第38話 けものどもの日々、つちたちと木々。

 ぱちん、と何かが弾けるような音がして、視界が広がった。

 ノラの手首はしっかりとマツダに捕まれていて、その手からふっと力が抜けたのが分かった。

「な、んだ?」

 マツダの声と共に、ノラも辺りを見回した。

 そこは小さな部屋の中だった。小さいと言っても、今までいた場所が余りにも大きかったからそう感じるだけで、ごく一般的な広さだろう。広さだけでなく、姿形もまったく飛び抜けたところのない、平凡なものだった。

 古い木の匂いがする。正面に見える机の上に、古いノートが広がっていた。その上に先ほどの方向音痴な本の中に書かれていたのと同じ文字を発見して、ノラの足が勝手にそちらに向かう。

 ノートのすぐ横には羽ペンが横たわっていて、文字を書いている途中で主が席を立ったのだと分かる。

「あら、ごめんなさいね、散らかしたままで」

 背後からマリィの声がして、ノラははっと意識を取り戻した。また上手い魔法に過去を奪われて、脳がどうして自分はここにいるのだろう、と思い始める。

「――ここは?」

 ノラはもう一度あたりを見回したが、部屋の中には本棚が幾つかと、小さな炊事場が一つ、それから机と椅子、それ以外何もなかった。

「私の秘密基地よ」

 そう笑うマリィの顔を見ていたら、次の瞬間にはもう、机の上に四角い箱が現れている。

「さて。あなたの鍵の中身はここにあるわ」

 それは硝子と似たような見た目をしていて、中は全く空洞だった。

 マリィが箱を叩くと、やはり硝子を叩いた時のような、堅くて軽い音がする。中を覗き込んで見ても、底に机の木目が見えるだけで、全く透明だった。触れると、少し冷たい。

「これと似たものを、見たことがあります」

 しかし、それらは全て同じようであって、同じものではない。

 マリィは少しだけ驚いたような顔をした。

「そうなの? これはかなり珍しいものなのよ。どういう作りなのかはよく分からないのだけれど」

 確か、フィールスも同じようなことを言っていた。これは庭園で見たものと同じものだろうか、それとも何かが違うのか。

 マリィはその上に赤い布を垂らして、何も入っていない中身を隠してしまった。

「昔は占いに使われていたらしいわ」

 そう言って、マリィは硝子の上に両手を乗せ、目を瞑った。

 すぐに赤い布の奥から、ちらちらと光が漏れだして、中で何かが蠢くような気配がした。

 沢山の物が、恐らくは生き物が、すぐそこにいる感じがする。

「よし」

 マリィは目を開けて、首元に釣り下がっている鍵を外すと、それをノラの手に持たせた。微かに温かくなっている。

「この中に、あなたが今まで見えなかったものがあるわ」

 マリィは愛おしそうに指先で布の向こうの箱を触った。

「つまり、あなたが見るべきだと決めたものね。ノラ、あなたは本というものが、なぜこの世に存在しているのか分かるかしら」

「それは――情報を伝えるためではありませんか?」

「ふふ。フィールスの妹らしい答えね。確かに。本の中には情報がある。そしてそれを知るため、伝えるために存在している。それはとても正しい答えよ。けれど私は――情報を伝えるためだけに、本が存在しているとは考えていない」

 今まで一定の態度をとり続けていたマリィの声が、その時ばかりは人間味を帯びていた。懇願に似た喋り方で、マリィは続けた。

「彼らは、たとえ誰にも読まれなかったとしても、存在そのものに価値があるのよ。ある一つの真実が、形として無数に存在しているということ。あるいはしていたということ。それ自体が価値なの」

 マリィの指先が箱の上の布を抓む。

「それは人間も同じ。誰かが、ある一つの真実を知っている。それだけで十分ということは大いにあるの。だから、何かを知ったからと言って、必ず何かを行わなければならないという訳ではない。あなたも」

 そして、そっと布が外された。

 硝子の箱の中にあるのは、またも緑と土色だった。

 それらはすぐ近くにあるはずなのに、とても遠くに見える。平たい大地の上に植物が茂っているようだった。ちらちらと、その上を何かが動いている。

 ノラが硝子に顔を近づけると、マリィがそっと呟いた。

「見ようと思えばもっと近くで見ることが出来るわ。ここに触れて、そう」

 マリィに促されて硝子を触ると、人の肌に触れたような感触がする。そして、触れた瞬間にノラの視線に焦点が絞られて、硝子の中の景色がどんどんと近づいてきた。

 そこには今まで見たことのない生き物が走っていた。

「これ、恐竜か?」

 マツダが驚いたような声を出すと、同じようにマリィも驚いたような声を出した。

「あら、あなた古生物が分かるの?」

「は? ええまぁ。一応、専攻みたいなもんですが」

「へぇ。珍しいのね。あなた、本当に魔法使い?」

「一応そのつもり、です」

「あら。そんな顔しないで良いのよ、褒めているんだから。魔法使いはみんな古生物が苦手でしょう? その辺りのことを考えると、いろいろ不具合が起きるから。あぁ、その話はもう少しあとにしましょう」

