第11話 ずっと一人で踊ってた(たかった)

 演目が終わり舞台に明りが付くと、すぐに席を立つ人もいれば、食べ掛けだったお菓子を食べ始める人や、舞台に花束を持って駆け付けていく人など様々だ。

 キィコはノラと人の波が落ち着くまでお喋りをして、それから席を立った。ちょうど舞台の上でリュシーの顔が花束で見えなくなった頃だった。

「リュシー」

 キィコが声を掛けると、大きな花束がキィコの方へ向く。

「キィちゃん? ちょっと待ってね」

 がさがさと音を立てながらリュシーは振り向いて、見習いの道化師たち――彼らは見習いといえども素顔を出すことは許されないのであどけない顔に白い白粉をふんだんに塗り付けている――二人に、花束を半分ずつ託し、その赤いズボンのポケットに銀貨を一つずつ入れた。

 よろしくねとリュシーに頭を撫でられると、彼らは全く同じやりかたで大きく頷いて、道化師らしく体を右左に揺らしながら奥へ去って行く。

 くるりと振り返ったリュシーは、まずノラを発見して目を丸めた。

「あら。知らない子がいるわ」

「うん! あのねリュシー、この子がノラちゃんだよ。いつも話しているでしょう?」

 キィコがそう説明している間、ノラはずっと凝り固まってリュシーを見上げていた。

 けれどリュシーの瞳が自分の方へ向いたと分かると、ネジが一つなくなった玩具みたいにぎぎぎぎ、とリュシーに視線を移した。その口がぽかりと開く。

 ちょうどその時、遠くから矢のように声が飛んできた。

「キィコ!」

 声のした方を向くと、どういう訳だか随分高い所に幼なじみの姿を見つけた。

「マオ!」

 マオは空中に浮かんでいる。よく見ると、途中で出てきた軽業師のように、細い針種の上を歩いているらしい。

 どうしたらよいのだろうと、キィコが頭上とリュシーとを交互に見ていると、リュシーは小さく笑って、いってらっしゃいな、と優しく笑った。

「私はこの子と初めましてのお話をしているから。ね」

 そう言ってノラを舞台の上に持ち上げて座らせた。ノラは無表情のまま二三度瞬きをしてから、リュシーと同じような声音で、いってらっしゃいと笑った。

「うん――じゃあ、ちょっとだけ」

 もう一度頭上を見上げると、マオは素っ頓狂な方へ向かい歩いていた。どうやらキィコのとこへ来るつもりらしいのだが、マオが足を踏み外す度に針金が動くので、いつまでも近づいてこなかった。

