第二十六話 エピローグ

 ついにこの日がやってきた。


空港……というよりは巨大なショッピングモールと呼んだ方がしっくりくる国際線の搭乗ゲートの前にいた。どうでもいいが、空港へ来るのはひどく久々だ。キャリーケースを持った日本人と外国人の入り乱れるその異様な空間に、やや戸惑いを覚えながらも水川の隣に立ち、目の前の父親と新しい母親を交互に見やる。


「お前、ホント火の始末だけは気をつけろよっ!! 家を出る前にはガスの元栓を確認するんだぞ?」


 感動のお別れシーンだというのに、父親はもう五度目の火の始末の忠告を俺にしてくる。どうやら父親が大学時代にやらかした、寝たばこによるボヤ騒ぎが相当なトラウマらしい。


「わかってるよ。ってか、俺タバコなんか吸わねえし……」


 と、これまた五回目の忠告に対する返答をして、俺は次に新しい母、涼花さんを見やる。


 本当に綺麗な人だ。父親なんかには到底もったいないくらいの美人だ。そりゃ、こんな人が母親なら、あんなに綺麗な娘が生まれるのも無理はない。俺は妙に納得してしまう。


「お母さん、向こうでも元気でねっ。私の誕生日には必ず戻ってきてね」


 と、水川が母親にお別れの挨拶をするのを横目に眺める。


 結局、俺の説得が功を奏したのか、水川は日本に戻ることになった。いやあ、かなり恥ずかしい思いはしたが、一件落着してよかった。涼子さんは愛娘の可愛い見送りに思わず笑みを浮かべると、彼女に歩み寄って彼女をぎゅっと抱きしめる。


 なんという絵になる光景だ。


 俺がそんな光景を微笑ましく眺めていると、父親が「友一……」と涼花さんの真似をして俺のもとへと歩み寄ってきたので、俺は『それ以上近づくとぶん殴るぞ』と目で訴えた。父親は「けっ、本当に可愛くない息子だぜ」と憎まれ口を叩く。


 俺は一瞬でも俺を抱きしめようとした父親に寒気を覚え、目の保養に再び涼子、水川親子のハグを見る。


 涼子さんはしばらく水川と抱き合っていたが、ゆっくりと体を放すと、今度は俺の方へと歩み寄ってくる。


 そして、


「なっ……」


 俺は唐突に涼子さんに熱く抱擁された。俺のペラペラの胸板に、なにやら巨大なマシュマロのような感触の何かが強く押し付けられ、俺はあっという間にすぐに沸く電気ケトルよりも早く沸点に到達する。彼女の首元から主張しすぎない程度の香水の香りがして、思わず卒倒しそうになる。


「あ、あの……」


「友一くん、優菜のこと可愛がってあげてね。あの子は本当はすっごく甘えん坊さんだから、目いっぱい甘えさせてあげてね」


「は、はい……」


 耳元で涼子さんは囁く。耳の中で涼子さんの色気のある声が鼓膜を震わせ、本当にもう……どうにかなってしまいそうだ。


 が、それと同時に水川を自分に預けてくれるのが少し嬉しかった。水川は涼子さんにとっては、目に入れても痛くないほどに可愛い愛娘のはずだ。そんな娘を任せてくれたということは、ある一定の信頼をしてもらっているということだ。彼女の期待を裏切らないようにしなければ……。


 俺は堅い決心を持って頷いた。


「だけど、避妊だけはちゃんとしてね」


「おいっ!!」


 と、思わず突っ込んでしまった。


 どうやらこの人は根本的なところで、何か大きな勘違いをしているようだ。愕然としていると、彼女は俺から体を放してクスクスと笑う。


「半分冗談よ。本気にしないで」


「半分って何ですか……」


 娘たちが俺をやたらとからかうのは、どうやら彼女のせいらしい。本当にこの人はとんでもないことを娘たちに遺伝させてくれた。


「ま、まあ、とりあえず水川と俺のことは心配しなくても大丈夫です。あくまで健全に二人仲良く暮らしていきますので」


 必死に彼女の誤解を訂正しつつ、そう答えると涼子さんはにっこりと笑って「約束だぞ? 可愛い私の息子」と俺の頬をツンツンつついた。


 涼子さんは腕時計を見やる。


「そろそろかしらね」


 そう言って父親を見やった。俺もまた父親を見やる。


「ま、まあなんだ。風邪とか引くなよ」


 と、一応は父親に言ってみたが、直後、猛烈に寒気がした。やっぱり、父親相手にしみったれた挨拶は生理的に無理だ。


 父親は柄にもないことを言った俺を、何やらニヤニヤとしばらく眺めていたが、何も答えずに搭乗ゲートへと歩いていった。涼子さんもまた、父親の後を追おうと、俺たちに背中を向けようとした。が、その直前に不意に動きを止めて、少し驚いたように大きく目を見開いた。その視線は俺たち……ではなく、俺たちのもっと後方へと向いているように思えた。

 そんな涼子さんに俺と水川は首を傾げながら顔を見合わせる。

 涼子さんへと視線を戻すと、彼女は何やら嬉しそうににっこりと微笑んでいた。


「お母さん、どうかしたの?」


 水川がそう尋ねるが、涼子さんは笑みを浮かべたまま、ゆっくりと首を横に振った。


「じゃあ、みんな元気でね」


 そう言って涼子さんは父親の後を追いかけ、そのまま搭乗ゲートへと入っていった。


 俺はしばらくその光景を眺めてから水川を見やる。


「じゃあ、帰るか」


「そうですね」


 俺と水川は二人並んで空港を後にしようとした。が、不意に水川は足を止めると「あっ……」と小さく呟いた。彼女の視線は前方遠くへと向いている。


「本当に素直じゃない人だから……」


 そう言って水川はクスクスと笑う。


「どうかしたのか?」


「いえ、恥ずかしがり屋さんを一人見つけただけです」


「恥ずかしがり屋?」


 俺が首を傾げると水川は優しく微笑んで首を横に振った。


「なんでもないです」


 そう答えるので俺は深く尋ねないことにした。きっと口にするのは野暮なことなのだろう。


「それよりも先輩、今日は何が食べたいですか?」


 と、話題は夕食の話になった。


「別になんでもいいよ。お前だって今日は遠出で疲れただろ?」


「言ったでしょ。女の子に何でもいいは禁句ですよ」


「そう言われてもなぁ……」


 俺は頭を悩ませる。そして、ふと頭に浮かんだものを口にした。


「カレーライスがいいな」


「またカレーですか?」


「美味いんだからいいだろ。まあ、別のでもいいけど……」


 自分の子供舌に辟易していると、水川はゆっくりと首を横に振った。


「いいですよ。じゃあ、今夜はカレーにしましょう」


 そう言って再び歩き出した。


 彼女の背中は小刻みに震えていて、笑いをかみ殺しているのがバレバレだった。

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