第4話 ニーナとオルガ

 今日は地上が休みの前日なので、客の入りが多く、キィコが従業員の待機室に戻れたのは、閉店の三十分前のことだった。客がこない暇な時間は従業員たちはここで思い思いの時間を過ごしている。

 オルガは相変わらず絵を描いていて、ニーナも相変わらずそれにちょっかいを掛けているらしかった。

「あ、キィコさん帰ってきた!」

「お帰りなさい」

 この時間がキィコはとても好きだった。キィコははずんだ気持ちで二人に常連客に貰ったお菓子を振る舞った。それは丸く、色々な花の形をしていて、口に入れるとぱちぱちと弾けて甘かった。

「なにこれ! めちゃくちゃ美味しいっすね!」

 興奮したニーナは、二つ結びの金色の髪を大きく揺らせて言うと、オルガのクレヨンに手を伸ばした。

「ちょっとニーナ」

 オルガが声を上げるのと同時に、小さな破裂音と煙が上がる。するともう、ニーナの手の中で、クレヨンは真空色の花束に変わっていた。ニーナはそれをキィコに手渡した。

「お礼です。受け取ってください」

 ニーナは物を花に変えられる特異を持っているのだ。興奮するとすぐにオルガの画材を花に変えてしまう。大きさや形など、花に変えられるものは限られているらしいが。ニーナは自分の特異にさして興味がないらしく、ほとんどの花の名前を知らなかった。どうせならもっといい特異がよかったというが、物に影響を与えられる特異というのは、それだけでかなり珍しい。

「もしかして必要な色でした?」

 ニーナがへらへら笑うと、オルガはもう何本も残っていないクレヨンに蓋をした。

「新しいの出して」

「いっすよいっすよ。早く出しちゃえば良かったんすよ」

 ニーナはぴょんと飛び上がると、部屋の隅にある階段棚のところまで行って、引き出しを上から順番に開け始めた。いつまでたってもどこに何が入っているのか覚えられないらしい。

 オルガの紙の世界には虹が架かっていて、それは青色で止まっている。

「ごめんね、オルガちゃん。虹が途中で」

 キィコが言うと、オルガは驚いたような顔をした。それから少し前までクレヨンだった花びらに触れて、キィコに小さく微笑みかけた。

「キィコさんは、花がよく似合いますね」

 オルガの切れ長の目が三日月の形になるのを見ると、キィコはいつも嬉しくてどきどきする。

「そう? そうかな」

 照れながら答えていると、ニーナが戻ってくる。

「これが最後みたいです。また買いに行かなきゃ」

 新品のクレヨンと引き換えに、オルガは暗い色ばかりが残った箱をニーナに差し出した。

「あげる」

「いやいらないっすけど」

 そう言いながらニーナは受け取って、一度首を捻った。湿られた箱を開けて、クレヨンを次々に植物に変えていく。紺や黒や茶色や灰色だったクレヨンは、どんどん蕾の付いた植物に変わっていった。

「んー、やっぱりこれになっちゃうか。キィコさん、これも賑やかしにあげるっすよ」

 暗い色の物質は、蕾のついた植物になるらしい。この蕾は花にならずに枯れるらしい。けれどいろんな形に丸まった緑色をキィコは嫌いではなかった。

 どうにかしたら上手く花が咲かせたいけれど、キィコには花の仕組みがちっとも分からず、調べようと思うのに、いつもそのことを忘れてしまう。

 キィコが考えている間、ニーナとオルガは贔屓にしていた画材屋がなくなったという話をしていたらしい。

 オルガがため息を吐いた。

「だから、別にあそこのじゃなくても良いよ」

「えー。あそこのが一番良いって言ってたじゃないですか。なんで諦めちゃうんすか?」

「潰れたのはどうしようもないでしょ」

 それは何度か三人で訪れたことがある画材屋だった。

 巻貝を縦に置いたような妙な外観の建物で、中に入るとまず中央にある、絶えずジィジィと音を上げている大きな茶色いレジスターに出会う。そして、それ以外に物はなにもない。

