第五話 小悪魔美少女と初登校

 ああ、終わったよ。完全に終わった。


 マンションを出た俺と水川は、当然ながら二人揃って学校へと向かうこととなってしまった。自分の隣を学園一可愛い女の子が歩くという、多くの男子生徒にとっては羨ましくてしょうがないこんな状況も、今の俺にとっては絶望しか感じない。


「おい見ろよ。水川さんが男と歩いてるぞ」


「隣にいる地味な男は誰だよ」


「あれって、二年のなんとかっていう地味な男子だよな」


「もしかして水川さん、あんな地味な奴と付き合ってるのか?」


「いや、さすがにそれはありえないだろ。ってことはパパ活か何かか?」


 と、周りを歩く男子生徒たちのひそひそ話が漏れ聞こえてくる。きっとこの情報も男子生徒専用メッセージで逐一共有されているに違いない。


 ということはつまり、この学校へと続く長い上り坂は絞首台へと続く十三階段に等しいとも言えよう。


 俺としては全く生きた心地のしない時間が過ぎていたが、隣を歩く水川にとってはただの何気ない一日に過ぎないらしく、涼しい顔をしている。


 が、そんな水川は不意に足を止める。


「先輩、ほっぺ」


 そう言って水川は自分の頬をつんつんと突く。


「え?」


「ほっぺにジャムがついてますよ」


 そこで俺はようやく彼女の言葉の意味に気がついて、手の甲で右頬を拭う。


「逆です。ちょっとこっちを向いてください」


 水川はブレザーのポケットに手を突っ込むと、ハンカチを取り出した。俺が彼女の方へと体を向けると、彼女はおもむろにハンカチを掴んだ手を俺の左頬へと伸ばす。


「おいおい、ハンカチが汚れるぞ」


「別に構いません。洗えばいくらでも使えるので」


「そうかもしれないけど……」


 水川はそう言って俺の頬に就いたジャムを拭った。彼女の暖かい手が俺の頬に触れて、俺は反射的に頬が熱くなる。


「妹相手に顔を赤くするなんて、先輩は悪いお兄ちゃんですね」


「っるせえなぁ……」


 顔を赤くしたまま彼女から視線を逸らすと、水川はそんな反応が可笑しかったのか、クスクスと笑う。


「先輩ってなかなか可愛い反応をしますね」


 そう言ってハンカチをポケットに仕舞うと、再び歩き始めるので、俺も足を進める。


「そういえば、そろそろ決めませんか?」


「決めるって何をだ?」


「昨日言ったじゃないですか、先輩の呼び方ですよ。先輩は先輩って呼ばれるのと、お兄ちゃんって呼ばれるの、どちらがいいですか?」


「いや、それは一緒に住むようになってからって話じゃなかったのか?」


「私たちすでに一夜を共にしたじゃないですか」


「その表現はいろいろと語弊があるぞ」


 あくまで一晩同じベッドで眠っただけだ。って言うと、それはそれでまた語弊があるな。あくまで俺と水川は仕方がなく一晩、同じベッドで睡眠を取っただけだ。その言葉に比喩のようなものは何もない。


