君の谷、僕の塔。
犬怪寅日子
前幕 君の谷
一幕 緑の匂う谷の底から
第1話 儀式
そもそも人間に翼の生えるとき、本当に兆候などあるのかどうか。
幼いノラの背中は肌の表面がぴんと張っていて、指を這わせると人間の中身がすぐそこにある感じがした。微かにぼこぼこと浮かぶものが、骨なのか筋なのかよく分からない。けれどここに翼の材料が入っているのかもしれないのだ。
キィコはいつも以上に真剣に指を動かしてその背中を調べた。人差し指と中指と薬指で、肩甲骨のくぼみをなぞる。上から下に。下から上に。今度は人差し指一本で。同じ場所を触っているのに、違う感触がする。何かがここにあるのだろうか。
翼の材料が。
「あの、どうかしましたか?」
指の動きが止まったのを訝しがったのか、ノラが首を後ろに向ける。その拍子に、緑色のものがキィコの視界に入った。ノラの凹凸のない真っ直ぐな腕に、くるりと巻いた羊歯の葉先が触れている。途端にキィコは焦ってしまった。
このままじっとしていたら、じきにノラの肌は緑色になってしまうだろう。
それが空想なのかどうか、キィコにはもうよく分からなかった。自分の考えていることが空想なのか現実なのか、もうずっと長い間分からないでいる。
けれど、これは確かな現実として――世界のうちに緑に侵されていない場所はない。
「キィコさん?」
再びノラが怪訝そうな声を上げた。
「あぁ、うん」
やっとそんな意味のない言葉を吐いて、キィコは気づかれないようにそっと羊歯の葉を払い、ノラの足元にある町へ目をやった。
ノラはいつも谷の縁に座っている。その小さな足の下には、巨人の階段が続いている。深く抉られた大地は、遠くから見れば確かに丸いけれど、近くで見ると汚くまばらな段差の集合体なのだ。キィコはここに来るといつも思うのだ。巨人であれば、この階段を下りて谷まで降りられるのにと。
実際には、小さな人間たちが抉られた大地の底にある谷の町まで行くには、昇降機を使わなくてはいけない。しかも昇降機は地上まで届いていないので、そこにいくまでに人間用の階段を三百段も降りなければいけないのだ。
「あの――何かあったんですか?」
「えっ」
三度目のノラの声がしてキィコは谷から視線を目の前に移した。
指先はまだノラの背中に触れたままだった。ノラの睫毛は下を向いていて、それはときどき不安げな影を作る。けれど、実際にノラの心に不安というものが存在するのかどうかキィコにはよく分からなかった。あまり表情がないから。
何か会話の途中だったろうか?
そう思いながら、キィコは何を探しているのか分からないまま、目を動かした。すると、ノラの肩口の向こうにある小さな膨らみが目に入る。
「ねえ、ノラちゃんおっぱい隠さなくて平気?」
言ってしまってから、これは違うだろうと漠然と思った。会話を間違えた。けれどそれはキィコにとって突拍子のない話題ではなかった。
出会ってしばらく経つまで、キィコはノラのことを男の子だと思っていた。今でも姿形は少年のようだけれど、当時は髪も今より少し短く、服装も短パンばかりでスカートを履いているところなど見たこともなかった。それにこの儀式を始めたときにはまだ今みたいな胸のふくらみは見当たらなかったのだ。と言っても、今でもその膨らみは些細なものではある。
すると、ノラはため息とも呼吸ともつかない息を吐いて、キィコへ向けていた顔を正面に戻した。
「せめて胸と言ってくれませんか」
口調に抑揚がないのはいつものことだ。
「あぁ、うん。じゃあお胸! お胸隠さなくてへいき?」
キィコが急いでそう言いなおすと、指に触れた皮膚の中が微かに揺れた。どうやらノラは笑ったらしかった。怒っていないのならばよかった、と思う。
「こういう性差に価値を見出すのは、人間の特性ですね」
とノラはいつものように少しも音を弾ませずにさらさらと喋った。けれど、所々か弱く音が掠れるような所は、やはり子供の声帯という感じがする。
「また難しいこと言ってる?」
そう答えながら、けれど実際のところ、ノラはいくつなのだろうとキィコは思う。外見だけで言えば十歳くらいに見える。しかし子供と関わりのないキィコにはそれがどの程度正しいのか皆目見当も付かなかった。十二歳くらいかもしれないし、八歳くらいなのかもしれない。さすがに五歳ということはないだろうと思うが、それも確信は持てない。
すると今度は顔をこちらに少し向けて微笑みながら、ノラは言った。
「今日は遅番ですか?」
そう言って、腰元まで下していた黒いワンピースを座ったままで肩口までたくしあげ始めた。どうやら儀式はもう終わりとみなされたらしい。
ノラの背中には今日も翼は生えなかった。
その前兆もない。
「そう! 遅番だよ!」
普通に答えたつもりが、予想以上に元気な声が出てキィコは自分で驚いてしまった。ノラはそんなことは気にせず、大人のように優しく答える。
