第5話 春の近くに香の焚く
キィコが事務所に入ったとき、雇われ店長のナカザトは、今まさに煙草へ火をつけようとしている所だった。ナカザトの指の先から火が出るときの音は、キィコにはどうしても火の消える音にしか聞こえない。じゅう、と水を掛けられたような音を立てて、指先に火が灯るのだ。
しかし、その火は煙草の先に触れないままゆらゆらと揺れ続けた。
「おい」
右目だけを細めてナカザトはキィコを睨んだ。
「何じろじろ見てんだ。燃やすぞ」
「あっ、すみません。見てません」
急いで顔ごと目を逸らすと、さまざまな物が目に入る。
事務所の中にはいつも我楽多が散乱していて、色彩が多すぎてどこへ眼を向けてよいのか分からない。キィコはナカザトの特異の詳細を知らないが、火を扱えるというだけで類を見ないほど珍しく、貴重であることは確かだ。実際に人を燃やせるほどの火を扱えるのであれば、地上に連れ去られても可笑しくない。
そうでなくても、もっと良い仕事が出来るはずなのに、ナカザトは失踪した前店長の代打だと言って、もう五年以上ここで働いている。
そんなことを考えて、床に転がる赤い球体を眺めていると、また剣呑な声がした。
「お前なにしてんの」
「え?」
キィコが声と一緒に顔を上げると、ナカザトは煙を吐きながら紙幣を数えていた。
「何しに来たのかって聞いてんだよ。理由なく俺の声帯使ったなら金取るぞ」
ナカザトの脅しは常に燃やすか金を取るかの二択で、これは脅しというよりは忠告なのだ。忠告を聞かなかったキィコは、一度左腕を軽く燻られたことがあるし、ほぼ毎回謎の理由で給料を天引きされている。
微々たる金額ではあるが、チクチク痛い。
「あの――立派に生きるって、どういうことなんでしょうか?」
「あ?」
また会話を間違えてしまった。どうも今日は調子が悪い。
「いや、違いました、それじゃなかった」
腕を燃やされる前に、キィコは急いで言い直した。
「どこかに花瓶がないかなと思いまして」
握りしめているのがいけないのか、名前の知らない草花は、茎のところが溶けそうなくらいに形が緩くなっている。
「花瓶? んな高尚なもんあるわけねえだろ」
そう言いながら、ナカザトは煙草を口に咥え直して、前店長が置いて行った我楽多を足で軽く蹴飛ばしながらあたりを探り始めた。ころころと木で出来た丸くて赤い物がキィコの方へ転がって来る。それが一体何であるのかキィコには本当に、少しも分からなかった。
「花瓶」
もう一度言って、ナカザトはあたりを見回した。キィコも同じようにあたりを見回した。窓辺の香立ての中ではらりと橙色の香が灰を落とした。
店の中にはいつも微かに香の匂いがしていて、今日の香は雨の降り始めの匂いがした。土の濃い匂いの中に、遠くから香る花の匂い。
春の近くでは香焚くものなのだと随分前にナカザトは言っていた。
「おら、花瓶」
ナカザトが差し出してきたのは、大きな半円状の透明な何かだった。
「えっと、これは、何でしょうか」
「花瓶だっつってんだろ、耳取れたのか?」
「取れてはないと思いますが」
一応両耳が付いていることを確認してから、キィコはナカザトが花瓶と言い張るものを受け取った。手にした瞬間、透明が銀色に変わり、覗き込んでいる自分の顔が映りこんだ。
少し離して見ると、また透明になる。
ボウルを持っている自分の手のひらの皺まで見えた。仕組みも素材もまるで分からないが、確かに水を張ることは出来そうだった。
キィコが礼を言うとナカザトは天引きとだけ答え、また紙幣を数え始めた。
水を入れると、今度は水の入ったところだけボウルが紺色に近い藍色になった。どこかで見たことがあるのに、ちっとも思い出せない妙な色だ。
「うーん」
どんな色だか考えていると、突然後ろから声が刺さってきた。
「お前、頭悪いのにまた余計なこと考えてんのか?」
キィコが振り向くと、ナカザトはもう紙幣を数え終えていて、窓辺の香の上に煙草の灰を落としている。性質の違う灰が、一緒になって墜落していった。
「えっと」
今言われたことを懸命に考えようとしたが、よくわからない。
「あたまは、確かに良くはないですが」
「良くない奴は全員悪いんだよ」
「そうなんですか?」
「お前はとくに悪い」
「それは――悲しいお知らせですね」
キィコはナカザトを見て軽く笑ってみせたが、ナカザトの目は重たく香の上に注がれていて、声だけがキィコに向かっている。
「運よく頭悪く生まれてきたんだから、余計なことを考えるのはやめろ」
