第二十六話 大人の世界
優菜を求めた生徒たちから職員室へと逃げ込んだ俺たちは、先生に事情を説明して昼休みが終わるまで、職員室に匿ってもらうことになった。が、あくまで匿ってもらえたのは昼休みだけだ。先生からのお達しで校内で優菜を追いかけまわすのは禁止となったものの、放課後は教師たちの管轄外だ。
嫌な予感はしていたが、やはり俺と優菜が校門を出た瞬間、生徒たちが脱兎のごとく俺たちへと駆けてくる姿が見え、俺たちは無我夢中で町中を駆けまわった。
ようやく他の生徒たちの姿が見えなくなったところで、俺は足を止める。
やばい……帰宅部の肺のキャパを超えた……。
ぜぇぜぇと息を切らせながら隣の優菜を見やる。
「大丈夫か?」
「はぁ……はぁ……ちょっと息が切れましたが、なんとか大丈夫です……」
優菜は膝に手を付きながらもわずかに微笑んで見せる。俺たちはその場でしばらく息を整えるとようやく歩き出した。
が、
「…………」
そこで俺はようやく気がついた。無我夢中で駆け回ってせいで俺たちはとんでもない場所に迷い込んだことに……。
優菜が俺の手をぎゅっと握ると、お得意の悪戯な笑みで俺の顔を見上げる。
「こんなところに連れて来て、先輩は何をするつもりですか?」
俺たちが迷い込んだのは、なんというか……大人の街だった。車一台がようやく通れそうなその狭い通りには色鮮やかなネオンで装飾された、ホテルが並んでいる。
いくら童貞の俺だって、これが健全なホテル街ではないことは一目瞭然だ。
「言っておくけど、わざとじゃないからな……」
「同棲しているから、わざわざこんなところに来る必要ないってことですか?」
「深読みしすぎだっ。想像力豊かかっ!!」
どうやらここは優菜が俺をからかうのにはもってこいの場所らしい。優菜は頬を火照らせる俺にクスクスと思わず笑みを漏らす。が、その通りのあまりの艶めかしい雰囲気に彼女も徐々に恥じらいの感情を抱き始めたようだ。わずかに頬が紅潮しているのがわかる。
「と、とりあえず帰ろうか……」
「そ、そうですね……」
優菜は俺の手をぎゅっと握りしめると、歩き始める。俺たちはその大人の空気にすっかり圧倒されてしまう。
「カップルしかいないですね……」
「ま、まあ、そういう場所だからな……」
「…………」
さすがに俺にはそういう場所が具体的にどういう場所なのか口にする勇気はなかった。が、説明しなくても優菜には伝わっているようで、彼女は深く聞いては来ない。
とにかく早いところここを抜け出したい……。
と、そこで正面から一組のカップルが歩いてくるのが見えた。年は三〇代だろうか、背広姿でポケットに手を入れる男と、その腕にしがみつく二〇代と思しきヒールの女。そんなカップルを何となく眺めていると、二人は俺たちの目の前でホテル入口へと入っていく。
なんというか、その光景はあまりにもこれから二人が何をするのかということを直接的に俺たちに告げていた。
「なんだか、街でカップルを見るよりも生々しいですね……」
どうやら優菜もそれを見ていたようで、そんなことを口にする。
「そ、そうだな……」
俺はそれに対して気の利いた返事なんてできるはずもなく、小さくそう呟くとただただ、今すぐにここを抜け出そうと足早に歩く。
が、あとわずかでこのホテル街を抜け出せるというところで、不意に優菜が足を止めた。彼女を見やると、彼女はしゃがみ込んでホテルの立て看板を眺めていた。
「先輩、見てください。この部屋可愛いと思いませんか?」
立て看板にはそのホテルのものらしい部屋の写真が何枚も貼られている。
そんな優菜に俺は内心気が気じゃない……。ラブホテルの部屋を見て可愛いという女の子にまともな返事なんてできるはずがない。
「わぁ……こっちはお姫様の部屋みたいですよ……可愛いなぁ……」
「おう……」
と、優菜はここがラブホ街であることを忘れでもしたのだろうか、部屋の写真を指さすとうっとりとした目で俺に同意を求めてくる。
「先輩はどの部屋がいいですか?」
「はあ?」
え? 何言ってのこの子?
困惑する俺を見て優菜はやっぱり狙っていたようで、俺を試すようにわずかに口角を上げる。
「あくまで部屋が可愛いって話をしているだけです。そこで何をするかの話じゃないです……」
「わ、わかってるけどさ……わかってるけど」
「変な想像しちゃうんですか?」
「…………」
「先輩って嘘が下手ですね……」
「うるせえ……」
バシッと否定しようと思ったが、やっぱり嘘は苦手だ。そりゃそうだ。こんなに可愛い女の子とラブホ街を歩いて、どの部屋に入りたいかと聞かれて、平常心を保てる高校生がいたとしたら、もはやそいつは悟りを開いている。が、残念ながらこの十数年間、俺は俗人として生きてきた。そんな俺を優菜は可笑しそうにしばらく眺めていたが、不意に握った手にぎゅっと力を入れる。
「別にいいですよ……変な想像しても……」
「っ…………」
優菜はそう呟いて俺に表情を覗かれないよう俯いた。
「だって先輩は男の子ですから。それにそんな風に想像してくれるってことは、私に魅力を感じてくれているってことですし……」
「そうかもしれないけど……」
「それに私もやっぱり少し想像してしまいます……」
と、唐突にとんでもないカミングアウトする優菜。が、俺にはわかっている。きっと彼女は俺をからかっているのだ。
「あのなあ。お前は少しは自分が女の子だってこと――」
「女の子だとえっちな想像しちゃダメですか?」
と、そこで優菜は俺を見上げた。その目が意外にも真剣で、俺は思わず目を逸らしてしまう。
「先輩、こっちを見てください」
が、優菜にそんなこと言われるので視線を彼女に向けざるを得ない。彼女はじっと俺の目を見つめる。
「先輩は入ってみたいですか?」
「あのなあ、こういう場所で俺をからかうのは――」
「半分は先輩をからかっています。だけど、半分は本気で聞いていますよ?」
「それは……」
そりゃ俺だって男だ。付き合っている女の子と物理的に密着したいという気持ちがないかと聞かれればそれは明確に否定できる。
「私、先輩にここに入ろうって言われたら、断れる自信はないですよ」
「…………」
俺と優菜はしばらく見つめ合った。きっと彼女は本気で聞いている。だとしたら、俺も本気で答えなければならない。だから、俺はしばらく彼女のことをじっと見つめ合って……。
「今日は止めておこう」
と、答えた。
優菜はそんな俺をしばらく真剣に見つめていたが、不意に笑みを浮かべると「先輩がそう言うのであれば止めておきます」と答えた。
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