第二十五話 猫のために頑張る

 長谷川主導の水川優菜のサイン獲得作戦は、非情にも始業のチャイムにより阻止されることとなり、五分後にはうなだれた男子生徒たちがぞろぞろと教室へと戻ってきた。が、そんな彼らを眺めながら俺は妙な胸騒ぎを感じていた。どうやら、俺が思っていた以上に学内での水川優菜の人気は絶大なようだ。いや、もちろん彼女が人気者であることは知っていたが、もしかしたら、優菜のそばにいすぎた俺はそのことを忘れかけていたのかもしれない。


 俺はとりあえず優菜に、警戒だけはしておくようにメッセージを送っておいた。


 が、昼休みを迎えるころには、俺の言葉は学内を独り歩きしており、学内の多くの生徒が優菜のサインを求めて廊下にごった返していた。さすがにこのままではまずいと思った俺は、優菜の教室へと向かうが、それは有象無象によって阻止されることとなった。


 驚いたことに、片岡紗々と意図せずコラボを果たしてしまった優菜は、男子からのみならず、片岡紗々に憧れを抱く女子からも、注目の的となってしまったようだ。廊下を歩いていた俺は女子生徒たちから腕を引っ張られ、ちょっとした疑似トップスター体験をする羽目になった。


「ねえ、岩見くんって水川さんのお兄さんなんだよね?」


「お願い、水川さんと一緒にプリクラ撮りたいんだ」


「岩見くん、好きです。結婚してください」


「岩見くん、水川さんのメッセージアカウント教えてくれないかな?」


 などなど、廊下を十メートル進むだけでも、これだけの生徒たちに呼び止められる始末で、とてもじゃないが優菜の教室にたどり着ける気がしない。女子生徒たちに腕どころから全身を方々から引っ張られながらも、俺は彼女たちを引きずりながら力づくで優菜の教室へと歩いていく。


 そして、約二〇分ほどかけて、ようやく俺は優菜の教室の前までたどり着いた……のだが……。


「おい、俺が先に並んでただろっ!!」


「はあ、お前が割り込んできたんだろうがっ!!」


 予想はしていたが教室の前には優菜を一目見ようと訪れた生徒たちで、とてもじゃないが教室に入れそうにない。


「はいはい、みんなちゃんと並んでね。優菜ちゃんと写真を撮りたいなら、みんな協力してね」


 と、そのとき、教室から何やら見覚えのある声が聞こえてくる。


 ん? この声って確か……。


 俺は背伸びをして教室を覗こうとするが、よく見えない。


 かくなるうえは……。


 俺は人だかりの足元へと目を落す……そして、


 やるっきゃないか……。


 俺は汚い廊下に寝そべると、匍匐前進で生徒たちの足をかけ分けていく。プライド的にも身体的リスク的にも、決して利口な行動ではないが、足元の方がまだ隙間はある。俺は途中で生徒たちに何度も踏みつけられながらも、やっとの思いで教室へとたどり着いた。そして、全身の痛みに悶えつつも立ち上がると、そこにそいつはいた。


「はい、じゃあ五〇〇円はここの空き缶に入れてね」


 教卓の前には優菜と見知らぬ女子生徒、さらにはそんな二人にスマホのカメラを向ける冴木涼花の姿。そして、教卓からは、まるでどこかのテーマパークのようにきれいに整列された生徒たちの列が伸びている。


