第三話 現代っ子って恐ろしい
水川に手を引かれリビングへと入った俺は、そのままテーブルへの着席を促された。
「早く食べないと冷めちゃいますよ。って言っても、料理にはあまり自信はありませんが」
テーブルにはランチョンマットが敷かれており、その上に出来たばかりのカレーライスと、サラダがきれいに並べられていた。
ん? ランチョンマットが二つ?
俺が首を傾げていると、水川はすぐに俺の抱いた疑問に気づいた。
「お父様は会社に戻ってママのお仕事を手伝うそうですよ。カギを開けるためにわざわざ戻ってきて頂いたんです」
そう言って水川はリビングの端に立つ父親を見やった。
「いやあ、こんなに可愛い女の子にお父様って呼ばれる日が来るとは思わなかったなぁ……。って、いけねえっ!! ちょっと油を売りすぎた」
父親はすっかり新しい娘にデレデレでみっともない姿を露呈していたが、不意に腕時計を見やると慌てた様子で家を後にする。
そして、俺と水川は二人自宅に残された。
「…………」
俺は水川と二人きりの夕食という、昨日の夜までは到底信じられなかった非現実的な光景に動揺を隠せない。なかなか料理に手を付けられない俺に水川は少し不安げに首を傾げる。
「やっぱりカレーは苦手でしたか?」
「いや、むしろカレーは大好物だよ」
俺は彼女に無用な心配をかけるのはマズいと思い、スプーンを手に取った。カレー特有のスパイスの香りが、俺が空腹だったことを思い出させてくれる。
水川に真正面から見つめられていることにやや居心地の悪さを覚えたが、カレーを口に運んだ瞬間、それは吹き飛んだ。
「美味い……。このカレーめちゃくちゃ美味いっ」
「もう、先輩ったら大袈裟ですよ。ただの市販のルーで作ったカレーです。少しだけアレンジはしましたが」
父親という不器用な生き物が作った物しか食っていなかった俺の味覚が麻痺しているからなのか、彼女の作ったカレーはめちゃくちゃ美味く感じた。気がつくと二口、三口とスプーンが自然とカレーに伸びる。それを見た水川は嬉しそうに微笑む。
「少し心配だったんですが、先輩のお口に合って良かったです」
俺の口に合ったことで安心したのか水川は、そこでようやくスプーンを手に取ると、小さな口にスプーンを運ぶ。
が、不意に水川が「あ、そうだ」と言うと、ポケットから何かを取り出した。
「これ、帰りに回してきたんです」
彼女が俺の前に掲げたのは自宅のカギだった。カギからは俺の持っているのと同じ狸のキーホルダーがぶら下がっている。どうでもいいが、二つのカギのうち片方が俺の自宅のカギの形にそっくりなのは気のせいだろうか。
「先輩と同じ狸を出すまでに千円も使っちゃいました」
「…………」
俺はスプーンを止める。これまでカレーのあまりの美味さに忘れていたが、目の前の女は先輩殺しの異名を持つ小悪魔美少女だということを不意に思い出す。
「これで先輩とお揃いですね」
「お、おう……」
俺はお揃いだと言われて喜べばいいのか悲しめばいいのかわからない。少なくとも女性経験が豊富ではない俺には、彼女を前にして自然な顔というものができなかった。それを見た水川の表情がわずかに曇る。
「私とお揃いだと、恥ずかしいですよね……」
「恥ずかしくはないけど……いろいろと誤解を生む可能性が……」
「誤解って何を誤解されるんですか?」
と、そこで水川は首を傾げる。
しまった。やられた……。
「なんというかその……」
「なんというかその?」
「ほら、高校生ってのは色々と噂が大好きだし、まあ色々と的外れな誤解をされることもあるだろ」
「たとえば、私と先輩が付き合っているとかですか?」
水川はそう言って微笑む。
「ま、まあ、そういうことも含めてだよ……」
「確かにみんな噂話が大好きですからね。もしかしたら先輩と私がラブラブのカップルだって誤解されちゃうかもしれませんね。でも、大丈夫ですよ。家のカギなんてそうそうポケットから出すことありませんから」
「ま、まあ、それもそうだな……」
俺は今度は気まずさを隠すためにカレーを口に運ぶ。
「あ、そうだ。言い忘れてました。私、今夜は先輩の家に泊まりますね」
「げほっ!! げほっ!!」
「せ、先輩、大丈夫ですかっ!?」
「だ、大丈夫だ。ちょっとむせただけだから……」
父親同様にこの女はさらっととんでもないことを口にする。水川は心配そうに俺のことを眺める。俺は何とか呼吸を整えると彼女を見やる。
「俺はともかく、水川は俺の家なんかに泊まって嫌じゃないのか?」
「どうして私が嫌がる必要があるんですか? だって、もうすぐ私たち同棲を始めるんですよ? そんなこと嫌がってたら、この先一緒に生活なんてできないですし」
「それはそうかもしれないけど……」
「それに言ったじゃないですか、私、昔からお兄ちゃんに憧れていたんです。年の近い人が家にいるって少し不思議な感じがしますよね」
確かにその気持ちはわからないでもない。俺も水川同様に一人っ子だったから、兄弟に憧れたことはある。だけど、それとこれとはわけが違う。何せ相手は水川優菜なのだ。水川にとって俺はただの地味の高校生かもしれないが、彼女は全ての男子生徒の憧れの的、先輩殺しの小悪魔美少女なのだ。気を遣うどころの騒ぎじゃない。