「それならまだ時間がありますね」
「そだね。なにして遊ぶ? あ、もう一回」
その時、影が頭上を通り過ぎていった。
風を切る音はしなかった。かなり上空を飛んでいるらしい。キィコはすぐに空を見上げずに、まずノラの顔を盗み見た。ノラがどんな風にそれを見るのか気になったのだ。そこに、ノラの本当の年齢が見えるかもしれないと思った。
しかし、それはまったくの見当違いだった。
ノラは口を大きく開けるわけでも、憧れや妬みで顔色を変えるわけでもなく、全く平素と変わらない表情でいた。そうしてただ、翼の生えた人間を眺めるという作業をしている。
「女の子ですね」
口調もいつも以上に平坦だった。
「おんなのこ」
意味なく言葉を繰り返すのが自分の癖だな、と関係のないことを思いながら、キィコも空を見上げた。
空色の下に、紺色のスカートのひだが、ふわりと膨らんだのが見える。あれは、おそらく地上の女子学校の制服だろう。
ついさっき翼が生えたらしいその女子高生は、学校指定の四角い鞄を胸に抱きしめるようにして、前身を抑えていた。
翼に突き破られた制服は胴の部分がまだほんの少し繋がっているだけで、背中は大きく破れている。
ぐっと頭を下げて、彼女は何かを耐えているように見えた。
「人生――」
と、ノラが何事かを言った瞬間、大きく風が吹いた。耳の側を獣のような風の音が走って、キィコは目を瞑った。小さな砂がいくつも腕に当たってくすぐったい。
このあたりの砂はみんな白くて軽くて細かく、酷く心許ない存在の仕方をしている。
すっかり風がいなくなったのを確認してからキィコは目を開けた。
ノラが立ち上がっているのが見える。小さな手の平で膝がしらの上をぱすぱすと叩いて、捲れたワンピースの袖を直している。
「じんせい?」
キィコが口にすると、ノラは一度ぽやっと口を開け、不思議そうな顔をした。けれど、すぐに意味を理解したらしく、瞳を三日月にして微笑んでみせた。
「人生最良の日らしいですよ。翼が生えるのは」
そう言って、また空を見上げる。女子高生の翼が、彼女とは別の生き物のように躍動しているのが見える。
「人生最良」
その言葉は、いつまでもぷかぷか空に浮かんでいるようにキィコには思えた。
それは一昨日の昼、飯店の看板娘が、軒先にぶら下っている豚を見ながら放った言葉と同じような浮かび方をしている。知ってますかぁ? とい緩い声を吐きながら、彼女の手は淡々と点心を量産し続けていた。
「豚は頭が良いらしいですよ」
と、彼女は言ったのだ。
「人生最良」
もう一度繰り返してみたが、キィコには、その言葉の血の通った意味が分からなかった。
「人生ねー」
空の中でまた大きく制服のスカートが翻る。
確かに、綺麗に皺を伸ばしてから着たに違いないあの女子高生の制服が――取り分けそのスカートが――翼の生えてしまったばっかりに妙な皺を付けているだろうことは、生活ではなく人生と形容されるべきなのかもしれない。
だとすれば、皺のつきかたの問題ということなのだろうか。
人間の種類の違いは――。
「ぼく、」
と、突然下の方から生真面目に強い声が聞こえた。見ると、ノラは空ではなくキィコを見上げている。
その瞳の真ん中で、黒い液体がきゅっと個体に近づいたのが分かる。
「なぁに?」
そう言って、キィコはノラのワンピースの下に隠れている首飾りを引っ張り上げた。柘榴色の宝石が体の中からこぼれでる。
黒い生地の上に、深い赤が水のように煌めくのを見ると、キィコはいつでも笑いたくなった。
ノラはもう一度、ぼくは、と宣言し直した。
「人生最悪の日になっても、それでも翼が欲しいんですよ――本当に」
ほんとうに、という音を吐きながら、ノラの瞳の黒点がまた溶けて滲んでいくのをキィコは見ていた。
知っている。
ノラが翼を欲しがっていることなど、もうずっと前から知っている。
というより、キィコがノラに関して知っていることはほとんどそれしかない。ノラは翼が欲しいのだ。
ずっと翼を欲しがっている。
「うん。でも私は、翼だけは死んでもいらない」
キィコが答えると、ノラはやはり溶けたように微笑んだ。
「そうでしょうね」
声が微かに弾んでいる。
キィコが翼はいらないと言うと、ノラはいつでも格別に嬉しそうにした。その声の甘さの理由を、キィコは全く理解できない。
女子高生は谷の上から離れて地上の町の方へ向かっていた。彼女自身はぴくりとも動かず、翼だけが大きく蠢いている。
翼持ちはみんなそうだなのだ。人間に翼が生えたのではない。翼に人間が選ばれたのだ。
翼こそが価値。
翼が全て。
「本当にいらないな」
けれど、キィコが心底からそう呟くとき、ノラはいつでも緊張したような面持ちをするのだった。
その理由も、もちろんキィコは知らない。
知らないままで、隣にいる。
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