第10話 希望の希望の希望
ノラが恐る恐る手を伸ばして、一本の赤い花を受け取ると、会場から拍手が沸き起こった。
音に合わせてゆらゆらと頭上で光が揺れる。テントの天井は人々の音に反応して光が差す仕組みになっているらしい。ノラに花を渡したぶよぶよした毛のない濃灰色の生き物は、真っ黒い大きな目に瞼が半分掛かっていて、眠たそうな顔をしている。笛の音を聞くと、彼は三角の腕を床を掃くよう動かして滑って帰って行った。
ノラは花を両手で握りながら、その後ろ姿を眺めていた。
「良かったね、ノラちゃん!」
一番前の席だと時々こういうことがある。先ほどの道化師といい、ノラはサーカス団員たちの目を引くのかもしれない。ノラは彼が口で咥えていた花をまじまじと眺めて呟いた。
「濡れています」
「うん。濡れてるね」
マオの言っていたとおり、今年の興行は水ものが多い。
軽業師は縦横無尽に動き回る針金の上を歩き、客席の上に霧を落として虹を作った。いつもは火の輪をくぐっている動物たちは、水槽の中を泳いだり、泳ぐようなふりをして観客を楽しませていた。犬猫鳥以外の動物が見られるのは一年に一度のこの日だけなので、キィコは集中して見た。色んな形をしていておもしろい。
舞台一面の大水槽が現れて、場の雰囲気からこれがクライマックスだと分かる。水槽の中には白い布を纏ったダンサーたちが泳ぎ回っていた。そのうちの一人の動きが妙に浮いて見えて、キィコは目を細めた。深い場所から上がって来た彼女の唇が、かぷりと水面に出たとき、思わず小さな声が出た。
「マオだ」
マオが泳いでいる。
ダンサー志望のマオはこれまで一度も舞台に出たことはない。チケットに同封されていた手紙にも、今年も裏方だと書かれていた。
長いことマオが努力してきたのをキィコは知っている。サーカスが休みになる雨季の間中、マオはほとんど休みなしに、使われなくなった学塾の踊り場で練習をしていた。廃材から探し出した銀板の鏡もどきは歪んでいたけれど、その中で踊るマオの姿は、気高く美しかった。いつまでも見ていられた。きっと次こそは舞台に立てると、キィコは信じて疑わなかった。
今、マオは舞台の中央で、踊っている。水の中でもその踊りは美しかった。
かつん、かつん、と聞き慣れた音がして、さらにキィコは高揚した。
「リュシーだ。ノラちゃん、リュシーだよ」
ノラは何かを答えただろうか。興奮していたのでキィコにはよく分からなかった。マオとノラが同じ舞台の上にいるなんて、夢のようだ。客席は静まっていて、舞台の上はぼんやりと暗い。
リュシーはごく小さな声で何かを口ずさんでいる。一番前の席でもよく聞こえないくらいの声で。良く知った帰り道を行くような、軽い足音をさせて。
じゃぶん。と水槽から大きな音がして、天井が一瞬瞬いた。リュシーはあたりを見回し、光源を探して遥か遠くの空を見上げるように顔を上げた。
ららら、と声がする。
マオの声だとすぐにわかった。その声にまた天井がちらちらと瞬く。何度からららと歌って、マオが水底に消えた。音がなくなり、舞台に闇が落ちてくる。音が消え暗闇に近づいていく。
すうっと音がした。
キィコはそれを聞き逃さなかった。それはリュシーが息を吸う音だ。希望の始まりの気配。待ち望んでいる光が、すぐにやってくる。
ららら、と歌が。
リュシーの歌が、世界に色をつける。
テントの頂点から、今までで一番明るい光が舞台を照らす。大水槽の中にいるマオの白い布は、光を受けて七色にきらめいた。いくつもの色が水槽を泳ぎ始めている。リュシーの声に混じって、水音が楽しく響く。
舞台の端で小さく天鵞絨のカーテンが捲られるのが見えた。役目を終えた団員たちが袖からリュシーの姿を伺っている。奇術師の上に曲芸師が乗り、魔術師の上に自転車乗りが覆い被さって、なんだなんだと声を出さないまま顔を見合わせ、中央の光を訝しがっている。
からん、と音がした。小人の道化師が小道具を落としたらしい。曲馬嬢が慌てて彼を小突く。銀色の輪っかが、ころころと舞台を横切りリュシーの元へ転がっていった。歌いながら、リュシーはそれを拾い上げ、おろおろする小人の道化師に手招きをした。
それを見ると、相方の巨人の道化師がリュシーの方へ駆けて行った。小人の道化師が大きく憤って追い駆ける。組んず解れつ中央まで行って、二人はどちらがリュシーから銀の輪を貰うかで諍い始めた。口をぱくぱくと動かして、喋れないくせに自分の歌の上手さをリュシーにアピールしている。
くすくすと笑いが起きて、天井からまた違う青い光が差しこんだ。
次々と舞台袖から団員たちが舞台へ出てくる。
リュシーの歌に合わせて、自分たちの得意なものを主張し始める。途端に、舞台の上はがちゃがちゃと雑多な色や動きで埋め尽くされていった。人々の笑い声と歓声が大きくなっていく。
リュシーは微笑みながら、希望の歌を歌っている。
「ノラちゃん! ね、すごいでしょ。リュシーの歌!」
興奮してキィコは声を上げた。
「ええ、すごい。すごいですね」
ノラの声はぼんやりしていた。きっとリュシーの歌に圧倒されているのだ。キィコはまた嬉しくなった。今や水底には天井から燦々と光が差しこんでいる。
これこそが、谷の勇気と希望なのだ。
そして、その中心にはいつもリュシーがいる。
キィコにはそれが、誇らしくて仕方がなかった。
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