第9話 水底興行

 広場の中には、所狭しと屋台が立ち並んでいた。

 屋台には、団員たちが地上で仕入れてきた各地の食べ物や雑貨が置いてあって、店番の団員たちは各地の伝統衣装などを着ていている。

 以前ニーナと来た時に、どの国の衣装で結婚式をするのが良いか、という話で盛り上がったことをキィコは思い出した。

 ノラが熱心に屋台を観察しているのを見て、連れてきてよかったと思う。地上にいても、自分の住んでいる土地以外のものに触れる機会はあまりないのかもしれない。

 けれど、ノラが一番に気に入ったのは屋台ではなく、テントの入り口にいる道化師だった。真っ白い肌に目の淵の赤い隈取、瞳の下に雫。泣いているような顔をしながら、彼は口を大きくにんまりと広げて――それも化粧で、彼自身は笑っていないのだけれど――チケットをもぎる団員の近くをちょろちょろと動き回っていた。

 見えない小さなボールでジャグリングをして失敗したり、団員をからかったり、からかわれたりしながら、テントへ入る人々の最初の笑いを抓んで食べている。

 ノラはおずおずとテントに近づいていった。道化師はもぎりの横で完全に停止していた。キィコはまじまじとその顔を観察した。ノラは彼の持っているピンクの風船を眺めていた。もしかしたら欲しいのかもしれない、とキィコが声を掛けようとした瞬間だった。

「わ」

 突然、道化師が音もなく動き出したのだ。

 ものすごい速さで、道化師はノラに向かってくる。ノラが目を大きく開いたまま固まってしまったので、キィコは急いでその手を取り、テントへ向かう階段を駆け上がった。

 なおも道化師は追いかけてきた。かんかんかん、と軽く抜けるようなキィコの足音と、それより少し小さいノラの足音に続いて、道化師の大げさな衣擦れの音が続いてくる。足音がない。なぜ足音がないのだろう。

 二人はほとんど飛ぶようにしてテントの中へ入った。衣擦れの音が消えた。世界が切り替わる。

 途端に辺りは水の中だった。

 テントの内側は深い海色をしていて、見る場所によって光が指したり暗くなったり、水が揺れたように見えたりする。リュシーと一緒に見た天体球に少し似ている。

 道化師のことなどすっかり忘れて、二人でしばらく海底からの眺めを楽しんだ。客席にいる無数の人の声が天井にあたり、反響して、ごうごうと音がする。キィコは小さいときにお風呂に落ちたときのことを思い出した。耳の中に入った水の音に似ている。

 しばらくあたりを見回してから、席に座った。テントの中心部に半円の大きな舞台があって、客席はそこから階段状に広がっている。マオからもらうチケットはいつも階段の一番下の舞台から一番近い右手側だった。あまり人気のない席らしいが、キィコはここから見る景色が好きだ。

 舞台は確かに少し見辛いけれど、せわしなく動く助手たちや、天鵞絨の幕を捲ったときに見える舞台裏を見る度どきどきする。前座がはけていくとき、大人の顔をするのも面白かった。横でスカートの裾を腿の裏に隠しながらノラが口を開いた。

「リュシーさんは何の演目をするんですか?」

 ノラがリュシーが出ることを覚えていたことが嬉しかった。

「歌だよ。歌を歌うの」

 この谷の特別公演のときだけ毎年リュシーは特別出演しているのだ。地上での公演にも出演依頼は来ているらしいが、谷で歌っている方が幸せだからと、リュシーは固辞している。

「歌うだけですか?」

 ふふふ、とキィコの口から自然に声が漏れた。今すぐにでも自慢したいけれど、歌が始まるまで黙っていた方がいいだろう。聴いてしまえばすぐに分かる。リュシーの歌は特別だ。特にこのサーカスで聞くリュシーの歌は。

「後で会いに行こうね」

 そう答えたとき、開演のブザーが鳴った。

 徐々に人のざわめきが消えていき、ごうごうとしていた水の音も段々小さくなっていった。天井の水のような光の揺らめきが、徐々に暗くなっていく。そうして舞台の中央に、いつのまにかシルクハットを被った団長が存在していた。

 深いお辞儀。

 会場は地底へ沈んでいくように暗くなった。団長は顔を上げて、慇懃にあたりを見回し、すっと息を吸った。

「ありがたいことでございます。お集まり頂きました皆々様、今年も我々は無事、ここに帰って来ることが出来ました。この地――この大地! 土草と我楽多と動物の汗以外には何もないこの場所で、我が一座は生まれました。ええ、ちょうどこの辺りです。ガスも水道もここには通っていなかった。電気などは以ての外! 夜になれば空からは闇が落ちてきて、そう、まるで海の底にいるような」

 団長が空を見上げる。

 最早天井にはほとんど光がなかった。闇に至る寸前の濃紺色をしている。それでも隣に座る人の顔が目を凝らせばようやく見えるくらいの明りが、空から降ってきている。水の上で星が瞬いているのだ。

 団長の声が届くたび、水面で細い光が揺れた。

「我々はここで生まれました。この水底で焚火を囲み、互いを励ますため、互いを笑わせあうため、芸を披露しました」

 団長はそっと舞台の中央を眺めた。声をともにそこへぼうっと火がついた。

「さて、今宵は再び、皆様に水底の特別興行をご覧に入れましょう!」

 サーカスが始まるのだ。谷に希望の火を灯すサーカスが。

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