「お、おい、何やってんだよっ」


 慌てて冴木さんのもとへと駆け寄ると、そこでようやく彼女が俺の存在に気がつく。


「友一くん、ちょうどいいタイミングで来たわね。悪いんだけど外の生徒たちを整列させておいてくれないかしら?」


「はい、外の列ですね……って、そうじゃなくてっ!!」


 あやうく流れで冴木さんに加担するところだった。


「ってか、何勝手に闇営業やってるんですか……」


「人聞きが悪いわね。私はあくまで優菜ちゃんのもとに生徒が殺到して、彼女の身に危険が及ぶのを防いだだけよ」


「じゃあ、なんで金取ってんだよ」


「課金制にすれば、彼女に殺到する生徒もある程度振るいにかけられるでしょ?」


 俺は優菜に目を向ける。すると、彼女は少し恥ずかしそうに俺から視線を逸らす。


「このお金は野良猫の不妊手術の寄付金に使うらしいです。私が写真を撮れば猫ちゃんが助かるわけですし……」


「…………」


 なるほど、優菜はまんまと冴木さんの口車に乗せられたらしい。確かに、優菜が写真を撮れば猫が助かると聞けば、彼女が撮影を引き受けるのは理解できる。が、逆に冴木さんの妹想いな部分も理解できないわけではない。この一種のゾンビのようになってしまった状況で、優菜が生徒たちから追いかけまわされるぐらいなら、いっそ撮影に応じる代わりに有料にして、生徒を選別して安全に撮影する方がいい、というのも理解できなくはない。


 が、俺はどちらの考えも、しっくりこなかった。


 なぜか?


 それは優菜の本当の気持ちが俺にはわからないからだ。優菜は優しい女の子だから、生徒から撮影をしてくれと言われればある程度応じてしまうだろう。それは彼女が毎日大量に届くラブレターの一通一通に目を通しているのを見てもわかる。


 が、ほぼすべての生徒との撮影に応じるのは、さすがに彼女の身体一つでできるキャパシティを超えている。


 それ以上に……。


 俺は優菜を見つめる。きっと俺が今、彼女に撮影をしたいかどうかを聞けば、きっと周りの目を気にして、応じると答えるに違いない。だから、俺はできる限り言葉を使わずに彼女に目で訴える。すると彼女はじっと俺の顔を見やった。


「…………」


「…………」


 数秒間、俺と優菜は見つめ合った。そして、彼女は不意に俯く。それを見て俺は確信する。


 我慢している。


 俺はすぐさま彼女に駆け寄ると、彼女の手を取った。


 優菜は少し驚いたように俺の顔を見上げる。俺はそのまま彼女の手を引いて教室の出口へと走る。


 が、


「水川さん、俺と写真撮ってくれよ」


「水川さん、サインちょうだいっ!!」


「岩見くん、好きです。結婚してくださいっ!!」


 などと、当然ながら生徒たちが群がり、とてもじゃないが通り抜けられそうにない。


 マズいな……。


 俺と優菜が立ち往生していると、不意に背後から声がする。


「ああ、それにしても暑いわね。一度、空気でも入れ替えましょ?」


 振り返ると冴木さんが、教室の窓際で窓を全開にするのが見えた。そして、彼女は俺を見つめてウィンクをする。


 それを見て、俺はすぐに理解した。


「優菜っ」


 俺は再び優菜の手を引くと窓へと向かって駆けていく。


「ちょ、ちょっと先輩っ!?」


 かくなるうえはこれしかない。俺は窓の桟に足を掛けると、そのまま校舎の外へと飛び出す。


 そうじゃん。ここは一階じゃねえか。


「ほら、優菜。来いっ!!」


 俺は教室の中の優菜に手を伸ばす。優菜は少し動揺したように、しばらくその場に立っていたが、勇気を振り絞るように窓枠に手を掛けると窓の桟に乗り出す。俺は彼女を抱きしめると、そのまま彼女の身体を校舎の外へと引っ張り出した。


「おい、水川さんが逃げたぞっ!!」


 と、誰かが教室内で叫ぶ。


「逃げるぞっ」


 優菜の手を取って走り出す。とりあえず、職員室に逃げようっ!! 俺は同じく一階にある職員室の窓めがけて走っていく。


「せ、先輩……猫ちゃんが……」


 が、この期に及んで優菜は猫の心配をする。


 本当に優しい奴だなぁ……。


「心配するな。今週末に派遣バイトをして全部寄付するさっ」


 お金の問題ならあとで何とでもなる。


「じゃ、じゃあ、私も一緒にアルバイトしますっ」


「ああ、じゃあ今週は二人で猫のために汗を流すかっ」


 そう言うと優菜はクスッと笑って「はいっ!!」と元気よく答えた。

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