第十話 自然な笑顔

 その後、しばらく休憩を挟んで撮影は再開された。いつの間にか水着に着替えていた片岡紗々はカメラマンの指示通りにポーズを取ったり、表情を変えたりと、さすがはプロと言った感じで、そつなく仕事をこなしていく。


 俺には無理だな……。


 まあ、それ以前に俺の写真に需要はないけど。


 相変わらず、俺の背中に身を隠していた水川は憧れのまなざしで撮影を眺めていた。時折、小さな声で「かわいい……」と囁く彼女の声が聞こえる。


 そして、


「はい、以上で本日の撮影は終了です。皆様、お疲れ様でした」


 現場監督らしき男の声がスタジオに響き渡ると、他のスタッフたちも「お疲れ様でした」と近くのスタッフに声を掛け始める。


 どうやら撮影は終わったようだ。片岡紗々もベンチコートを羽織ると、監督らしき男のもとへと歩み寄ってぺこりと頭を下げた。


「終わったみたいだな……」


「そうみたいですね……」


 俺と水川が顔を見合わせる。


 が、


「ううん、本番はこれからよ」


 と、そんな俺たちの前に立つ廣神さんがにっこりと笑う。


「本番……ですか?」


 俺が首を傾げると、廣神さんは「そうよ。ちょっと、そこで待ってて」と言い残して、監督の方へと歩いていく。そして、彼女は監督の耳元でしばらくひそひそと話すと、また俺たちのもとへと戻ってくる。


「じゃあ、始めようかしら」


「始めるって何をですか?」


「決まってるじゃない、撮影よ」


「はあ?」


 何を言い出すかと思えば、突然、そんなことを言い出す廣神さん。いや、こいつはいったい何を言ってるんだ……。


「じゃあ優菜ちゃん、こっちにおいで」


 そう言って俺の背中に隠れていた水川の手を握ると廣神さんはスタジオの奥へと歩いていくので、俺も後を追う。


「ちょ、ちょっと待ってください……。私はただ見学に……」


 廣神さんに手を引かれながら水川は困惑したように彼女を見上げる。


「見学は今終わったでしょ? だからこれから撮影よ」


「さ、撮影って私はただ……」


 困惑する水川。


「大丈夫よ。相手方にも事務所にもちゃんと話はつけてあるから。せっかくだから、撮影の雰囲気を味わってみればいいわ。楽しいかどうかなんて、やってみないとわからないでしょ?」


「そ、そうかもしれないですけど……」


「じゃあ、スタイリストさん、事前に話した通り彼女をお願いね」


 そう言うと廣神さんは水川をスタイリストらしき女性に託した。


「あなたは、私とここで見学よ」


 そう言って廣神さんは折り畳みチェアの前で俺を手招きした。


 なんだかよくわからないが、俺たちは廣神さんの望む方向へとどんどんと誘導されているような気がする……。



※ ※ ※



 しばらくすると、水川が再びスタジオへと戻ってきた。


「…………」


 その姿を見た俺は思わず言葉を失う。


 水川はスタイリストに連れられながら、純白のウエディングドレス姿でこちらへと歩いてくる。彼女はその非日常的な衣装に、恥じらうように頬を染めたまま俯いている。


「やっぱり私の目に狂いはなかったわね……」


 隣の折り畳みチェアに腰掛けた廣神さんは、そんな水川を見て満足げに笑みを浮かべる。


「ってか、本当にいいんですか?」


「何の話かしら?」


「撮影はもう終わったんでしょ? それなのに素人水川にこんな格好させて……」


 これはプロの撮影現場でお遊びではないのだ。そんな場所で、気軽にウエディングドレスを身に纏って、撮影だなんてあまりにも軽率な気がしてならなかった。


 が、俺の疑問に廣神さんは首を横に振る。


「普通ならばありえないわね。だけど、私は水川優菜の才能が、芸能界を旋風すると確信しているわ。この才能をみすみす逃すわけにはいかないのよ。彼女がその気になってくれるなら、私も事務所も本気で彼女をバックアップするつもりより」


「…………」


 どうやら廣神さんの意思は本気のようだ。俺には正直、芸能界がどういうものなのかなんてわからないし、知るつもりもない。が、大手の芸能事務所でそれなりの地位にいる廣神さんがここまでするのだから、きっと彼女の才能とやらは相当なものなのだろう。


