第12話 肉を食べる春

 通い慣れた雑居ビルの入り慣れない屋上に足を踏み入れると、従業員たちはもう肉を焼き始めていた。一年で唯一のこの店休日に屋上でバーベキューをするのが毎年の習わしなのだ。

 自分たちでお金を出し合っているので、家族や友人を呼ぶのも自由だけれど、キィコは誰かをここに連れてきたのは初めてだった。

 人だかりの出来た屋上の中央から外れた所に、ナカザトの姿を発見した。吸い終わったらしい煙草を火の付いたまま、柵の向こうへ投げ捨てている。

「あっ、駄目ですよ、また私が怒られます!」

 ここの管理人はナカザトが目の前でいくら煙草を投げ捨てようと、にこにこしているだけで注意しないのに、後になってなぜかキィコに長々と説教をするのだ。

 ナカザトは眉を潜め、また新たな煙草を取り出している。

「うるせえ。文句言うなら灰皿もって常に俺の横に控えてろよ」

「それはちょっと――難しいです」

「なら一メートルごとに灰皿置いて回るんだな」

「もうちょっと現実的な案はないでしょうか」

「文句言わねえのが一番建設的だな。あ?」

 ナカザトはやっとノラの存在に気づいたらしく目を細めた。

「なんだこのガキ」

「友達です。ノラちゃんです」

 キィコが紹介すると、ノラが横で小さく「ともだち」と繰り返した。ナカザトが鼻で笑う。

「お前、半人前の半分の分際で友達いるの?」

「え――この前まで半人前だと思いましたが」

 以前は人間扱いでさえなかったような気がするので、ナカザトにとっては半人前でも褒め言葉だろうと判断していた。

「今俺に文句言ったから半分減った」

 ナカザトが指先に火を付けると、キィコの手の中でノラの指先がぴくりと動いた。キィコはもう見慣れてしまったが、そういえばナカザトの特異は珍しいものなのだった。ノラはそのまま指先で揺れている火を観察していた。警戒と驚きが混じったような複雑な表情をしている。今日はよくノラの新しい顔を見る。

 ふっとナカザトはノラに向けて笑った。

「あんた、こんなやつ友達にしていいのか?」

「え」

 ノラは戸惑いの声をあげたが、ナカザトはもうノラの方を見てはいなかった。キィコの後ろを見ている。なんだろう、と振り向く前に、ふわりと花の匂いが香った。

「店長。あまり小さい子をいじめたらいけませんよ」

 リュシーが後ろからキィコに伸し掛かってくる。ナカザトは嫌そうに煙を吐いた。

「いじめてねぇよ。老婆心ながらご忠告申し上げてんだ」

「あらあら。店長いつからおばあさんになったんです? まだ若いのに」

 ねえ、とリュシーが言うので、そうですね、とキィコが答えると、ナカザトに太ももの辺りを蹴飛ばされた。

「い! いたいです!」

「お前うるさい。見つかった」

 比較的黙っていたのに、とキィコが腿を摩っていると、後ろからどたどたと足音が近づいてきた。振り返ると、ニーナが箸で肉を掴んだまま駆け寄ってきている。

「キィコさん! 誰すかその子、めちゃかわいい!」

「ちょっと、ニーナ! タレ零れてる」

 オルガも後から追いかけてきている。

 ノラはあっと言う間に従業員たちに囲まれ、とてつもない速さで気に入られたようだった。ノラはこの辺りにいる子供たちのように、騒いで走り回ったりしないし、乱暴を働いたりもしない。それだけでも十分愛らしいのに、ちゃんと話を聞いて、しっかり受け取ってくれるのだ。

 ここで働く女たちは一人の人間として尊重されることに慣れていないので、普通に会話が出来るだけで、飛び上がるほどに満たされる。

 最初は戸惑っていたノラも、少しずつ慣れて、ニーナやオルガとは打ち解けた様子で話をしていた。

 すぐに一回目の日暮れの時間になった。

 谷の日暮れは二回あって、一回目では町が谷の影に飲み込まれる。空は真ん中がまだ薄ら青く、端がじんわりと橙に燃えているだけだ。地上はまだ日が沈んでいない。

 一回目の日暮れが始まるあたりから、ノラはしきりに空を眺めていた。地上の日没しか見たことがないのだろう。本当なら二回目の日暮れまでここで見てもらいたかったが、マツダとの約束がある。

「ノラちゃん。そろそろ帰ろうか?」

「――ええ、はい」

 近くにいたニーナが口に肉を詰め込みながら何事かを言った。美味しいという表情と、残念だという表情が入り混じっている。それに続いて、口ぐちに周りにいた大人たちも残念だと表明する。

 彼女たちは皆、本当に心底淋しそうだったが、このうちのほとんどが、すぐに今日のことを忘れてしまうことをキィコは知っている。数日後、ちゃんと生きているかどうかも分からないのだ。

 そんな当たり前のことをふいに考えてしまって、キィコは何度か頭を振った。昔から楽しいことの最中に楽しくない現実のことを考えてしまう癖があるのだ。

「お疲れ様でした!」

 大声で一通り挨拶をすませて、ノラの手を引こうとすると、螺旋階段の前にナカザトが立っていた。

「え。あの――ど、どうしましたか、なにか」

「見送り」

「みおくり!」

 キィコの大声を無視して、ナカザトはノラに小さな紙袋を差し出した。

「やる」

「ええ!」

 さきほどより大きな声が出たが、やはりナカザトは見向きもしない。ノラは無表情のまま一度キィコを見上げ、それからナカザトを見た。

「ぼくにですか?」

「そう」

 またナカザトは煙草を外に向かって放り捨てた。小さな火が風に飛んでいく。

「あいつらのお守りしてもらった礼と、こいつの友達やってる迷惑料」

 ノラはまたキィコをちらりと見てから、袋に手を伸ばした。

「ありがとうございます」

「今度来るようなことがあったら、差し入れの一つでも持って来るんだな」

 キィコは心の中で絶叫しそうなほど驚いていたが、なんとか声を抑えた。あまりにも信じられない光景だった。ナカザトは客相手でも、またとか、次回とか、未来に関する言葉を使わない。客相手にさえそうなのだから、従業員など以ての外で、普段から人を突き放して距離を取るような言葉しか吐かないのだ。

 もしかしたらナカザトもノラのことを気に入ったのだろうか、と思ってちらりと顔色を伺おうとすると、ちょうどナカザトの目がキィコに向いた所だった。

「あ、はい!」

 何も言われてないのにキィコが返事をすると、ナカザトは目を細めた。どういう表情か分からない。分からないけれど燃やされるのかもしれないと、身を固めた。

 何も起らなかった。

「お前明日来るとき煙草買って来て」

「は、あっ、はい!」

「お疲れ」

「え? あ、はい! お疲れ様です!」

 よく分からないままキィコはぺこぺこと何度も頭を下げた。ナカザトはすぐ視界から消えて、何度目か頭を上げたときに、リュシーが近寄って来るのが見えた。

「下まで送るよー」

 ゆるいリュシーの声に、キィコはやっと体の緊張を解くことが出来た。

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