第7話 飛ぶ子ら
「ねえ、ノラちゃん! 谷に遊びに行く?」
静かにノラはキィコの顔を眺め返した。ノラは大抵この顔をしている。何かを注意深く観察しているのだ。
「あのね、今日はサーカスが戻って来る日だから、お店もお休みなんだ」
店が休みになるのは、不慮の事故を除けば、サーカスの戻ってくる今日この日だけだった。谷のサーカス団は、ほぼ一年を掛け地上の端から端までを巡業し、雨季の前に谷まで戻って来る。その日ばかりは、谷は谷の住人のためだけに開かれ、誰もが自分のためだけに楽しむのだ。
地上からも沢山の人が訪れて、町全体が大きな祭りに騒ぐ。目玉はもちろんサーカスだ。キィコはチケットを二枚もらった、ニーナとオルガのどちらかだけを誘うのは気が引けるし、大体の人間が意中の人と共に過ごす日なので、まだ他に声を掛けていなかった。
仕方がないので肌を燻られるのを覚悟で、ナカザトに着いて来て貰おうかと考えていたくらいだった。
「サーカスにはリュシーも出るんだよ」
キィコが立て続けにそう言うと、ノラは瞬きを数回して、やはりじっとキィコを眺め返していた。
「うん。そんなに遅くならないし、大人もたくさんいるし。どうかな?」
ノラは、口を開き何かを言いかけたが、そのまま噤んでしまった。目を伏せて、瞳をじっとさせて、地面に付いた自分の手の辺りを眺めていた。小さな指の間から、短い草がぴょこぴょこと頭を出している。
そうして、ノラは今まで聞いたことのない、か細い声を出した。
「ぼくが――行っても、良いのかどうか」
それが自問なのか、外の世界に向けられたものなのか、キィコには判断できなかった。行って悪いということはないだろう、とキィコなどは単純に思うけれど、谷を悪の巣窟か何かだと思っている地上の人間はことのほか多い。
こういう時、キィコは心から魔法使いになりたいと思った。
たとえ欲しいものが全て手に入って、生活の影が隈なく光に照らされたとしても、魔法使いにならない限りキィコは何者でもない。何者でもないから、ノラにちゃんと言葉をかけてあげることが出来ない。
なるべき者になり、あるべき場所にいない限り、すべての物事は本当にはならないのだ。キィコはノラに本当でない言葉を与えたくなかった。
魔法使いにさえなれば――。
その時、大きな破裂音がして、二人は俯いかせていた顔を同時に上げた。何度も同じ音がして、谷の南の方から七色の煙が空に上がるのが見えた。
「なんだ、花火か。びっくりした」
ねえ、と横見ると、ノラは口を開けて、まだ谷の上空を眺めていた。瞳の中で、虹の花が映って消えて、映って消えてを繰り返している。
キィコは、まだ自分が小さかった時のことを思い出した。一年で一度きりのこの日は、いつでも間違いなく幸福だったし、その頃はまだ、何者でもないことに少しの不安も不満も抱いていなかった。
何者でもないということこそが、祝福であった。
「ノラちゃ――」
キィコが勢いよく語りかけた先で、ノラはぱっと後ろを振り返った。異様な鋭さで遠くで草を睨んでいた。すると、ぱっと草陰から茶色いものが出てきて地面を横切った。あんな風に地べたを早く動くものを、キィコは見たことがない。
ノラは立ち上がり、背後の中空に向けて声を漏らした。
「マツダ」
二匹の小さな鳥が、低い所をくるくる飛んでいる。その下に人影があるのをキィコも発見した。ごく普通の青年に見えた。彼は辺りを警戒するように見回し、何かを探しながらこちらに向かってきている。
ノラはじっと身を固まらせていた。けれどそれは、考えているのではない。警戒しているのだ。
青年がノラを発見したようだった。彼もぴたりと動きを止め、何かを言おうと口を開きかけた。まだ座っていたキィコの視線の端で、ノラの手がぎゅっと握られたのが分かった。
「お嬢!」
「ノラちゃん!」
青年が声を上げたのと、キィコがノラの手をつかんだのは、ほとんど同時だった。
「えっ」
ノラは夢から現実に引き戻されたような、上ずった声を出して、青年に向けていた顔をキィコに向けた。驚いている。
「ねえ、サーカス! 私ノラちゃんと行きたいんだけど! どう?」
「ど、どう、って」
「ノラちゃんが行きたくないなら。諦めるけど、でも私は一緒に行きたいんだ!」
ノラはちらりと青年に目を向けた。マツダと呼ばれた男は、新たに頭の上を旋回し始めた四五匹の鳥を避けながら、こちらに向かってきている。
「行きたくないとは――思っていません」
