第四話 アルバイト

 我が家には水川優菜ちゃんという女の子が同居しています。そして、俺には彼女の行動原理というものが理解できません。


 朝、寝室のベッドで目を覚ました俺は、二の腕に謎の締め付けを感じた。この時点で、俺は自分の身に何か異変が起きたことを察していた。そして、俺の自信を確信に変えるために、締め付けられた左腕を見やると、そこには案の定、俺の腕に体を巻きつけながら、気持ちよさそうに小さな寝息を立てる水川の姿があった。


 少なくとも、昨夜、彼女のダンスをぼーっと眺めていた俺は、練習後、彼女とは別々の寝室に入った記憶がある。つまり、彼女は俺が眠りに落ちた後に、ここへとやってきたようだ。


 俺が、腕を固定され身動きが取れないでいると、彼女の瞼がピクピクと動いた。


「ん……」


 と、わずかに吐息を漏らしてから、水川はゆっくりと目を開いた。


「先輩……寂しくてベッドに入ってきちゃったんですか?」


「いや、ここは俺の部屋だよ。入ってきたのはお前の方だ」


「え? そうでしたっけ? まあ、細かいことはどうでもいいじゃないですか」


 そう言ってにっこりと微笑むと、俺の二の腕に頬を押し付ける。どうやら彼女は俺の腕を抱き枕か何かと勘違いしているようだ。


 こいつは何が面白くて俺をからかってるんだ?


 俺にはわからないが、低血圧気味の俺には反応する元気もないので、なされるがままになる。


「先輩の腕、ぬくぬくで気持ちいいです……」


 そう言って頬をすりすりする水川。


 あ、ちなみに季節は夏だ。俺は密着する水川に、やや暑苦しさを感じながらも、上体を起こす。すると、腕に引っ張られて水川も上体を起こした。


 俺は寝ぼけ眼を擦りながら、目覚ましを見やった。時刻は午前九時だ。平日だったら遅刻確定だが、今日は土曜日、なんならもう一眠りしてもいいぐらいだ。が、水川にこんなに密着されながら二度寝をする勇気は俺にはないので、とりあえず、ニュースサイトでも眺めながら目を覚まそうとスマホに手を伸ばしたのだが。


 ん?


 スマホの待ち受け画面に表示されていた時刻を見て首を傾げる。画面には午前九時半と表示されている。


 どうやら目覚ましが狂っているようだ。


 目覚ましを手に取ると、俺は裏側のつまみを回して時間を合わせる。


「どうかしたんですか?」


 そんな俺を水川は不思議そうに眺める。


「時間が狂ってたんだよ。もしかしたら電池変えないとだめかもな」


 何気なく、そう答えると水川は驚いたように目を見開いた。


「ど、どうかしたのか?」


「先輩、今何時ですか?」


「はあ? ……九時半だけど……」


 そう答えると水川の顔が真っ青になった。


「どうかしたのか?」


「や、やばいです。遅刻しそうです」


 水川はそう言ってベッドから飛びあがると、慌てて手櫛で乱れた髪を直す。


「おいおい、今日は土曜日だぞ?」


「だからマズいんですっ!! 今日はアルバイトの初日なんですよっ!!」


「バイト? 何の話だよ……」


 寝耳に水なその情報に首を傾げると、水川は一瞬だけ、何かまずいことを聞かれたように目を大きく見開いたが、すぐに笑みを浮かべる。


「お、女の子はおしゃれを維持するために、色々とお金が必要なんです。だから、アルバイトすることにしたんです。仕送りはあくまで生活をするためのお金なんで」


 そう言うと水川は自室へと戻っていた。ドアの閉まった彼女の部屋からバタバタとしばらく物騒な物音がして、五秒後、ワンピース姿の水川が部屋から出てくる。


 プリンセステンコーかよ……。


 その早変わりに唖然とする俺だが、水川の方は油を売っている余裕はないようだ。


「じゃあ、私、言ってきますね」


 そう言うと玄関へと走っていく。


「おう、車に気をつけろよ」


 が、しばらくしてまたドタドタと足音が聞こえて、彼女が俺の部屋を覗き込む。


「先輩、朝ごはんと昼ごはんは冷蔵庫に入っているんで、チンして食べてくださいね」


 そう言って笑みを浮かべると今度こそ彼女は家を出て行った。マンションの廊下をドタドタと駆けていく彼女の足音が窓越しに聞こえてくる。


 そんな慌ただしい彼女にすっかり目が覚めた俺は、ベッドから降りる。そして、頭を掻きながらリビングへと歩いていくと、ふとテーブルの上に見覚えのある物が目に入った。


 これって……。


 それはお弁当箱だった。水川が普段高校に持って行っている物だ。


「…………」


 しばらく弁当箱をぼーっと眺めていた俺だったが、ふと気がついた。


「これって、持って行かなきゃいけない物じゃないのか……」



※ ※ ※



 それから一時間後、俺は最寄駅から二駅離れた市街地にある、とある猫カフェの前にいた。


 水川のバイト先だ。


 彼女が弁当箱を忘れたとき、俺は彼女のバイト先がどこなのかわからず、途方に暮れていたが、しばらくして弁当箱の横にクリアファイルに挟まれた書類を発見した。おそらく、これも彼女が今日、持っていく予定だったものだ。雇用契約書らしきその書類には、ご丁寧に店名も書かれており、俺はそれを頼りにここまでやってきたのだ。