 最後には針金に首根っこを引っ掴まれて、マオはやっとキィコのところまで降りてきた。

「なによ、もうちょっとだったのに」

 マオが針金の元である天鵞絨の幕の中をきっと睨む。すると、暗がりから背の高い燕尾服姿の人が現れた。

 針金は、するするとその人の手の中に戻って消えた。

 キィコが小さく手を叩いて喜ぶと、なぜかマオが自慢げに鼻を鳴らした。針金の人は背が高く、美しい作り物のような顔付きをしていた。

 キィコの所まで来て、慇懃なお辞儀をするので、大変に焦る。

 マオはひどく偉そうに針金の人に言った。

「あたしの親友のキィコ。知ってるわね?」

 針金の人は口を横に広げて、完璧に笑って見せた。キィコは慌てて口を開いた。

「す、すごいですね! その針金、どうなってるんですか?」

 するとマオが間に入ってくる。

「だめだめ。彼女あまり喋らないの。聞くだけ無駄よ。特異らしいんだけど、具体的にどういう特異なのか私だって知らないんだから。名前はラーラ」

 マオが言うと、ラーラは肩を竦めて、手の中からうねうねと針金を出した。銀色の線が犬や猫の形に変わり、空中を逃げ惑った。

 それどういう意味? と言うマオの髪からぽろぽろと滴が落ちるのを見て、キィコははっと声を上げた。

「そうだ! マオ! おめでとう! わたし見たよ!」

 急に大声を出したからか、マオは獣のように目を見開いた。

 いつもなら驚かすなと文句の一つでも言うのに、すぐに穏やかな顔つきになって、ふっと体の力を抜くようにマオは笑った。

「ありがとう。まぁおこぼれだけど。最後に花を持たせて貰ったわ」

「うん。私、すぐにマオだって分かったよ! すごく綺麗だったし、それにリュシー、と」

 そう言った所で、声の種がなくなったように、不自然に言葉が途切れた。

「さいご?」

 キィコの言葉に、マオは笑おうとしたらしかった。

 けれど、眦に微かな皺が出来ただけで、とても笑ったようには見えない。

 しかし、やけにはっきりと明るい声を出した。

「あたし退団するの。今日が最後」

「退団――っていうのは」と、キィコの口が勝手に呟く。「サーカスを、退団するってこと?」

「他に何を退団するのよ。探偵団?」

「探偵団は、あれはもう二人だけだから、退団はだめ、だよ」

「そうね。あの子たち薄情だったわよねぇ」

 キィコは、うつむかないように必死になってマオの顔を眺めた。

「――サーカス、辞めるの?」

 マオは、笑っている。

「うん。辞めて結婚する」

「けっこん? 結婚って」

「結婚っていうのは、誰かと結婚するってことよ」

 キィコの言葉を先取りして、マオは言った。そして横にいるラーラの腕を掴んだ。

「この人と結婚するの。式は出来ないけど、あんたの作った人参ケーキでパーティくらいはする予定」

 明るい声だった。

 マオの目線を受けて、ラーラはキィコの前で片膝を床に付き、しゃがんだ。手が伸びて来て、キィコの左手が取られる。針金のような冷たい指だった。

 その指が、大事なものを包むように柔らかくキィコの手を握った。

「彼女のこと、幸せにします。今よりずっと。永遠に」

 そうして、ラーラは祈るようにキィコの手の甲に自分の額をそっとつけた。彼女の声は、地の底まで、あるいは天上の果てまで届きそうな、深くて美しい色をしている。

「どうか。お許しください」

 ラーラの額の触れている部分が、じわじわと熱くなるような気がした。マオが大きく笑い出した。

「何だかあんたたちが結婚するみたいね。まぁ、それでも良いわ。三人で暮らしたら楽しそう!」

 それからマオは、饒舌に様々なことを話した。

 法律の関係で一度地上の国に引っ越しをしなければならないこと。ラーラがサーカスに残るのでチケットの心配はいらないということ。そのチケットが今よりもっと良い席であろうこと。後日開かれる退団式について。エトセトラ、エトセトラ。

 捲し立てるように話すマオの横で、ラーラはただ微笑んでいた。

 幸せにするという彼女の言葉に嘘はないのだろう、とキィコは考えた。マオは幸せになるのだ。今よりもっと。

 永遠に。

 二人と話しながら、キィコはずっとそんなことを考えていた。

 そして、周りに人がほとんどいなくなって、舞台裏の方が煩くなり始めると、じゃあそろそろ、とマオが口にした。

 キィコは、喉を塞いでいた蓋をようやく取り外して、やっとのことで声を出した。

「マオ!」

 幼いころから知っている馴染みの顔が、その声に表情を強ばらせるのが分かった。それでも、止めるわけにはいかなかった。

「踊りは――」

 それだけしか声にならなかった。

 けれど、それだけ言えば十分だった。

 マオの大きな楕円の瞳にじわじわと涙が溜まっていくのが分かる。しかし、縁からそれが零れようというとき、マオは強く目を擦った。

 赤く潤んだ瞳でキィコを捉えて、マオははっきりとした声で宣言した。

「あたしはもう、二度と自分のためには踊らない」

 そして、ついさっきまで自分が舞っていた場所へ目を向けた。鼻から深く息を吸って、何かを堪えるように、ゆっくりと口から吐く。その間、マオの瞳はじっとその場所を見つめ続けていた。

 舞台の上を。

 あの夢のような時間、マオは舞台の上からどんな景色を見たのだろう。キィコには想像が付かなかった。

 けれど、その場所を目指し続ける人間の見る景色は分かるのだ。

 ここではない場所を見続けることの恐ろしさと焦り。そこに辿り着くまでは決して得られないであろう休息。それが永久に訪れないのではないかという疑念。不安。暗闇の中一人で動き回っているような淋しさ。怖さ。

 それでも、それを凌駕するほどの恍惚が確かにそこにはあったのだ。

 歪んだ銀板の世界の中で、マオは時折、深い場所で笑っていた。

「大丈夫」

 マオは強く呟いた。

「あたしはもう、大丈夫だから」

 そう言ったとき、彼女は少しも笑っていなかった。まるで祈るような声音で、新しく生じた信念をキィコへ伝えようと、驚くほど真剣な顔をしていた。

 だからキィコはそれ以上何も言うことが出来なかった。

 それじゃあ、ともう一度言われて、マオとラーラが寄り添って舞台裏へ掃けていくのを最後まで見てから、キィコはぼんやりと元いた場所に帰った。

 リュシーはただ目を細めてそれを迎え、ノラは舞台に腰かけたまま、キィコを見下ろして少しだけ首を傾けた。

「おかえりなさい」

「うん」

 そう答えて、キィコはノラの手を握った。ひやりと冷たい。その温度に酷く安心した。なぜだろう、と思って、すぐに考えるのをやめる。

 考えても仕方のないことだ。何もかも、考えてしまっては終わりなのだから。

「さて!」

 リュシーはそう言って一つ手を鳴らすと、ノラを舞台の上から客席の方へ降ろした。

「早く帰りましょう。みんな待ってるわ」

「うん。うん、そうだねリュシー」

 喉の奥から声を出して、キィコは明るい音に声調を合わせ、進んだ。

 舞台の上に、水の跡が残っているのが見えた。

 少し前まであれだけ輝いて見えていたものなのに、明るい照明の下で、それはとても詰まらないものに見えた。

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