第二十二話 悪夢……その1

 深層心理というものは恐ろしい。優菜と付き合うようになってまだ数日しか経っていないというのに、俺の自分すら理解していない心の奥底というのは、どうしようもなくとんでもないケダモノなのかもしれない。なんて言うと、昔の文豪のセリフみたいで妙に中二臭いのだけど、そんなことを自覚させられてしまったとある日の話。


 いや、後になって思い返しても、心の底から死にたくなる……。


 夏の日の夕刻、もう六時半だというのに、日が長くなったせいで西日はまだ遠くの山のてっぺんにまだわずかに顔を覗かせていた。赤紫色の光で街や雲を鮮やかに染めて、若者たちが一斉に写メりそうな空色。窓から差し込むそんな鮮やかな光に小さな体を照らされながら、お気に入りのソファにちょこんと体を乗せて、家族の帰りを待っていた。


 そろそろ帰ってこないかな……。


 たった一人のマンションの一室で、今日も今日とて暇を持て余していた俺は顎をひじ掛けに乗せながら、山々を眺める。


 ここのところの俺のマイブームは優菜が買ってくれたビニール製の小さなボールで遊ぶことだ。が、いくら楽しいおもちゃでも、数週間も経てば飽きてしまう。テーブルの下のビニールボールはもう三時間近く、そこで静止している。やっぱり、おもちゃは一人で遊ぶよりも、誰かと一緒に遊んだほうが楽しい。自分で転がすボールはやっぱり想定内の動きしかしない。優菜が転がしてくれないと楽しくない。


 やっぱり優菜がいなきゃ退屈だ。


 夕日を眺めながらそんなことを考えていると、ガチャと玄関のドアの開く音が聞こえたので、俺はくいっと首を玄関へと向ける。すると、スーパーのビニール袋を持った制服姿の優菜の姿が見えた。それがどうしようもなく嬉しかった俺は、ぴょんとソファから飛び降りると一目散に玄関へと駆けていく。廊下にはリンリンと小さな鈴の音が響き、その音に気がついた優菜がいつもの優しい笑顔で俺を見つめる。


「ゆうちゃん、ただいまっ」


 そう言ってしゃがみ込む優菜の足元に駆け寄ると、あいさつ代わりに彼女の足に額を擦りつけて、優菜は俺の首を撫でてくる。極上の感触が首から全身に広がり、気持ちよくなった俺はその場にごろんと寝そべると、優菜はクスクスと笑う。


「本当にゆうちゃんは甘えん坊さんだなあ……」


 そう言って、モフモフの俺のお腹に指を突っ込む優菜。


 ああ、気持ちいい。顎もいいけど、やっぱりお腹をごわごわされるのが一番気持ちいいっ!!


 喉をごろごろ鳴らしながら優菜に、気持ちいいという意思表示をしていると、ふと彼女が床に置いたビニール袋が目に入る。そして、俺は瞳を光らせた。


 薄透明色のビニール袋の中に大好物を見つけたからだ。


 あ、あれは俺の大好物、ニャオチュールっ!?


 慌てて立ち上がると、ビニール袋へと駆け寄り、袋に顔を突っ込む。


 なんと袋の中には十個以上もニャオチュールがっ!?


 俺は自分がいかにそれを欲しいかということを言葉を発する代わりに、彼女に訴える。が、俺のそんな意思表示に優菜は唇を尖らせる。


「だめだよゆうちゃん。こんなの全部食べちゃったら、ゆうちゃんデブ猫になっちゃうよっ」


 と、俺の顔を両手で挟むと言い聞かせるように俺を見つめる。


 怒ってる優菜も可愛いなあ……だけど、ニャオチュール……。名残惜しそうに瞳をビール袋に向けると、そんな俺を見て優菜がまたクスクスと笑う。


「もう、欲張りさんなんだから……」


 そう言って彼女は俺の小さな体を「よっこいしょ」と持ち上げる。ニャオチュールは大好きだけど、優菜に抱きかかえられるのはもっと好きだ。彼女の胸元のふっくらとしたソファに乗せられた俺はリビングへと運ばれていく。


 いやぁ~この感触最高っす……。


 リビングへと運ばれた俺はそのまま床に下ろされた。俺はふかふかのソファに名残惜しさを感じていると、優菜はテーブルの下のボールを手に取る。


「はい、ゆうちゃんっ」


 そう言って優菜はボールをリビングの端へと転がす。ボールを眺めていると俺の身体は本能なのか、勝手にボールへとまっしぐらに駆けてしまう。


 楽しい。


 ボールにたどり着いた俺はとりあえず前足で何度かボールをつつくと、歯を使って持ち上げてすぐに優菜のもとへと駆け戻る。


 楽しい。楽しい楽しい楽しい楽しいっ!!


 もう一回投げてっ!! と、ボールを優菜に差し出すと、優菜は俺の頭を撫でてくれた。が、どうやら優菜は一回しか遊んでくれないようで、ボールを取り上げるとそのままテーブルの上に置いた。


 おい、こんなに楽しい遊び。一回こっきりで満足できるわけないだろっ!!