 が、


「…………」


 店のドアに触れた俺は、何とも言えない躊躇いを覚えた。


 俺は猫カフェなどという空間に入ったことは生まれて一度もないのだ。そんな俺にとって男が、それもおひとり様で猫カフェに入るという行為に、偏見まみれの躊躇いを覚えた。


 が、入らないわけにはいかない。


 俺を意を決して、ドアを開けるとカランコロンとドアについたベルが鳴り、心臓が凍るほど驚いた。


「いらっしゃいませ」


 と、直後、店の奥から声が聞こえ、そちらを見やると、よく見知った女がこちらへと歩いてくる。


 水川だ。彼女は猫の詩集の付いたエプロンを身にまとっており、俺の姿に不思議そうに首を傾げている。


「あれ? 先輩、もしかして私のことをつけてきたんですか?」


「んなわけねえだろ」


「じゃあどうしてここがわかったんですか? もしかして、私の匂いを頼りに……」


 と、相変わらずの調子で俺をからかってくるので、俺は弁当箱と書類の入ったファイルを彼女に差し出す。


「ほら、これがなきゃ困るだろ?」


 と、そこで水川はハッとした顔をする。そして、笑みを浮かべると、俺を見上げた。


「もう、先輩ったら、優しいんですから……」


 そう言って弁当と書類を受け取るので、俺は早々に踵を返す。


 が、


「ちょ、ちょっと待ってください」


 と、彼女が俺の腕を掴む。


「まだ、何か用か?」


「せっかくですから、コーヒーでも飲んで行ってくださいよ。お金はお礼に私が出しますから」


「いや、それは……」


 偏見だとわかっていても、男の俺に猫カフェでおひとり様をする勇気はなかった。


 俺が、躊躇いの表情を浮かべていると、何かが俺の足元で動いた。視線を下ろすとそこには一匹の三毛猫が俺の足の匂いを嗅いでいた。


 それを見た水川がニヤリと笑みを浮かべる。


「ほら、メルちゃんも先輩と一緒にいたいって言ってますよ」



※ ※ ※



 結局、俺は猫カフェで水川にコーヒーをご馳走されることになった。彼女に案内されて椅子に腰を下ろすと、あたりを見渡す。


 店内にはまばらではあるが、何人か客がいた。店のいたるところに猫が放し飼いされており、客たちは寄ってきた猫を愛でている。


 それにしても……。


 女性しかいない……。


 たまたまかもしれないが、店内には女性客しかおらず、なんだか入ってはいけないところに入ったような気がして少し居心地が悪かった。


「クスクスッ……よしよし……」


 すぐ隣のテーブルに座っている女子高生に目をやった。彼女の制服は確か隣町の高校のものだ。彼女は、足元によって来た太めの猫を撫でながらクスクスと笑っていた。


「ブブさんみたい……」


 と、わけのわからないことを言いながら猫を愛でる彼女を眺めていると、彼女は不意に俺の視線に気がついたようでこちらを見やる。そして、何やら恥ずかしそうに頬を染めると、恥ずかしさを誤魔化すようにコーヒーを口につけた。俺も俺で慌てて彼女から視線を逸らす。


「先輩、お待たせしました」


 そう言ってエプロン姿の水川がテーブルにコーヒーを置いた。そして、その隣に猫の顔の形をしたクッキーを置いた。


「これは店長からのサービスです」


 店の奥を見やると、バンダナを巻いた中年の男性が俺に向かって親指を立てていた。


 どうでもいいけど、目力がすげえなこのおっさん……。


 俺は軽く会釈をすると、コーヒーに口をつける。


「先輩、どうですか?」


「どうって何がだよ」


「決まってるじゃないですか。このエプロンですよ」


 そう言うと水川はふふっと笑って、エプロンの裾を摘まんだ。


 どうやらエプロン姿の水川を評価しろということらしい。


 そりゃ可愛いさ。猫のエプロンは水川によく似あっていたし、珍しくカチューシャを付けている彼女も、なんだか新鮮だった。が、感想をそのまま口にするとなんだか負けた気がするので、俺は彼女から目線を逸らすと、


「可愛いよ。エプロンがめちゃくちゃ可愛い」


 そう答えると水川は唇をツンと尖らせる。


「なるほど、そう来るわけですね」


「お前がエプロンがどうだと聞いたから可愛いって言っただけだ」


「私、先輩のことちょっと嫌いになりそうです……」


 と、彼女はしばらく俺を恨めしそうに眺めていたが「す、すみません……」と隣のテーブルから彼女を呼ぶ声が聞こえたので、「はいっ」と営業スマイルを浮かべると、隣のテーブルの女子高生のもとへと駆け寄る。


「あ、あの……チェ、チェキ取りたいんですが……」


 と、膝に太った猫を乗せたその女子校生は、少し恥ずかしそうに水川にそう頼む。どうやら、猫と一緒にチェキを撮るサービスもやっているようだ。水川はエプロンの大きなポケットからチェキを取り出すと、女子高生にカメラを向ける。


「はい、じゃあ笑ってください」


 そう言われ女子高生は頬を赤らめると、わずかに口角を上げた。


 水川の姿を眺めながら、俺は妙に安心する。


 上手くやってるじゃん……。


 なんというか、いつも俺のそばにいた水川が、他の人と接している姿はなんだか新鮮だった。


 女子高生の膝に乗った猫は、カメラを向けられていることなどお構いなしに、垂らしたしっぽをゆらゆらさせながら、大きなあくびをした。

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