二幕 ままならぬ夜の水底サーカス

第8話 或いは愛された土

 昇降機が谷の底へ降り立つと、人々は波のように町の中へ流れて、すぐに見分けのつかない群衆に変わった。キィコとノラは、しばらく手を繋いだまま、ぼんやりとそれを眺めていた。

「さて、どうしようか」

 谷の町は大きく東西南北に分かれていて、キィコたちが降り立ったのはちょうど真東の辺りだった。キィコの働く店は東地区にあるので、多少は土地勘があるものの、普段使わない昇降機で降りてきたので、道案内の自信がなかった。

 特に東地区と南地区は、路地と路地が複雑に交差していて、住人の勝手な増築による行き止まりも多く、一度道をずれると大変なことになる。一番安全なのは大通りを行くことだ。

 どの昇降機から降りても、扉が開いた正面には大きな通りがあって、そこを進めば必ず中央広場のビルに辿り着くようになっている。谷の人間が単に「塔」と呼ぶその建物は、地上の中央政府が立てた近代的な高層建築で、友好のシンボルなのだそうだ。

 ただ、使う当てがないのか何かで揉めているのか、中はいつまでも空のまま、まさにシンボルとしてだけ存在してる。

 そもそも塔の建っている中央広場は、どこよりも強く植物の群生する場所で、何もしないと塔がすぐ緑色に染まってしまうのだ。谷で一番商業に向かない場所に違いない。中央政府が使いを出してしょっちゅう焼き払っているが、ビルが本来の姿でいられるのはせいぜい数時間くらいで、すぐに表面が苔生してしまう。

「あの、すみません」

 キィコがそんなことを考えていると、ノラが気まずそうに下から顔を覗いてきた。

「ん?」

「あの、ちょっとだけ――手を、離しても良いですか?」

「え? ああ。いいよ」

 キィコがぱっと手を離すと、すみませんと言ってノラはしゃがみ込み、靴紐を結び直した。まるで手を繋いでいなくてはいけない決まりでもあるみたいな言い方をする。

 子供の体温は大人より高いというけれど、ノラの手はキィコより低い。ひんやりとしたものが手の中からなくなって、手の平が燃えるようで落ち着かなかった。

 すぐに手のひらにノラの低い体温が戻って来て、キィコはふわふわとした気持ちになった。

「ふふふ」

「なんですか?」

「なんでもない! あのね、知らない道は怖いから、一回知ってる道に出るね!」

「わかりました。お願いします」

 大通りの両端では各店が屋台を出していて、人の流れは滞って、ただもぞもぞと蠢いているだけに見える。ノラに中央の塔の話や路地の造りの話をしながら、少し遠回りをして知っている道に出た。大通りから幾つか路地を隔てるだけで、喧騒は途端に遠くなる。

 もう道々に特別なものは何もない。

 親の帰りを待って地面に絵を描いている子供や、全く近づいているように見えない自転車を漕ぐ老人や、坂の上から零れてくる泡の混じった生活水。そういった谷での当たり前の風景を発見するたび、ノラは研究者のような目でそれを観察した。

 角を曲がった所にある飯店の軒先で、半開きになった豚が釣り下がっているのを見たときだけ「わ」と小さく声を上げたのがキィコには面白かった。

 看板娘が遊びに行ってしまったのか、飯店の出窓では、老婆が煙管を持ったままうつらつらと船を漕いでいる。この辺りの道ならキィコは目を瞑っても歩ける。

 余裕が出てきたので、道すがら、マツダについて少し話をした。

 彼はノラの遠い親戚で、ノラの世話をすることを生業としている人間だという。そんな生業があるのかとまずキィコは驚いた。髪を梳かしたり、服の裾を治したり、おやつを作ってくれたり、いいと言うのに日傘を差してきたり、そういう世話を焼いてくるのだという。

「じゃあ悪いやつじゃないんだね」

 何も考えずにキィコが言うと、ノラは大きく目をしばたかせた。

「悪いやつだと思っていたんですか」

「うーん」

 キィコはぱっと見て、マツダを悪いやつとは思わなかった。なんだかどんくさそうだなと思っただけだ。彼の名前を読んだときのノラの声が、あまり穏やかなものではないような気がしただけだ。

