第二十話 呼び方

 事務所を出た俺たちはそのまま空港へと向かい、涼子さんを見送ることとなった。レンタカーはそのまま乗り捨てるらしい。最後に俺と水川はそれぞれ涼子さんから濃厚なハグをされたのだが、その際、涼子さんが耳元で「優菜ちゃんのこと、幸せにしてあげてね」という意味深な言葉を囁いた。


 どうやら、色々とバレているらしい……。


 まあ、何はともあれ涼子さんを見送った俺たちは、そのまま自宅へと戻り、水川の作ってくれたハンバーグカレーなどという、俺にとっては欲張りが過ぎる料理を食すことになった。


「美味い……」


 その悪魔の囁きのような味に、思わず声に出して感想を述べると、水川は嬉しそうに俺の顔を眺めた。


 ホント、一度で二度美味い。


 俺がとめどなく、カレーを口へと運んでいるとふと水川が口を開く。


「先輩、私たち、本当に兄妹になっちゃいましたね」


 そう言えば涼子さんは婚姻届けを提出するために、帰国したんだっけ? 俺は彼女が役所に行くのを見ていないが、きっと水川がそう言うのだから、俺のいない間に手続きを済ませたのだろう。


 が、兄妹になったからと言って俺たちの生活が何か変わるわけではない。それどころか、俺たちは兄妹の関係をお互いに拒絶することによって、気まずい関係を解消したのだ。確かに父親の再婚はめでたいが、今の俺たちにとっては、父親と涼子さんが結婚したという事実はどうでもいいはずだ。


「ああ、そうだな」


 だから俺は相槌程度の返事をして、スプーンを口に運ぶ。むしろ、今の俺にとってはそのことよりも、水川の作ってくれた悪魔のカレーの味を楽しみたい。


 が、俺のそんな反応は水川にとっては、少々予想外だった……というよりは不満だったようだ。彼女はムッと頬を膨らませる。


「なんで、そんなにそっけない反応するんですか……」


「なんでって……別に結婚したからって俺たちの生活が何か変わるわけじゃないし……」


 素直に自分の気持ちを口にしたのだが、それがマズかった。水川はムッと膨らませた頬をさらに膨らませる。


「大有りです。女の子の名字が変わることの重さを何も理解していないです……」


「おい、ちょっと待て。その言い方は少し語弊があるぞ」


「私、今何か、少しでも変なこと言いましたか? 私の言葉に何か誤りがあるなら、どこが具体的に間違っているのか教えてください」


 と、完全に論破モードで返事をしてきやがる。


 まあ確かに水川の言葉は間違ってはいない。名字が変わるのは事実だし、男女問わず名字が変わるのは確かに大きな問題なのかもしれない。けどだ。だからと言って、それに関して俺から言えることは何もない。