 俺は必死に「ミーミー」と鳴いて、二回目をせがむ。


「もう、ゆうちゃんったら……」


 そんな俺の頭を優菜が暖かい手で撫でてくれる。が、俺はこんなのでは満足しないぞ。


 前足で彼女の足をぽんぽんと叩いて、二回目をせがむ。


 するとようやく優菜が根負けをして、テーブルのボールを再び手に取った。彼女は再びリビングの端へとボールを投げると、やっぱり俺の身体は勝手に反応してボールへと駆けつける。そして、三回目をせがむためにボールを咥えながら優菜のもとへと戻ると、優菜は呆れたように俺を見下ろした。


「ダメだよ。続きはご飯を食べた後で」


 そう言って再び俺の身体を持ち上げると、椅子に腰かけた彼女のスカートの上に俺を乗っける。


 俺の特等席だ。


 気持ちよさを伝えるために「ミーミー」と鳴くと、優菜は俺の背中を優しく撫でてくれるので、俺は身体を丸める。


 優菜は俺だけの優菜だから、ちゃんと匂いを彼女に付けておかないと……。


 そんなことを考えながら、彼女の太ももに顎を乗せていると、不意にマンションの呼び鈴が鳴った。びっくりした俺がぴょこんと床に飛び降りると、優菜は立ち上がって玄関の方へと歩いていく。俺も彼女の後ろを追いかけて歩いていくと、彼女は玄関のドアを開けた。


 扉が開かれると、そこには制服を着た男子生徒の姿。


 その男子生徒の顔を見上げて、俺は絶句した。


 そこに立っていたのは俺、自身だった。


 俺? どういうことだ? 俺は優菜に飼われた猫で、生まれてこの方三年は彼女と一緒に生活しているはずなのに、俺はそこに立っている男が自分だと思った。


「先輩、思ったよりも早かったですね」


 優菜はそこに立つ俺? を見つめるとぽっと頬を赤らめた。すると、男は突然、優菜をぎゅっと抱きしめると、彼女の背中を摩る。


「優菜に早く会いたくて、早く来ちゃったんだ……」


 だ、誰だお前っ!?


 その臭すぎるセリフに、俺は目の前の男が自分のような気がするのに、なんだか自分ではないような気がした。いや、何言ってんだ俺……。


 説明ができない。それは俺が猫でバカだからなのか? 見た目はどこからどう見ても俺……なんだけど、その男は少なくとも俺が取るとは思えない行動を取っていた。


 ん? ってか、俺はなんで猫になっているんだ?


 俺は確か、ただの冴えない高校生で、猫ではないはずだ。俺は優菜の法律上の兄であって恋人のはずだ。だとしたら、目の前の男は俺と同じ姿かたちをしているが、俺の偽物ということになるのかっ!?


 だとしたら、そのことを優菜に早く知らせてあげなければ。


 俺は慌てて「ミーミー」と鳴いて彼女にそのことを伝えようとした。が、猫の骨格では人間の言葉を伝えることはできないらしく、どんなに頑張っても「ミーミー」としか鳴けない。


 当然ながら、俺の意思は優菜には伝わらず、優菜は俺と同じ姿をした何者かにぎゅっと抱きしめられていた。それどころか、優菜は俺のような何かから少し体を放すと、何かを求めるように静かに瞳を閉じた。そんな優菜を見て偽俺はニヤリと笑う。


「本当に優菜は甘えん坊だな……」


 きめえっ!! 何言っての俺。いや、俺じゃないんだけど、偽俺の言葉はいちいち臭くて気持ち悪い。が、優菜はそんな偽俺にうっとりと頬を染めると、背伸びをして偽俺に顔を近づける。偽俺はまたニヤリと笑みを浮かべると、一度下舐めずりをして優菜に唇を近づける。


 そうはさせるかっ!!


 気がつくと、俺は偽俺に飛びついた。これにはさすがの俺も動揺したように優菜から体を放す。が、俺は許さない。爪を立てると偽俺のスラックスを引っ掻いてやる。そして、男を威嚇するように吠える。


 脳内の俺の声『ガオオオッ!! ガルルっ』実際の俺の声「ミーミー、グルグル……」


 当然ながら、こんな鳴き声で偽俺を威嚇できるわけじゃなく、偽俺はしゃがみ込むと俺の頭を撫でようとする。


「可愛い猫ちゃんだね。ごめんねご主人様を独り占めしようとして、やきもち焼いちゃったのかな?」


 おえぇ……気持ち悪い。気持ち悪すぎる。そして、どうしようもない殺意を偽俺に抱く。


 こうなったら噛みついてやる。俺は身体の毛という毛を立たせると牙をむき出しにして、偽俺に飛びつこうとした。が、その直前。


「もう、ゆうちゃん、邪魔しないで」


 と、怒った優菜が俺の身体を抱きかかえてしまう。そうはさせまいともがくが上手くいかない。


「先輩、今からご飯を作るので適当にリビングでくつろいでいてください」


 と、俺以外に見せちゃダメなうっとりとした笑みを浮かべて、俺を抱えたままリビングへと歩き出した。


 ダメだ。何とかしなければ……。


 絶対に、こんなキモくて臭い偽俺なんかに優菜を渡すわけにはいかない。俺は精いっぱい鋭い眼光で偽俺を睨みつけた。

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