ノラは困ったように笑った。意識の半分をキィコに、もう半分をマツダの方に向けて、曖昧な場所で笑っているように見えた。
「けれどぼくは――」
その瞬間、また音が鳴り、ノラはぱっと谷を見た。
瞳に虹の花がいくつも咲いて、すぐに散る。けれど、あまりにも次々と咲くので、ノラの目はずっと輝いていた。夢遊病者のようにノラは呟いた。
「行ってみたいです。サーカス――谷の町も」
そのあとに続いた「でも」という言葉を無視して、キィコは勢いよく立ち上がった。ノラの手を取って、鳥に囲まれているマツダに向かって手を降る。
「あの! 私たち、ちょっとサーカス行ってくるんで!」
まだ少し遠くにいるマツダは「はあ?」と言う声と共に、顔を大きくしかめた。
「あの! 大丈夫です! そんなに遅くない夜に帰りますんで!」
「いや、いつだよそれ! っていうか、あんた誰だ! うお」
マツダの体がぐらりと傾いた。彼の足下の草むらで、また何か茶色いものが駆けていったようだった。キィコは、急いでノラの手を引いた。
「いこ!」
「ちょっと、行くって」
ノラは戸惑っていた。キィコはその手を引いて、大地の縁のぎりぎりに立った。ここからの景色は、キィコよりノラの方が見慣れているはずだ。ノラがいつもやっているように谷へ向かって段々と巨人の階段のようになっているこの縁を飛び降り続ければ、人間の階段を使うより格段に早く昇降機へ辿り着く。マツダという青年も巻けるだろう。
「あの」
ノラが困ったような、苦しいような顔をした。
もっとこういう顔をするべきだ、とキィコは思った。怖いのも、悲しいのも、楽しいのも、外に出さなければ内側で全部黒い塊になってしまう。それはとても恐ろしいことだ。ノラに恐ろしいことが起きるのは嫌だ。
「大丈夫だよ!」
キィコが馬鹿みたいな大声を出すと、ノラは一瞬呆けたような顔をしたが、すぐにキィコの手を強く握り返した。
「いくよ、ノラちゃん」
「はい」
「せーのっ」
空に飛び出た瞬間、背中はさわさわと震えた。
進化、というのだそうだ。
そうしなければならない時、生き物はそうなるように出来ている。人間に翼が生えたのは、飛ぶ必要があったからなのだとキィコに教えたのは、ノラだ。
飛ぶ必要があれば、かならず翼は生えるのだ。
「うぇ、わわ」
けれど飛んだと思ったのは一瞬で、キィコの体は次の瞬間にはマットの上に到達していた。少し前に新調したばかりだからか、マットは想像より硬く、着地した途端、キィコの膝は段階的に三回がくがくと揺れ転がった。
「う、あぁ。よかったぁ」
手の感覚から、ノラは無事に着地したらしいと分って、キィコは安堵した。顔をあげると、ノラは首を斜め下に向けて、なぜか大きくキィコから顔を背けている。
「どしたのノラちゃん」
「お嬢!」
顔を上げると、谷の縁からマツダがこちらを覗き込んでいた。ノラが落ちたと思ったらしく、その姿を発見して安堵のため息を漏らしたが、すぐに表情が険しくなる。怒ろうとしている人間の気配がする。キィコは急いで退却の姿勢を取ろうとした。
手に力を込めた瞬間、横から大きな声が上がる。
「あはははは!」
「えっなに?」
キィコが声を上げても、ノラは体を短く上下に揺らせ、笑い続けた。
上からマツダの声が降ってくる。
「おい! あんた! お嬢になに、なにしたんだよ」
「え、しらない。うぉ、え?」
上を向いて答えていると、ぐっと体が引っ張られた。見ると、ノラが口の端と目の端がくっ付きそうなくらいふにゃりとした顔で、キィコの手を引いている。ノラはそのまま頭上に向けて叫んだ。
「マツダ! そこで大人しくしていて! ちゃんと帰るから」
「は? おい、ノラ!」
「行きましょう、キィコさん」
「あ、はい、はい!」
ぐいぐいと小さい手に引っ張られるまま、キィコはノラの後ろを走った。ノラが走っているところを、もしかしたら初めて見たかもしれない。
後ろから覗き込むと、やはりノラはふにゃふにゃと笑っている。その表情に、キィコは体がむずむずした。
「ねえ、どうしようノラちゃん! 私、翼生えそう!」
するとノラはやはり声を出してあははと笑った。
「ぼくもですよ!」
遠くの方で、また大きな昼花火が上がるのが見える。やはり、今日は一年で一番幸福な日だ。
何者でなくても、幸福でいてもよい。特別な一日なのだ。
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