「おめでとう。これからも同じ岩見家の人間として頑張っていこう」


 と、彼女と握手をするべく手を差し伸べる。すると、彼女は何やら不服そうに俺と握手をする。


「なんだか、岩見って少し地味な名字ですね……」


「おい、謝れっ!! 岩見の名前を守ってきたすべての先祖に土下座しろ」


 まあ、俺も地味な名字だと思っているけどな。


 本心を隠して、岩見家としての建前を振りかざしていると、彼女は不意に頬を赤らめる。


 本当に感情の不安定なやつだな……。


「じゃあ、これから私のこと、もう水川って呼べないですよね……」


「え? あ、い、いや、それは……」


 どうやら、彼女の会話の目的ははなからここにあったようだ。完全に一枚上手を行かれた俺が困惑していると、水川はニタニタと笑みを浮かべながら俺の顔を覗き込む。


「先輩は、私のこと、どう呼んでくれるんですか?」


「そ、それはだな……」


 ああ、ダメだ。彼女の目的はわかっている。が、今の俺には恥ずかしすぎて、その名で呼ぶことなんてできそうにない……。


「み、みながわ……」


「その人、誰ですか? 私、水川なんて名前じゃないですよ~」


 そう言ってそっぽ向く。どうやら、あくまで俺にその呼び方をさせたいらしい。が、俺の心はこんなことでは折れない。


「じゃあ岩見だな」


「先輩はお父さんのことを岩見って呼ぶんですか?」


「じゃあ、妹って呼ぶよ」


「その呼び方したら私、本気で拗ねますよ……」


 俺を睨みつける。どうやら妹扱いだけは彼女にとっては禁忌らしい。


 やばい、追い込まれてきた……。考えろ。この追い込まれた状態を打破する方法を真剣に考えろ。


 そ、そうだ。


「なあ、じゃあお前だって俺の呼び方を変えるべきだと思わないか?」


「え? だって、先輩の場合は名字が変わっても変わらなくても先輩であることには変わらないですし」


 そうだった……。


 逆に水川にも同じ疑問を投げかけることによって、俺への矛先を自分自身へと向けようと思ったが、完全に失敗した。


 それどころか、水川はそんな俺にカウンターパンチをお見舞いしてくる。


「そんなに先輩って呼び方が嫌だったら、変えますよ。友一くん」


「や、やめろおおおおおおおっ!!」


 ああ、ダメだ。涼花さんは聞きなれたからまだしも、水川から友一くんと呼ばれるのは、さすがに恥ずかしい。


「い、今のまま先輩って呼び方で大丈夫です……」


 完全敗北した俺がタオルを投げるようにそう告げると彼女はクスクスと笑う。


「わかりました。先輩は真正の後輩萌えってことですね」


「いや、それはそれで語弊がある」


「え? もしかして、妹にあえて先輩って呼ばせることに性的興奮を覚える変態さんなんですか?」


「もういいよ……それで……」


 ダメだ。やっぱりこいつには議論で勝てそうにない。燃え尽きた俺が放心状態で天井を眺めていると、不意に彼女が俺の袖を掴んだ。


「い、嫌ですか?」


「え?」


「呼び方の話です。先輩がどうしても嫌だって言うなら、私、今まで通りの呼び方でもいいですよ……」


 俺の顔を見上げる彼女の表情は、ほんの少し不安げだった。


 もちろん恥ずかしいさ。恥ずかしさで言えば、俺が突然父親をパパと呼ぶことを強要されるぐらい恥ずかしい。が、恥ずかしいことと嫌なことは……違うかもしれない……。


「水川は、どう呼ばれたいんだ?」


「わ、私はその……」


 と、妙に改まって会話をしたせいか、水川はそこまで言ってぽっと頬を赤らめて顔を背ける。


 そして、


「す、好きな人には、ゆ、優菜って呼んでほしいです……」


「…………」


 本当に調子を狂わせてくる奴だ。好きな人という言葉に俺まで頬が熱くなる。


「ゆ、優菜……」


「な、なあに? ゆ、友一くん……」


「…………」


「…………」


 そこからお互い言葉が続かない。単に呼び方を変えるということだけで、人はこんなにも照れてしまうものなのか……。


 俺と水川はしばらくの間、互いに顔を背けて黙っていることしかできなかった。


 ♪ピロリロリンっ!!


 が、そんな二人の沈黙を不意に、スマホの通知音が破った。水川はテーブルに置かれたスマホにゆっくりと手を伸ばすと、画面を眺めた。


 そして、驚いたように大きく目を見開く。


「せ、先輩っ!! 大変ですっ!!」


 と、焦ったように俺を見つめる水川。


「お、おい、なにかあったのか?」


 そう尋ねると水川はしばらく俺を見つめて「はぁ……」とため息を吐いた。


 そして、


「お母さん、また婚姻届けを出し忘れたそうです……」


「はあっ!?」


 俺の母親はどこまでも天才で、どこまでもバカらしい……。


 って、ことはつまり……。


「じゃあ、これからもよろしくな。水川っ!!」


 俺が意気揚々とぽんぽんと彼女の肩を叩くと、彼女はムッと俺を睨みつけてまた「お母さんのバカ……」と肩を落とした。


 そんな優菜の姿はなんだか可笑しくて、俺はしばらく笑いを抑えることができなかった。

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