 内壁に沿うように螺旋階段が付いていて、その階段と階段の間が全て抽斗になっているのだ。画材は全てそこに入っている。

 ニスと埃の匂いが混ざったあの画材屋の、階段を登り切ったてっぺんには何があったのか。なくなってしまったと聞くと、途端にそんなことが気になり始めた。

 キィコはいつも腰に付けている革のカバンから手帳を取り出し、そこに急いで『画材屋さんを復活させる』と書きつけた。インクがすっかり紙の中に染み込んでしまったのを見ると、同じようにじんわり安心する。

 横にいるオルガがそれを覗き込んで、ふっと笑った。

「もっと良いことに使ったほうがいいですよ、魔法は」

 オルガの言う魔法という言葉の響きは、さっきの若い客の男の放った音とは全く違う。柔らかくて、温かくて、幸せな気持ちになる言葉だ。

 嬉しくて笑いながら、キィコは手帳をしまった。寝るときと仕事をしている時以外、キィコはつねにこの手帳を持っている。人より物忘れが激しいので、魔法使いになったらやることを忘れないように書きつけているのだ。

 オルガもまたニーナの言葉にうんうんと頷いた。

「そうですよ。少しはほら、あのー。あれです、あれ? しりしよく? そう! 私利私欲のためにも使わないと。あっ、そうだ。聞いてくださいよ、さっきのお客さん! すっごく恰好良くて!」

 そこからはニーナの運命の翼持ちの話に終始した。

 ニーナの夢は地上に住むことで、そのために日夜結婚相手を探しているのだ。少し前までは前途有望な若い翼持ち探しに心血を注いでいたが、最近はすでに成功している年上の翼持ちに的を変えたそうだ。

 結婚した暁には、地上に大きな庭のある白い家に建てて、キィコたちを週に三回は呼んでくれるらしい。

「お茶会とかして、幸せに暮らしましょうね!」

 ここにいると、キィコは心の底から幸福な気持ちになる。この小さな部屋の中には、自分たちを否定する人間は一人もいない。

 例えばニーナが地上の翼持ちと結婚することを夢みても、オルガが誰に頼ることなく自分の画力だけで生きることを望んでいても、誰も、無理だとか、現実を見るべきだとか、そういうことは言わない。

 キィコの魔法使いになるという目標も、楽しみだと微笑んでいてくれる。しかし、幸せを感じると同時に、いつもキィコの頭の中には一人の従業員が浮かぶのだった。

 彼女はキィコがこの店に入って初めて挨拶した先輩で、次の日にキィコが出勤したときには、もう死んでしまっていた。

 腹を刺して死んだ、という簡単な説明を当時の店長から聞いたとき、キィコは砂糖菓子の入った紙袋を胸に抱えて持っていた。

 前日に髪飾りを借りたまま帰ってしまったので、そのお詫びと、出来ることなら彼女と一緒にお茶がしたいと思ったのだ。叶えたいことがあって、と彼女が話していたその続きを聞きたいとも思っていた。名前も聞かないままだったから、それも――。

 しかし、もうすっかり、彼女は死んでしまっていた。

 彼女の死は完全に終わっていた。誰の中にも死が浸透していて、それだけだった。

 立派に生きるというのはどういうことだろう。

 また急に、さきほどの若い翼持ちの男の言葉が頭に浮かんだ。

 握っている草花が、先ほどよりも重くなっている気がして、見ると先の方がしなだれて元気がなくなっているようだった。

「あの! 私、花瓶取って来るね!」

 またキィコの口からは大きな声が漏れた。

 けれど、ニーナもオルガもキィコの声調のまずさには慣れっこで、ただ笑顔で送り出してくれた。

 彼女たちは花に似ている。

 リュシーはまだ希望の唄を歌っていた。

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