 それぞれ姿形が違うので、ノラにはどれが恐竜なのか分からなかった。けれどそのうちの四足で這っている、蛇のような肌をして、長い口から尖った歯をはみ出させているものはどこかで見た記憶がある。

「がびある」

 言葉が頭の中で響く。それはキィコの声だった。

 あの谷の縁で、一緒になって動物図鑑を見たときの声だ。がびある。と言って、彼女は随分その生き物の形を恐れていた。ノコギリのようで恐ろしいと言って。

 ノラは頭を振って、マツダを見た。

「ねえ、マツダ。どれが恐竜なの?」

「え? ああ。こっから見えるやつらはだいたい恐竜だよ」

「みんな、形が違うけれど」

 どう見ても同じ種族とは思えない。あるものは細長い胴体を地面に付けて、短い手足を動かして草陰を移動している。またあるものは、重たそうな大きな頭を上下に動かして、二足でどたどたと走っている。

 これらが全て恐竜なのか。

「彼らはこの地に存在した生き物なのよ」

 マリィは言った。

 けれど、なぜそんなことを言うのか分からない。それは当たり前のことだ。この地に存在していたから、自分たちは彼らのことを知っているのだ。他の動物だって、なんだってそうだ。

「それで、この中に私たちの先祖がいるの」

「先祖?」

 やはり、言葉の意味がノラには分からない。

「少し早回ししてみましょう」

 マリィは硝子に手を伸ばし、箱の中の時間を早めたようだった。生き物が、注意して見ないと目で掴まえられない位の速さで生活をし始める。

 日が昇り、すぐに落ちる。

 大地の上に、旭日と落日が何度も降り注ぎ、消えた。何度も何度も繰り返し、そして。

「うわ」

 とマツダが声を上げた。

 ノラはなんとか声を出すのを抑えた。箱の中の大地が、急に赤黒いものに埋め尽くされてしまったのだ。

 山の上から、硬い液体のようなものが零れ落ちてきている。それは塊のなのに燃えているようで、時期に目に見える土の上を全て占拠してしまった。

 恐竜たちもすべて飲み込まれてしまったようだった。

 また日が昇り、落ちた。いつまでも同じ繰り返しをしている。時が過ぎると、赤黒いものは徐々に色味を失くしていった。

 灰色になり、白っぽくなり、茶色に近づいていく。大地の色に戻る。

 そしてまた、植物が生えてくる。

「あ、」

 またマツダが微かな声を出した。なんだとノラが伺うと、硝子の中を指差してみせる。

 大地の上に、また恐竜が立っている。

 先ほど見たものと同じものかは、ノラには分からなかった。体の大きいものも、ちょこまかと素早く動いているものもいる。

 そして一瞬、硝子の中を何かが通り過ぎたのが見える。

 ノラの体が勝手にびくりと跳ねる。理由は分からない。マリィが箱の上から手をどかす。中の時間がノラたちの生きている時間と合わさる。

 生き物たちが、目に見える速さで生活している。そして、彼らの上を飛んでいるものがいるのだ。

 翼。

 恐竜に翼が生えている。

 ノラは懸命に喉を開いて声を出した。

「あれは、あれも、恐竜?」

 聞いた先のマツダは、しばらく硝子の中を見つめて動かなかった。

顔の上に表情が少しも付いていない。それからはっとして顔を上げると、ぼうっとした声で答えた。

「翼竜だ。恐竜と同じものかどうか、まだ分かってないんだ。こんなに」

 マツダは言葉を止めた。その瞳は硝子の中に向いていて、てらてらと光っている。そして、手の届かない場所にあるものに手を伸ばすような声で続けた。

「こんなに大きいものが、空を飛んでたんだな」

 まるで、夢の中にいるようだった。

「そうね」とマリィが相槌を打つ。「彼らは空を統べていた。同じように、陸の子たちは大地を統べていた。これは彼らの繁栄の時代。大きく逞しい彼らの、栄光の時代」

 再びマリィの指先が硝子に触れる。

「そうしてここからは――滅びの時間よ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る