「よくわかんないけど、鳥に襲われてたね?」

 ああ、と少し笑ってノラは答えた。

「あれは求愛ですよ。マツダは動物に好かれるんです」

「ああ! だから見たことない動物が走ってたのか。びっくりしたよー」

 谷には動物がほとんどいないので、キィコは飼い犬と飼い猫意外の動物をあまり見たことがない。ちいさな鳥だけはしょっちゅう見る。

「マツダはよく色んな動物に突進されてます。避けるのが下手なんですよ」

 犬と猫と鳥以外の動物が、そんなにこの世に存在しているのだろうか。

「すごいね。それって特異なのかな?」

 ノラは突然首をくるりと右側に向けた。その先には土壁しかない。苔の上を蟻が彷徨い蠢いているだけだ。

「そうかもしれませんね」

 声が少し暗かった。それが身内に対する気心の知れた無関心さからくるものなのか、他の理由があるのか、キィコには判断出来なかった。

 ノラがそれ以上何も言わなかったので、サーカスの話をすることにした。同郷のマオが団員なのでキィコはほとんど毎年見ているが、この日のチケットを取ることは本来かなり難しいのだ。

 毎年大きくテーマが変わるので、雨季前の谷での興行が、その年の演目が見られる最後の日になる。中には遥か遠くの土地から谷へ訪れる翼持ちなどもいて、キィコにはそれが自分のことのように誇らしかった。

「マオは南地区出身じゃないから、団員になるだけでもすごいんだ」

「そうなんですか? どうしてでしょうか」

 ノラはそのあたりの事情にあまり詳しくないようだった。

 地上では単に谷と一括りにされているが、谷の中でも東西南北で別の国と行っていい位に文化が違う。たとえば西地区はかなり機械化が進んでいて、最西端には山のように巨大な工場がある。工場は地上からの要請で昼夜問わず煙を吐き続けていて、地区全体が灰色で、住んでいる人間もどことなく灰色めいているようにキィコには思える。

 ノラの働いている東地区は、カジノを中心とした歓楽街で飲食店も多く、日が沈めば様々な色の光に溢れて目に煩い。地上の人間が一番多く訪れるのもこの東地区で、住人も多いので街全体が雑然としている。

 異質なのは北地区で、ここは中央政府の手が一番入っているため、今ではほとんど地上と変わらない景色をしている。小奇麗な住宅街ときらきらした商店の並ぶ街路。最近、学校も出来たという話だ。谷の人間は学術とは無縁なので、通っているのは北地区出身者と、噂では地上から一部の翼持ちも通っているのだという。

 やたらに舗装された道路が落ち着かないので、キィコはあまり北地区には近寄らない。

 そうして、谷と言えばやはり南地区だ。

 貧困層の多く住む地区で、かつて地上から法律やら常識やら、あらゆる概念が流れ込んできたとき最後まで抵抗していたのだ南地区だ。彼らが貧しいのはその名残だ、と実しやかに語られているが、実際はどうだか知らない。ただ、貧しいというのは事実だ。

 貧しい上に土地に比べて住んでいる人間の数が多すぎるので、最南端にある広場以外、土のある場所は全てが彼らの住居だ。土の上だけでは足りず、上へ横へと増築を繰り返し、生き物のように伸びたり太ったりしている。

 南へ行けば行くほど、道が道として機能しておらず。人が一人だけしか通れないような路地が複雑に入り組んでいて、治安も非常に悪い。さすがに祭りの日は明るさを保っているが、それは今日だけの景色だ。

 サーカス団はこの南地区で産まれた。

 彼らは地上から最も忌み嫌われているが、同時に最も認められている存在でもある。地元の人間だけでなく、いくら金を出してもいいという翼持ちがたくさん居るのだ。疎まれ、受け入れられ、憎まれ、かつ愛されている、サーカス団はそのことに誇りをもっている。

 彼らは自らが生まれた土地に強烈な郷愁を持っており、団員はほとんどが南地区出身だった。他地区の出身者が入るには、相当の実力が必要になる。

「今回はどんな興行をするんですか?」

 キィコの説明すると、ノラは興味深そうにそう聞いていた。

「えーっと」

 マオの語っていたことを思い出そうとしたが、話を聞いていたときにはちゃんと理解していたのに、いざ説明しようとすると上手くいかない。

「あのね、水がたくさん出るんだって」

「水?」

「うん。すごい出るって言ってた」

「水が出る」

 よく分からない、という顔をノラがする。キィコの中にはそれ以上言葉がなかったが、もう説明の必要もなさそうだった。人混みの向こう側に、黄色と赤の縞の付いた大きなテントが見えてきた。

 サーカスはもう目の前だ。

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