第3話 鬻ぐうた
仕事場に着くとリュシーが歌っていた。
いつ聴いても、キィコはリュシーがどんな声をしているのか、聴いているその時でさえ分からなかった。ただ歌が歌として体に染み込んでいる。
まだ熟しきっていない林檎にたくさんの砂糖をまぶして焼いているところだとか、主人が席を外したあとのテーブルに裁縫道具が散らばったままでいるところとか、一人の青年が立ち上がるところ――その先には必ず明るく開けた道があり、彼のための敵対者がいる――とか。リュシーいつでもそういう希望の唄を歌っている。
けれど、この小さな箱のような職場では、その歌を聞いている客は一人もいなかった。
翼持ちは谷に娯楽を求めている。汗を流したり涙を流したり、もっと他の体液を流したり、あるいは消費や賭事、精神の高揚、そういった類のものが谷には求められている。特に谷の東地区ではそういった商売が盛んで、キィコの勤め先もそういった店だ。
小さな電燈がぽつぽつと浮いているだけの薄暗いフロアで、壇上のリュシューの歌を聞きながらソファーに座り、話をしたり、しなかったりする。その喋りの相手をするのがキィコの仕事だ。あまり人間扱いされることはない。
すごいですね、本当ですか、大変ですね、というような相槌を、適切なときに適切な表情と声音で返すことが出来ないと、簡単に叱責される。叩かれることもあるし、わけもなく体を触られることもある。
買った分の時間だけ、自由にすごせるというのがこの店の決まりだ。もちろん、叩いたり触ったりするのは本当はルール違反だけれど、違反を訴えるとすぐに客が取れなくなる。我慢と笑うことがキィコたちの仕事だ。
それに悪い客ばかりではなく、ちゃんと楽しい時間を一緒に過ごそうとしてくれる人もたくさんいるのだ。
いつだか、もう死んでしまった年増の従業員が、私たちに優しくする人間は、私たちのことを同じ生き物だと思っていないのだと、恨めしそうにしていたが、それのどこが悪いのかキィコには分からない。
別の生き物に優しく出来るのならば、それは良いことに決まっている。
「は? 魔法使い? 何言ってんだあんた」
だいたいはこんな風に、同じ生き物でないものには攻撃的になるものだから。
この若い翼持ちは、座るとすぐにべたべたとキィコの体を触りはじめた。何か話をしてみせろと命令してきたので、キィコは始めての客にする用の話をいくつかしてみせたが、男のお眼鏡には叶わなかった。すると男はいくつもいくつも質問を投げかけてきて、即座に答えられないとキィコの頭を軽く叩いたり、腕を抓ったりする遊びをし始めた。
抓られるのが嫌で、思わず本当の将来の夢を口走ってしまった。男は大いに笑った。
「魔法使いって! あんたもう二十一なんでしょ? それで翼が生えてないんじゃ何かの特異持ちに決まってるだろ。二十一でそんなこと言ってるのはさすがに頭がおかしいって」
「ええ? そうですか?」
キィコは笑った。本当に面白かったのだ。だって実際、キィコはもう二十六なのだ。そして、それこそがキィコが魔法使いになれる理由だ。
この年まで翼も特異も持たない者はめったにいない。少なくともキィコは会ったことがない。だから、何を言われようと、気にもならなかった。ただ、面倒だとは思う。とても面倒だ。
しかし、彼は急に静かになった。
ぼんやりとフロアの中空を眺め、しばらくそのままでいた。声をかけるとまた抓られるかもしれないのでキィコは黙っていた。キィコはそっとリュシーの歌に耳を傾けた。どんなときでも、どんな場所でも、リュシーの歌はキィコを明るい気持ちにさせてくれる。
すると、妙な間で突然男は胡乱げに呟いた。
「でも――特異だろうが翼持ちだろうが、立派に生きればいいと俺は思うんだよ」
「立派に、ですか」
キィコは意図して男の言葉を繰り返した。この店で一番最初に教わった接客法がそれで、やはり一番に効果のあるものだからだ。
うん、と男はうなずいた。
「立派にさ、ちゃんと生きられるよ、たとえ特異だって」
ときどきこんな風になる客がいるのだ。急に大人しくなって、ふっと希望めいたことを口走り、あとは人間が変わったようにぼんやりとして時間を過ごす。翼持ちの習性なのだろうかとも思ったが、そうならない翼持ちもいるし、こうなってしまう特異持ちもいるのでよくわからない。
だからキィコはそういう時、リュシーの歌が届いたのだということにして、黙っている。何かを解明したり、暴いたり、進んだりしようとするのは無駄なことだから、そうして忘れることにしているのだ。
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