「先輩はどちらがいいですか?」


「そんなこと言われてもな……」


「じゃあ試してみます?」


「試す?」


 俺が首を傾げていると、水川は俺を見上げて屈託のない笑みを浮かべる。


「先輩っ!!」


「は?」


「お兄ちゃんっ!!」


「なっ……」


 唐突にお兄ちゃんと呼ばれて、俺はまた頬が熱くなってしまう。少なくともうちの高校に彼女からお兄ちゃんと呼ばれて真顔でいられる奴は存在しないはずだ。


「どちらがよかったですか?」


 と、今度は水川が首を傾げる。


 確かに兄妹になる以上、先輩という呼称は少しおかしいような気もする。が、さすがに彼女からお兄ちゃんと呼ばれるのは平常心を保てる自信がない。


 だから。


「お前はどう呼びたいんだ?」


 だから、俺は決断から逃げることにした。


 俺がそう尋ねると水川は少し不満げに唇を尖らせる。


「それはズルいですよ」


「ズルくなんかないさ。俺をお兄ちゃんと呼ぶのも先輩と呼ぶのもお前の自由だ。お前が一番呼びやすい呼び方で呼ぶのが一番いいはずだ」


 水川は「う~ん……」と頭を悩ませる。


「究極の選択ですね……。私が先輩を落すためには先輩って呼ぶほうがいい気もしますし、かといって、お兄ちゃんって呼び方もなかなか捨てがたいです」


「なんで、俺を落す前提で考えるんだよ……」


「当然です。先輩が本当の意味で私のお兄ちゃんになるためには、私に絶対に落ちないか試す必要があるので」


「だから本末転倒だろ……」


 やっぱり彼女は根本的に何かを勘違いしているようだ。


「とりあえず保留ってことでいいんじゃないか?」


 俺はとりあえず妥協案を出すという、日本人的な回答をすることにした。


「う~ん……なんだか上手く逃げられた感はありますが、そうするしかなさそうです……」


 水川は少し渋い顔をして俺の妥協案を受け入れた。


「じゃあ、しばらくは先輩ってことで」


「ああ、それが一番平和的だ」


「お兄ちゃんっ」


「おいっ」


 突然の不意打ちに俺が目を見開くと、水川はまたクスクスと笑った。


 どうやら彼女は俺を困らせるのが大好きなサディスティックな女らしい。



※ ※ ※



 それから十分ほど歩いて俺と水川は学校へとたどり着いた。


 俺はげた箱へと歩いていくと、いつものように靴を履き替えようとするが、そこで俺は水川のげた箱が俺のげた箱の真向いだということに気がついた。


 彼女のげた箱をなんとなく眺めていると、直後とんでもない光景を目の当たりにした。


 バサッ!!


 水川がげた箱の扉を開けた瞬間、大量の封筒が彼女の足元に落下した。


 なんじゃこりゃ……。


 俺がその光景を愕然と眺めていると、彼女は足元にしゃがみ込んで封筒を丁寧に拾い上げる。


「なんだよそれ……」


 思わずそう尋ねると水川は「いつものことなので」と表情一つ変えずにすべての封筒を拾い上げて、それを鞄の中に入れる。


「本当にお前ってモテるんだな……」


 もちろん『先輩殺しの小悪魔美少女』という彼女の異名を忘れたわけではない。が、この二日間彼女と行動をともにして、少し感覚が麻痺していたのだ。俺は彼女の人気がただの学園のアイドルなどという言葉では言い表せない、とてつもないものだということに軽く戦慄する。


「ここまで人気があって、お前がまだ芸能界にいないのがむしろ不思議だよ」


「そういう話をもらったこともあります。ですが、私はあまり人前に出るのは好きではないので」


 もしかしたら日本の芸能界は、とんでもない才能を取り逃しているんじゃないか。彼女の人気を見ているとそんな気さえしてくる。


 どうやら彼女にとってはラブレターを貰うなんてことは日常茶飯事なことらしい。たった一通さえそんな物を貰ったことのない俺には、この状況に平然としていられる彼女が同じ人類であることすら疑わしくなってくる。


 それにしても……。


「そんな大量のラブレターを持って帰ってどうするんだ?」


 俺は素朴な疑問を口にする。


「どうするって、決まってるじゃないですか。読むんですよ」


「読むって、この量をか?」


 少なくとも足元に落ちたものだけでも、数十通はありそうで、そんなものを一通一通読んでいたら日が暮れてしまいそうだ。


「どなたが書いたものかは知りませんが、私に好意を抱いてくれて、書いてくれた手紙を読まないのは失礼ですし……」


「そうかもしれないけど……」


「アイドルの方だって、ファンレターは読むじゃないですか。それと同じですよ。かといってその好意に応えられるかどうかはまた別の話ですが……」


 どうやら学園のアイドルにもプロ意識というのは存在するらしい。


 俺は彼女の律義さに思わず感心してしまう。


「もしかして嫉妬してくれているんですか?」


「は?」


 不意に水川は悪戯な笑みを浮かべる。


「なんで俺が嫉妬しなきゃいけない」


 そう言うと水川は俺の前まで歩み寄ってくる。


「心配しなくても、私は先輩だけの妹ですよ」


「心配しなくても、そんな心配してないよ」


「それなら結構です」


 そう言って彼女は俺に背を向けると、教室へと歩いていく。


「なあ水川」


 そんな彼女を俺は思わず呼び止める。水川は珍しく、驚いたようにビクッと少しだけ肩を震わせるとこちらを振り向いた。


「どうかしましたか?」


「いや、別になんでもないけど……」


「そうですか。じゃあ、私もう行きますね」


「お前って案外優しいんだな」


 そう伝えると水川はその言葉が意外だったのか目を見開く。が、驚いた表情を隠そうとしたのか少しぎこちなく笑みを浮かべると首を傾げる。


「案外は余計ですよ」


「お前のことを『先輩殺し』だとか『小悪魔』だとかい言う奴がいるけど、俺はお前がそんな風に呼ばれるほど、ひどい奴じゃないと思ってるから」


 言ってから気がついた。たった今俺はとんでもなく恥ずかしいことを口にした。俺の顔がまたみるみる熱くなる。


 それを水川はしばらく驚いたように眺めていたが、またいつものようにクスクス笑う。


「あのなあ、恥ずかしいけど、俺は真面目に」


「優しいのは先輩の方ですよ」


 そう言うと水川は踵を返して、再び教室へと歩いていくが、どうやらバカ真面目な俺がおかしかったようでいつまでもクスクスと笑いながら、肩を震わせていた。

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