俺は二人の女の子を傷つけたのだ。
兄妹だとか、疑似カップルだとか都合のいい肩書を盾に俺はそのことから逃げていた。兄妹の愛だとかそんなものはただの詭弁だ。
俺は水川のいない生活なんて考えられなかった。水川がシンガポールに行くのも嫌だし、彼女が芸能界に入るのも嫌だ。そんな感情を俺は兄妹愛だなんてもののせいにして、のうのうと生活していたのだ。
兄妹ならば彼女が何をしようとしても、応援できたはずだ。少しくらい寂しくたって、彼女のことを思って、心から彼女のことを後押しできたはずだ。
だけど、俺にはできなかった。
自分にどれだけ言い聞かせても、俺は独善的にしかなれない。それは俺が彼女を手放したくないからだ。
そんなことに気がつくまでに、俺は二人の女の子をこんなにも傷つけた。だけど、これ以上、クソ野郎になるわけにはいかない。
「悪いけど、私は傷つくわよ……」
冴木さんはぽつりとつぶやく。
「私は都合のいい女ではないの。友一くんにフラれたら傷つくし、すぐに気持ちを切り替えられるほど頭は良くないの」
「わかっています。俺は冴木さんを傷つけたことから逃げません」
逃げてはいけないのだ。自分の手に入れるべきものを手に入れるために、誰かに気を遣ってはいけない。誰かを傷つけることから逃げてはいけない。
後ろめたさは、さらに人を傷つけるから。
俺は立ち上がる。
「俺、今日は帰ります……」
立ち上がった俺を冴木さんは見上げた。
「友一くんなんかには勿体ない、世界一いい女を逃したわね」
そう言って彼女はわずかに口角をあげる。
本当にどこまでも優しい人だ。だけど、彼女にこれ以上優しい言葉をかけるわけにはいかない。
「ありがとうございました。水川が優しい女の子になれたのは、きっとあなたみたいなお姉さんに恵まれたからだと思います」
俺は彼女に頭を下げると、彼女に背を向けて歩き出した。
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