第2話 さんしゅるい
谷へ降りる油くさい昇降機の中に、背広を着た男が乗っていた。
それを見て、なぜかキィコは尋常学塾の教師のことを思い出した。正しく言えば、彼が深緑のよれたスーツのポケットに、チョークの白い粉を擦りつけながら放った言葉のことを思い出していた。
「世界にはさんしゅるいの人間がいます」
その言葉には、平坦に発音しよう、平等な人間であろうという気持ちが籠りすぎていて、いつでも非常に重い違和感を持って入ってきた。何度も何度もそれを繰り返すので、結局キィコの世界の人種はいつまでも三種類にならなかった。
翼持ちと、特異持ちと、魔法使いと。
さんしゅるい、いる。
「降りますか?」
顔を上げると、すでにエレベーターは谷の底に到着していた。
昇降機の中は全てが濃い銅色をしていて、大小様々なパイプも、床の網目も、天井についたプロペラも、沼の底で眠り込んでいるような装いなので、乗っていると思考もどろどろ溶けていってしまう。
開ボタンだけがいつも起きていて、油を塗ったばかりのように、明るく滑ついて光っている。背広を着た男はそこに直接触れないよう、薄い水色のハンカチを挟み込んで、怪訝そうにキィコの様子を伺っていた。
「あ、すみません、降ります! ありがとうございます!」
頭を下げて男の横を通り過ぎたとき、男の背中が大きく盛り上がっているのが見えた。まだ日が暮れていないうちから彼のような人間が谷に降りてくるのは珍しい。
昇降機から出るとすぐに谷の匂いがした。
切ったばかりの植物の茎のような、雨が降ったすぐあとの土のような、獣の通り過ぎたあとのような、そんな匂いだ。いつでも微かに湿っている谷の土の上には、すでに沢山の白い羽根が落ちていた。
振り返ると、先ほどの男もすでに上着を脱いでいる。ワイシャツの背にある二つの切り込みから、白い翼がもはもはと風に踊る。翼持ちがまだ日の暮れていないうちから谷に降りてくるのは珍しいことだ。
男はスーツを腕にひっかけて、大通りの奥へ消えていった。キィコは横道へそれた。大通りはどこも食べもののしょっぱい匂いや電飾の燃える匂い、あとは女の花の匂いがする。そこからひとつ横道にそれると、人間の汗の匂いと、石鹸の匂いと、ドブの匂いが加わる。
あの教師は――と、キィコは古い記憶の続きをなぞりながら歩いた。
彼は「三種類」という言葉はうまく言えなかったのに「翼持ち」という言葉だけは上手すぎるほどに滑らかに発音していた。
堂々と、朗々と。
「翼持ちは人口の約七割を占めるといわれておりますが、これはその名の通り翼を持つ人種のことを言い、だいたい十歳から十七歳までに背中に白い羽が生えると言われています」
彼はそう言って教科書から顔を上げると、わざとらしい間を持って教室の子供たちを見まわした。そして、一度短く頷いてから、続けた。
「みなさん。教科書にはこう書いてありますが、これは統計上、この年代に翼が生えることが多いというだけで、そうでないからと言って焦る必要はありません。記録では三十一歳まで翼の生えなかった人間がいますし、生まれてわずか五日で翼の生えたものもあります。これらは実際にあったことなのです。つまり、これからいくらでも起こり得るということですよ。ええ。ですから、これは翼持ちに限りませんが――」
彼が本当に言いたかったのは、そのあとの言葉だ。
「個人差、という言葉を覚えてください。翼も特異も、すべて個性のうちの一つなのですから」
その個性という言葉は、彼がそれを強く唱えれば唱えるほど、見窄らしく滑稽に聞こえた。似合わない服を褒められるのを待っている子供を見ているようで、虚しくなる。けれど彼は、必要以上にその言葉を子供たちの前で繰り返した。
まるで自分が作り出したものを自慢するように。
実際には、個性という概念を谷に持ちだしたのは翼持ちだ。そうしてそれにしがみついているのは特異持ちだけだった。
「特異というのは」
教師はその段になるとただ教科書を読み進めるだけだった。
「翼を持たない人間の肉体的、あるいは精神的な特殊能力のことで。これは人口の約三割を占めます。この能力には限りがなく――」
機械のような抑揚のない教師の声を思い出しながら、キィコはある女性のことを思い出していた。彼女は人の汗を舐めればその年齢が分かるという特異持ちで、毎朝同じ時間にシーツを洗っていた。
彼女の薄い赤茶の瞳は常に伏せられていて、まるで何もかもから――身の回りの空気からさえも――迫害を受けているように、いつでも暗く翳っていた。
「どうしてわたしたちには翼がないのかしらね」
自らの汗を口に含んだとき、彼女は一体何を識るのだろう。
「歴史上では」
頭の中で教師が続けた。
「空を飛ぶ特異を持った人間もいました。水を操るものや、植物と交信する特異もありました。いいですか。つまり、特異というのは人間の可能性の発露なのです。我々特異持ちの一人ひとりは、あぁ、いやもちろん翼持ちも――みんな、誰もが人類全体の希望なのです。特異持ちであろうと、翼持ちであろうと、また谷に住んでいようと、地上に住んでいようと」
興が乗ってきたらしい教師は、恍惚として辺りを見回していた。
「皆、等しくこの星の大切な生き物なんですよ」
しかし彼は、優秀な特異持ちが皆、地上へ連れ去られてしまう理由については、ついに語らなかった。
この谷に住み、働いているのは特異持ちばかりだ。それはかつて、特異持ちが谷の中から出ることを許されてなかったからだというが、その頃の世界がどんな状態であったのか、キィコたちはよく知らない。谷が開かれたのは三百年前の話で、教科書にはそれ以後のことは詳しく書いてあるが、以前のことについてはほとんど書かれていないのだ。
今では、特異持ちが地上と谷を行き来するのに、許可は必要ないし、地上に暮らす特異持ちもいる。けれど、谷で暮らす翼持ちはほとんどいない。翼持ちは夜な夜な谷に降りては来て、朝になる前には必ず地上へ帰る。
これが一体何を意味するのか、あの教師は教えてくれなかった。
「さて、最後に魔法使いですが」
教師は最後の段になると、もうすっかり落ち着き払っていた。声は全く平坦で、少しの感情も携えてはおらず、おはようございますとか、さようならとか、そういう飾りのような言葉と同じ響きをしていた。
「彼らについてはほとんど何も分かっていません。一節によると全人口のうち0、01パーセントほどと言われています。翼持ちとも特異持ちとも違う、魔法というものを使う人たちのことです」
その後に、かつての魔法使いの功績がいくつか述べられた。今現在、魔法使いがどこにいて、何をしているのかを知っている人間はいない。彼らの実態が明かされていないのは、混乱を避けるためなのだそうだが、魔法使いの全貌を明かすことで、世界がどう混乱するのかはよく分からない。
ただ確かなことは、翼持ちや特異持ちとは違って、魔法使いはいくつもの能力を自在に使うことが出来るということだ。翼持ちの能力は飛ぶことだけだし、特異持ちの能力もある一つに限定されている。
魔法使いだけが唯一、外側から、自分の意思で、世界を変える力を持っているのだ。
「うん」
キィコは自分に対して小さく頷いた。
魔法使いになって、嫌なことはすべてなくしてしまう。それがキィコのするべきことで、人類の目指すべきものだ。誰も差別せず、誰にも差別されず、みんなを幸せにする。そのためには、絶対に魔法使いにならなくてはいけない。
だから、キィコには翼はいらないのだ。
絶対に、いらない。
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