第六話 先輩殺しと後輩殺し
すっかり忘れていたよ。この数分間の水川との会話ですっかり忘れていた。
俺は恐れ多くも学園のアイドル水川優菜と二人で登校していたこと。そして、その姿を多くの男子生徒が見ていたこと。さらにはこの高校では彼女の一挙手一投足が常に情報共有されていること。
そのことをすっかり忘れていた。
そう言えば俺は処刑台の階段を登っていたんだ……。
そのことに気がついた瞬間、俺の足がガクガクと震えだす。
当然だ。何せ前回は水川とげた箱の前で少し会話しただけで、長谷川からあそこまで詰問されたのだ。今回は一緒に登校してげた箱前でも長時間会話の欲張りセットだ。ちょっとやそっとでは言い逃れできるわけもあるまい。
俺は死を覚悟して一歩また一歩と教室へと歩いてく。
もう終わりだ。
俺は教室の扉に震える手を伸ばした。
ガラガラ。
「きゃっ!!」
扉を開けた瞬間、俺は何か柔らかいものに衝突した……ことに気がつくや否や、俺はバランスを崩してその場に尻もちを着く。
「いててて……」
廊下のコンクリートの床に尻を強打してめちゃくちゃ痛い。
「ご、ごめんね。大丈夫っ!?」
そんな声がして顔をあげると、そこには一人の女子生徒が立っていた。
まず目がいったのは、プリーツのスカートから伸びる長い脚。少し視線をあげるとブレザーを内側から圧迫する大きなバスト。さらに視線を上げると大きな瞳と、そこから伸びる長い睫毛。
そこに立っていたのは、水川に負けず劣らずの美貌を持つ女子生徒だった。
そして、俺は彼女の名前を知っている。
冴木涼花。
俺の記憶が正しければ、彼女は俺よりも一つ年上の三年生で、男子生徒からは『後輩殺しの微笑み天使』と呼ばれる、水川と並んでも唯一モブキャラに降格しない美少女だ。
「だ、大丈夫っ!? 怪我はない?」
俺が呆然と見惚れていると、冴木涼花は心配げに俺を見つめる。
「え、あ、大丈夫……ですけど」
「一人で立てるかしら、よかったら掴まって」
微笑みの天使はそう言って俺に真っ白い手を差し伸べる。が、さすがに彼女の手に触れるのは申し訳ない気がしたので、自分で立ち上がる。
「あら、いけないわ。擦りむいてるじゃない」
そう言って冴木さんはおもむろに俺の右手へと手を伸ばした。彼女の白い手にごつごつとした手が包み込まれる。
どうでもいいが、彼女から漂ってくるフローラルな香りの正体は何なのだ……。
冴木さんは俺の右手を掴んだまま心配そうに傷口を眺めていた。
確かに彼女の言う通り、地面に手を着いたときに掌をわずかに擦りむいたようだ。が、大した傷ではない。
「大丈夫です。これぐらい放っておけば治ります」
「ダメよ。ばい菌が入ったらいけないわ。消毒しましょ?」
彼女はそう言って鞄から小さな巾着袋をとりだすと、その中から消毒薬と絆創膏を取り出した。
「ちょっと染みるけど大丈夫よね? 男の子だもんね」
と、彼女はまるで俺を五歳児と勘違いしたような物言いで、傷口に消毒薬をぽたぽたと数的落とすと、その上から絆創膏を貼ってくれた。
「ごめんね。私ったら、ちゃんと周りを見ていなかったから……」
「いえいえ、こちらこそ周りを見てなくて申し訳ないです」
さすがは後輩殺しだ。彼女の一挙手一投足は母性に満ち溢れており、思わずこんな姉がいれば、なんて幻想を抱いてしまう。
「岩見くん……だったわよね?」
「え?」
思わず目を見開く。驚くことに彼女は俺の名前を知っていた。
そこで冴木さんは初めて笑みを浮かべる。
「驚かせちゃったかしら? だけど、最近あなたの話を耳に挟むものだから……」
「俺の噂ですか?」
「ほら、うちの男の子は色々と噂話が好きでしょ?」
ようやくピンと来た。どうやら彼女は水川のことを言っているらしい。
俺と水川の噂は既に男女問わず、この学校の生徒には周知の事実のようだ。
いや、本当にここの生徒は脳をリンクしてるんじゃないかと本気で心配になってくる。
俺が苦笑いを浮かべていると、冴木さんはふと腕時計に目を落してはっとする。
「いけないわ。そろそろホームルームが始まっちゃう」
そう言って冴木さんは一度俺に微笑みかけると「じゃあまたね」と小さく手を振ってその場を立ち去った。
俺はそんな彼女の背中にしばらく見とれていたが、不意に教室で繰り広げられるであろう異端審問会のことを思い出し、緊張感がよみがえってくる。
ん? ちょっと待てよ……。
が、不意にある疑問が頭に浮かぶ。
いったいどうして三年の冴木さんが、二年の教室から出てきたんだ?