 現に、ウェディングドレスを身に纏った水川は、いつもそばにいる俺が見ても、思わず息をのむほどに輝いていた。


「はい、じゃあこれを持って、そこに立ってね」


 スタイリストに花束を持たされた水川は緊張のあまり棒立ちで、カメラの前に立っていた。


 そんな彼女にカメラマンがファインダーから顔を離すと、彼女ににっこりと微笑む。


「優菜ちゃん、難しいかもしれないけど、ちょっと笑ってみようか」


 どうやら表情が硬いようだ。カメラマンの言葉に水川はわずかに口角をあげてみるが、どうも不自然だ。


 カメラマンは少し困ったようにあたりを見渡した。そして、俺を見つけると手招きをする。


「彼氏くん、ちょっとこっちに来てくれる?」


 どうやら俺を呼んでいるらしい。


「彼氏じゃないです」


 そう答えるとカメラマンの男は「そうなの? まあいいや。とりあえずこっちに来て」と相変わらず俺を手招きした。


 俺はしぶしぶ立ち上がるとカメラマンのもとへと歩み寄る。


「せっかくだし、きみが撮ってみなよ。その方が彼女の緊張もほぐれるだろうし」


「いや、俺には無理でしょ」


「大丈夫だよ。遊びで撮ってるだけなんだし」


 そう言ってカメラマンはアシスタントの女性を手招きすると、何やらひそひそと指示を出す。


 アシスタントの女性は「わかりました」と答えると、バッグから三脚を取り出すとカメラをそこにセットする。


「彼氏くん、ちょっとこれ持ってて」


 そう言ってカメラマンは固定されたカメラから伸びる黒いコードを俺に手渡す。


 あと、俺は水川の兄だ……。


「それはシャッターを切るためのボタンだから。俺がハイって言ったらそのボタンを押してね」


 ボタンのようなものを俺に手渡すと、カメラマンは水川のもとへと歩み寄ると、彼女の肩を掴んで、少し右へと移動させる。そして、ポケットからスマホサイズの謎の道具を取り出すと、何やらそれを弄る。


「じゃあ彼氏くん。きみは彼女の自然な笑顔を引き出すのがお仕事だ。頼んだよ」


「いや、頼んだよって言われても……」


 シャッターを持ったまま、途方に暮れる俺。水川は相変わらず頬を真っ赤にしたまま俺から顔を背けていた。


「なあ、水川」


「なんですか?」


「自然な笑顔らしいぞ」


「そ、そんなこと言われても、わかんないです……」


 と、顔を背けたままそう答える水川。彼女が自然な笑顔を見せるまで撮影は終わらない。が、俺には彼女の笑顔の引き出し方なんてわかりっこない。


「教えてあげよっか?」


 と、そこで耳元で誰かが囁いた。突然の声に思わず俺は「ひゃっ!?」と短い悲鳴をあげる。するとそこにはにっこりと微笑む片岡紗々の顔があった。


 突然、現れた美少女の顔に俺は思わず目を見開く。


 可愛い……なんて可愛い顔をしてるんだこいつは……。目の前で見る芸能人の顔はあまりタレントに興味のない俺の度肝すら抜くほどに、垢抜けている。


「彼女の笑顔、私が引き出してあげるよ」


 呆然とする俺に片岡紗々は、なにやら悪戯な笑みを浮かべると、ポケットから何かを取り出した。


「なんだよ、それ……」


「見てわからない? マジックだよ」


 そう言うと片岡紗々はマジックペンのキャップをポンと抜くと、おもむろにそれを俺の顔へと伸ばす。


 そして、


「クスクスっ……完璧だよ。その顔ならきっと彼女の笑顔を引き出せるはず」


 彼女はしばらく、俺の顔にマジックでお絵描きをしたあと、満足げにそう言ってマジックにキャップをする。


 なんか嫌な予感しかしないんだが……。


 俺は再びシャッターを片手に水川を見やった。水川は相変わらず緊張したまま棒立ちをして俺から顔を背けていた。


「優菜ちゃん、カメラを見て」


 片岡紗々は俺の傍らに立って、水川を呼んだ。その言葉に水川は恐る恐るこちらへと顔を向ける。


 そして、俺の顔を見た瞬間に、クスッと思わず笑みを漏らす。


「ちょ、ちょっと先輩、なんですか、その顔」


 と、言ったその時だった。


「今だよ」


 と、そばに立っていた片岡紗々はシャッタを握っていた俺の手を覆うように自分の手をかぶせた。そして、俺の親指の上からカシャッ!! とシャッターを切り、まばゆい閃光が一瞬、あたりを照らした。


「はい、完璧っ」


 片岡紗々は満足げに笑みを浮かべた。

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