第6話 さいしょの魔法

 今日もノラの背中に翼は生えなかった。

 仕事に行く前や休日に、ここでノラと過ごすようになってからもう何年経っただろう。ノラはキィコの特別な友人のうちの一人だ。

 こんな年になってもキィコは自分がどんな人間なのか分からなかった。仕事場にいる時と、家にいる時と、道端で古馴染みに会った時と、そのすべてが全く別の人格であるような気がするのだ。ある時は何かが過剰で、ある時には何かが欠乏している。

 でもノラの前でなら、キィコは過剰も欠損もなく、ただ存在していられるのだ。

「それで――」

 と、ノラはいつものように、谷の町に足の裏を向けて、ぶらぶらと揺らしてみせた。

「最初に叶える魔法はもう決まっているのですか?」

 かく、と微かに首が傾いた。そんな話はもうとっくにしていると思っていたが、まだだったようだ。

「あのね、最初は大魔法使いになる魔法を自分にかけるの」

「大魔法使い?」

 ノラはぷらぷらしていた足の動きを止めた。

「それはどういうことですか?」

「だからね、最初に大魔法使いになる魔法を自分に掛けたら、もうあとの魔法は全部叶うでしょう?」

「いえ、そうではなくて、大魔法使いというのは――それは一体、どういう魔法使いなんでしょうか?」

「そりゃあ、すごい魔法使いだと思うよ」

「すごい?」

「うん。すごい。多分魔力がすごい」

「魔力がすごい――」

 ノラは考えるのに体の動きをぴたりと止めた。それがノラの癖だった。本当にぴたりと止まるので、面白い。ノラはキィコの言うことを決して馬鹿にしたりしないし、変に持ち上げたりもしない。平坦に受け取って、平坦に考え、平坦に咀嚼する。

 谷に風が降りていって、ノラのワンピースの裾がぱたぱたと音を立てた。

「大魔法使いになるのは――大変じゃないでしょうか」

「え?」

 キィコが間の抜けた声を出すと、ノラはキィコの顔をしっかりと見た。

「大魔法使いなんて重責、キィコさんには似合わないと思います。あまり能力値が高いと、色んなことを要求されるでしょうし――権力による謀略とか、何かそういうものに巻き込まれるのじゃないでしょうか。ぼくは、キィコさんにはもっと自由な魔法使いが似合うと思います」

 そんなことは思いつきもしなかった。ノラはいつでもキィコの足りないものを与えてくれる。

「それは貴重な意見だ!」

 ノラがふっと口元を緩めて笑ったので、キィコはとても安心した。

 キィコはノラがどういう人間かほとんど何も知らない。ときどき谷の町を見下ろしながら何を思案しているのも、地上に住んでいるのに学校に行っている様子がないのはなぜなのかも、毎日谷の縁から飛び降りるくらいに翼を欲しがっているその理由も、話したくなさそうだから聞いていない。

 自分のことだけでなく、ノラは自分からあまりを話をすることがあまりない。けれど、そのノラが珍しく口を開いた。

「あの、リュシーさんについて、もう少し伺っても良いですか?」

 ノラが他人に興味を抱くのは非常に珍しいことだった。

「リュシーさんは、なぜ谷にいるのでしょうか。それほどの特異を持っているのに」

 ふっとノラが視線を谷の方へ向けたので、キィコも反射的にそちらを見た。南地区と東地区の境目にある高層建築が目に付く。屋上に綿の飛び出たソファーが転がっているのが見える。

 おそらくノラは、リュシーが地上の法に触れる存在ではないかと危惧しているのだ。たしかに、あれほどの能力を持つ人間が、谷にいるのはおかしい。

 特異持ちは、その特異が発露した場合、地上の中央政府に届け出をすることが義務付けられているのだ。中には故意に申告をしなかったり、嘘の申告書を出したりする特異持ちが存在していて、その理由はさまざまだが、子供を地上に取られたくないからという理由が一番多い。

 それは犯罪で、虚偽の申告が発覚すれば、相当な罪が科されることになると聞いた。ノラはそれを心配しているのだ。

「あのね、リュシーは地上の学院に通ってたんだよ」

 そう教えてあげると、ノラはぽかんと口を広げた。めずらしい表情だ。

「学院?」

 リュシーに教えてもらうまで、キィコはその学院の存在を知らなかった。一般に優秀な特異や珍しい特異は、幼くして発露することが非常に多く、地上にはそういう特異持ちだけが入学を許される――リュシーの言葉を借りれば入学させられる――学院があるらしい。

 学院は全寮制で、谷から遠く離れた地上の寒い場所にあると聞いた。長い休みもなく、入学してしまえば滅多に家には帰れない。もっとも、帰りたいとは思わないのかもしれないが。

「全寮制の学院? 特異の?」

 ノラは繰り返した。

「うん。ノラちゃん知ってる?」

「え? ああ――そうですね。話だけなら、聞いたことがあります」

「リュシーはそこの卒業生なんだよ」

「卒業生?」

 短い間体を停止させ、ノラは何かを考えたようだった。こわばりが溶けて、ノラはそっとキィコに訪ねた。

「ならば、リュシーさんの特異はもちろん中央政府に知られているのですね?」

「うん。ちゃんと許可を取って、リュシーは自分の意思で谷に戻ったんだよ」

「戻った?」 

 ノラはやや強い口調で繰り返した。

 無理もない。キィコだって地上で働けるのならば、谷では絶対に働かない。けれど、リュシーは違うのだ。

「リュシーは谷を良くするために、戻ってきてくれたの」

 戻った、とも一度ノラは繰り返した。不思議で不思議で仕方がないという顔をしている。これだけ表情豊かにしているノラを見るのはひさしぶりだ。キィコはなんだか楽しくなって、声を掛けた。

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