いやいや、そんなことはどうでもいい。俺は頬をパンパンと叩くと教室へと足を踏み入れた……のだが。
え?
俺の目の前に広がっていたのは、いつも通りの教室の光景だった。
いや、当たり前と言えば当たり前なのだが……。
男子生徒の殺気に満ち溢れた空間を想像していただけに、少々、いやかなり拍子抜けだった。
「おう、岩見おはようっ!!」
と、そこへ長谷川が俺のもとへと駆け寄ってきた。長谷川は俺の前に立つと何やら不思議そうに俺の顔を眺めていた。
「なにぼーっと突っ立ってんだよ。早くしねえとホームルーム始まるぞ?」
「お、おう……」
俺は狐に摘ままれたような気持ちで長谷川に言われるがままに自分の席へと歩いていく。
結局、長谷川から何一つ水川について追及されることなく、俺はホームルームを迎えた。
※ ※ ※
驚くことに昼休みを迎えてもなお、生徒たちは誰一人として俺に対して水川とのことを追求してくるものはいなかった。
もちろん、そっちの方が俺としてもありがたいのだけど、少々不気味でもある。俺はあえて深く考えることはせずに、昼休みの教室を飛び出した。
俺がやってきたのは放送室だ。
放送室のドアをノックすると中から「どうぞ」という声が聞こえてきたので、そっとドアを開ける。
すると仰々しい放送機材が無造作に置かれた放送室のど真ん中のパイプ椅子に腰を下ろした水川の姿を見つけた。
「部外者の俺が入っても大丈夫なのか?」
「大丈夫です。今は私しかいませんので」
そう言って水川は俺を手招きする。
機材にぶつからないように水川のもとへと歩み寄ると、彼女は隣のパイプ椅子を指さした。どうやら、ここに座れということらしい。
実は今朝、一緒に昼飯を食おうと水川に誘われていたのだ。俺としては必要以上に噂を広めたくなかったので二の足を踏んでいたのだが、来なければお弁当は没収ですと言われやむなくやってきた。彼女は既に昼の放送を終えており、どうやらこれから昼食を取るようだ。
「ちょっと狭いですけど、ここで食べましょう」
水川は机の上にお弁当を広げる。俺も鞄の中から弁当箱を取り出すとそこに広げた。
「他の部員はどうしたんだ?」
「もう教室に戻りました。って言っても部員は私と部長の二人だけですよ?」
意外だった。何せ彼女は学園のアイドル水川優菜なのだ。彼女が放送部に入ったと聞いたら、彼女目当てにぞろぞろと男子生徒が集まってきそうだが。
と、そこで水川はお得意の悪戯な笑みを浮かべる。
「部長の性別、気になりますか?」
「は? なんで」
「別に、ちょっと聞いてみただけです……」
そう言って水川は何故か不満げに口を尖らせる。
どうやら今のは俺を試していたらしい。
が、すぐにいつもの笑顔に戻ると水川は弁当箱を開いた。
「なんじゃこりゃ……」
「なんじゃこりゃ……ってお弁当ですけど……」
なんというか水川の弁当は凄かった。楕円形の弁当箱には色とりどりの惣菜が所狭しと詰まっており、とても高校生が作ったとは思えない出来栄えである。そして、彼女の宣言通り俺の好物も抑えてある。
「もしかして苦手なものでも入ってました?」
水川は不安げに俺を見つめる。
「いや、逆だよ。めちゃくちゃ美味そうだよ。ほら、俺って父子家庭だったから、人の作った弁当を食うのなんて十年ぶりぐらいなんだよ」