運よく、という言葉が引っかかる。頭が悪く生まれて、何か得することがあるだろうか。生きていて、頭がよければと思ったことは幾度もあるが、頭が悪ければよかった、と思ったことは今のところ一度もない。
「ええと」
独り言とも相槌ともつかない音を声にして漏らした時、背後から衣擦れの音がした。事務所の入り口にその姿を認めると、一瞬でキィコの視界は明るくなった。
「リュシー!」
反射的にその名を呼ぶと、もっと明るくなる。
リュシーの長い髪は雪と金の指輪を混ぜたような甘い色をしていて、それを発見すると、どんな時でもキィコは喜びを感じる。リュシーはキィコにひとつ微笑みをくれてから、ナカザトに目を向けた。
「店長、お客さま皆さん帰られましたよ」
ナカザトは無言のまま灰皿に煙草を押し付けると、また新しい煙草を口に咥え、水、とだけキィコに言い放って出ていった。
はっとして洗面台に駆け寄ると、水の溢れたボウルの中で、藍色が溺れて揺れている。急いで蛇口をひねると、リュシーが後ろから覗き込んできた。
「あら、綺麗ね」
その声を聞いた時、キィコはやっとその色が何であるのか思い出した。かつては銀色であり、また透明でもあったその半円は、今や夜空の色をしているのだった。
濃い藍色の中で、大小さまざまな光が瞬いている。
「たぶん壊れた天体球ね」
リュシーが言った。
「てんたいきゅう?」
「本来は真ん丸なのよ。半分に割れてしまったみたい」
確かに、淵の部分はぎざぎざと不自然に波打っていた。
「昔は占いに使われていたの」
キィコはリュシーにこうやって何かを教えてもらう度に体の中の欠けたものが埋まっていくように感じた。どんなに些細なことでも、リュシーに教えてもらうだけで大切なものに変わる。
この店に来たばかりのころは、何をするにもリュシーの助けなしではいられなかった。お茶を汲むというただそれだけのことが、当時のキィコには手に汗を握る一大事だったのだ。どんな小さな失敗も、必ず人生に悪影響を及ぼすのだと信じ切っていた。
リュシーは絶えず寄り添って、優しく声を掛け、キィコのどんな失敗にも、種を植えるように価値を与えてくれた。今では、リュシーの存在から零れるものすべてに、キィコは価値を感じる。
「それ、ニーナにもらったの?」
キィコの手元のくたびれた草木を見てリュシーが言った。
「うん。オルガちゃんのクレヨン。元気がなくなっちゃって」
すると、リュシーは微笑んで、キィコの手ごとその草花を包んみ、いつものおまじないの唄を歌った。手のひらの中で、茎が水を飲み干すようにどくどくと脈を打つのが分かる。
しばらくすると、伏せていた花の頭はみるみる上向いていった。
「どう? 少しは元気になったかしら」
「うん。すごい元気! ありがとうリュシー」
急いで草花を星空の中へ放つと、水の中の星がきらきらと強く煌めいた。キィコは、そこらじゅうを走り回りたいような気持ちになった。
「役に立てて良かったわ」
リュシーが笑う。
キィコは手のひらに残っていた茎の脈打つ感触が、自分の体全体に広がっていくのを感じた。リュシーの特異は癒しだといつか誰かが言っていた。けれど、キィコは違うと思う。それは大変な間違いだ。
だってリュシーは魔法つかいなのだから。
そう言われたことはないが、頭の悪いらしいキィコにだって、少し考えれば分かる。世の中には魔法使いがいて、誰もその人に会ったことがない。ならば当然、彼らは正体を隠しているのだ。
リュシーのこの能力は、特異では説明がつかない。
「ねえ、魔法リストはたまった?」
そう言って、リュシーはいつもキィコの手帳を見たがった。
その度、やはりキィコは確信した。リュシーは魔法リストに書かれた事柄について、一つ一つキィコに質問をするのだ。そうして、それが本当に必要なものかどうか、一緒に吟味してくれる。
これは魔法使いになれる試験のようなものではないのだろうかと、キィコはそのたびわくわくした。
「ねえリュシー、魔法使いになったら絶対二番目にリュシーに魔法をかけるからね。考えておいてね!」
嬉しくなって、キィコは手帳を見せるたびにそう口走った。手帳の二枚目はリュシーのために白紙のまま残しているのだ。
「ええ。ちゃんと考えてるわ」
リュシーのその声は、キィコが魔法使いになることを少しも疑っていない。それは、どんな希望の歌よりもキィコを明るい気持ちにさせるのだった。
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