「兄妹ってどんな感じなんですかね。二人で一緒にお風呂に入ったりするんですかね?」
「いや、それはさすがにないだろ」
きっと水川は兄弟というものを根本的に勘違いしている。
※ ※ ※
食事を終えた俺たちはしばらくリビングでテレビを観て過ごすことになったが、彼女が「先輩、お風呂をお借りしてもいいですか?」と言い出したので、これでもかってほどに風呂を掃除してから風呂を入れてやった。
水川が風呂に入っている間、俺は水川優菜が自分の家の風呂を使用しているという事実に気が気ではなかった。
三〇分ほどたって、不意にリビングのドアが開いた。振り返るとそこにはピンクの寝間着姿の水川優菜が立っていた。どうでもいいが、俺はこのとき初めて、彼女の制服以外の姿を見た。彼女は濡れた髪を丁寧に拭きながらソファに座る俺のもとへと歩み寄ってくる。
「先輩もお風呂どうですか? 気持ちいいですよ」
「お、おう、俺は後でいいよ」
俺には水川の浸かった風呂にゆっくりと浸かれる勇気はなかった。今日はシャワーで済ますことにしよう。
「そうですか。それなら一緒にテレビでも見ながらお話ししましょ」
そう言って水川は俺のすぐそばに腰を下ろした。どうやら彼女はシャンプーを持参していたようで、甘い香りが俺の鼻腔を刺激する。テレビではバラエティ番組が流れていた。正直、今の俺にはその内容に夢中になれるほどの余裕はなかったが、テレビの芸人がボケるたびに水川はクスクスと笑いを漏らす。
「そういえば、先輩って彼女とかいないんですか?」
が、不意に彼女がこちらに顔を向けるとそう言って首を傾げる。
「俺にそんなもんがいるように見えるか?」
「別にいてもおかしくないとは思いますが……。ってことは仮に私が彼女だと勘違いされても困る人はいないってことですね?」
「まあ、俺に関してはそうだな」
無論、そんな勘違いをされたら男子生徒たちは黙っていないとは思うが。
「じゃあ、私、明日お弁当を作りますね」
「はあっ!?」
「え? 私、今なにか変なこと言いましたか?」
「いや、そんなことはないけど……手間にならないか?」
「どうせ、明日自分の分のお弁当を作るつもりなんです。一人分も二人分も大して手間は変わらないので、せっかくだから先輩の分も作りますよ」
「あ、ああ、なんだか迷惑かけて悪いな」
「先輩はウィンナーと卵焼きが好きなんですよね?」
と、そこで水川は笑みを浮かべたままそう尋ねる。その断定的な言い方に目を見開くと水川はクスリと笑う。
「そんなに驚かないでください。実はさっきメールでお父様に聞いたんです。じゃあ、明日のお弁当にはウィンナーと卵焼きを入れておきますね」
「何から何まで迷惑をかけて悪いな……」
「心配しないでください。私、料理は大好きですから」
そういうのならばここは彼女に甘えることにしよう。が、食べる場所だけは選ばないと本当に異端審問に掛けられる可能性が高い。
「なんだか私、少し眠くなってきました」
そう言って水川は小さくあくびをした。あくびをする姿さえ絵になるのが恐ろしい。が、彼女のあくびを見ていて俺はふとあることを思い出す。
そういえば、水川はどこで眠るんだ?
どうやら水川はかなり勘の鋭い女らしく、俺のわずかの表情の変化を瞬時に読み取る。
「私、ソファで眠るんで大丈夫ですよ」
「いや、さすがにそれは申し訳ないよ」
ソファは二人掛けではあるが、彼女が寝そべるにしては少しサイズが小さい。
「水川が俺のベッドを使えよ。って、言おうと思ったけど、さすがに俺の汚いベッドを水川に使わせるのもそれはそれで申し訳ないな……」
「別に私は汚いなんて思いませんよ。だけど、私が先輩のベッドを使ったら先輩が可愛そうです」
「俺は床で寝るから大丈夫だ」
別に一晩、床で寝たからと言って死ぬわけではない。さすがに彼女をソファで寝かせて自分だけベッドに入るのは抵抗があった。
が、彼女自身も俺と同じことを考えているようで少し困ったように眉を潜める。
「困りましたね。何かいい考えがあればいいのですが……」
「心配するな。俺は床で眠るから」
そう言うがなかなか水川は納得しない。が、不意に彼女は何かを思いついたように目を見開いた。
「それならばいっそ、二人でベッドで眠るってのはどうですか?」
「はあっ!?」
「いいじゃないですか。私たち、これから兄妹になるんですよ」
「そもそも兄妹って一緒に眠るものなのか?」
「わかんないですけど、そういうことでいいんじゃないですか?」
「だけど、水川は嫌じゃないのか?」
「何がですか?」
「俺と一緒に眠ることだよ。だって、知らない男子生徒と同じベッドで眠るんだぞ?」
「先輩は知らない生徒ではないですよ? ほら、一緒に夕食を食べた仲じゃないですか?」
「そうかもしれないけど、怖くないのか?」
「先輩は私が隣で眠っていたら、私のことを襲うんですか?」
「そんなわけないだろ」
「ならいいじゃないですか。私、昔から一人で眠るのが少し怖いんです。先輩が横にいてくれた方が安心します」
この子恐ろしいわ……。現代っ子の恐ろしさを痛感しながらも、それでも頑なに拒むわけにもいかず、結局、同じベッドで眠ることになってしまった。
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