そう答えてやると水川は安堵したように笑顔を取り戻した。
俺は「いただきます」と手を合わせると早速、弁当に箸を伸ばす。
まずはウィンナーだ。
「美味いっ」
美味い。とんでもなく美味い。俺が普段美味い物を食っていないからなのかもしれないが、彼女の味付けはどれもこれも俺の好みをばっちりと抑えていた。
思わず夢中で箸を伸ばす。
「そんなに急いで食べると消化に悪いですよ」
「すまん。けど箸が止まらない」
無我夢中で弁当を頬張る俺を水川は満足げに眺めていた。せっかくの水川の忠告だったが、箸のスピードは緩めることができず瞬く間に弁当箱は空になった。
「え? もう食べちゃったんですか?」
「すまん……」
さすがの水川も俺の食うスピードに少々困惑しているようだった。
「こんなに美味い弁当を食ったのは初めてだ」
そう言ってやると水川は「お粗末様でした」と頭を下げた。
俺は早々に弁当を平らげたせいでやることがなくなってしまう。水川はそこでようやく弁当へと箸を伸ばす。が、ウインナーを掴もうとしたとき、不意に俺の視線に気がつき顔をあげる。
「食べたいですか?」
「いいのか?」
「ええ、私は小食なので全部食べ切るのは、ちょっと辛いです」
そういうことなら。
俺は遠慮なくウィンナーを頂こうと箸を弁当箱へと伸ばす。
が、その直前に水川は弁当箱の蓋を閉めてしまう。
「ウィンナーをあげるんで、私のお願いを一つ聞いてください」
「お願い? よくわからないけど、俺にできることなら」
そう答えると水川はにっこりと俺に笑みを向ける。
「私のこと、優菜って呼んでください」
「なっ……」
予想外の要望に俺は言葉を失う。
「私たちは兄妹になるんですよ。いつまでも私のことを名字で呼ぶのは変だと思うんです。それに私、もうすぐ水川じゃなくなりますし……」
確かにそうだ。だけど、彼女を名前で呼ぶのはなんというか……かなり勇気がいる。
「呼ばなきゃ、食わせてくれないのか?」
「食べさせません」
そう言ってお得いの悪戯な笑みを浮かべる。
「どうしてもか?」
「まあ先輩もいきなり名前で呼ぶのは抵抗があるでしょうから、せめて昼休みの間だけでも名前で呼んでください」
「…………」
困った。が、俺に選択の余地はなさそうだ。
「なんというかその……」
「なんというかその?」
「ゆ……ゆ……ゆう……」
ダメだ。俺の羞恥心が必死に抵抗してくる。が、彼女を名前で呼ばなければウィンナーは手に入らない。
「先輩、もっとはっきりと言ってください」
俺は一度深呼吸をして、覚悟を決める。
「優菜、そのウィンナーを俺にくれないか?」
そう言った瞬間、頭に血が上る。おそらく顔は真っ赤になっているに違いない。
水川はそんな俺をしばらくじっと見つめていた。
が、不意に耐え切れなくなったようにクスクスと笑った。
「クスッ!! わかりましたよ。私の負けです。食べてください」
そう言って弁当箱の蓋を開けると、箸でウィンナーを器用に摘まみ上げて、俺の弁当箱に入れた。俺は顔を真っ赤にしたまま、ありがたくウィンナーを頬張った。
美味い……けど、恥ずかしい……。
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