第13話 永遠のない夜

「今日、楽しかった?」

 リュシーは螺旋階段の最後の一段を飛びながら降りて、こちらを振り返った。キィコは急いで頷いた。そのタイミングがノラと一緒だったので、よかったと思う。

「そっか」

 リュシーは、空を見上げ瞳にまだ薄ら明るい青を吸い込んでから、伏せて地面を眺めた。ごく当然のこととして、瞳が翳る。

「そうしたら、一生懸命覚えておいてね。今日のこと」

「一生懸命?」

 ノラが繰り返した。リュシーはいつものゆったりした笑いではなく、真剣な顔つきでノラを見返した。

「そうよ。すぐに取り出せるように。楽しかった時を楽しかったままで取っておくの。ちゃんと覚えておいて」

 リュシーは手を伸ばして、キィコとノラの手を握った。

「そうすれば、大丈夫だから――ね。わたしたち、頑張りましょうね。頑張れるわね」

 きっと酔っているのだ。リュシーはいつもこの日だけお酒を飲む。祈りか眠りか判然としない一瞬の間があって、はたとリュシーは当たりを見回した。町の赤提灯に火が灯っている。

「あら。早く帰らなきゃね。でも、あまり急いでは駄目よ。それは割れ物だから」

 ノラの持っている紙袋のことだ。

「何が入ってるか、リュシーは知ってるの?」

 ふふふ、とリュシーは二人の背中を押しながら笑った。

「地上に帰ってから見るといいわ。さあ、早く。二人とも気を付けてね」

 急かされるまま、キィコはノラの手を取ってその場を辞した。言われた通りに壊れ物に気を配りながら、早足で歩く。大通りを避けて細い路地を鼠のように進みながら、なぜか二人とも話をしなかった。一度だけ、人より手汗を多くかくことを思い出したキィコがそれについて問いかけると、ノラはそっと笑った。

「大丈夫ですよ」

 ノラの言葉に、キィコは心の底から安堵して、同時にまた、恐ろしい現実のことを思い出した。時間が過ぎていくということ。今日が終わるということ。また新しい次の日が始まってしまうこと。そしてもう一度――時間が過ぎていくということ。

 夜が頭の上に降りてくると、いつでもそんなことを考える。

 昇降機からは沢山の人が出てきて、町へ繰り出していき、地上へ昇るのはキィコたちだけだった。ファンの回る音を聞きながら、やはりキィコは手汗のことが気になって仕方がなかった。

 地上では、もう落日の橙はほとんど残っていない。

「夜だね」

「そうですね」

 意味のない会話をいくつか繰り返した。別れの場所が近づいていくたびに、空が暗闇に近づいていく。何か話をするべきだろうか、と思ったとき、急に視界の隅で何匹もの鳥が岩の上から飛び立った。

「わ」

 キィコは声を上げたが、ノラはそれを予知していたらしく、全く動じていない。

「マツダ」

 岩だと思っていたものは人型をしていて、その人型には獣たちの毛が所狭しとひっついている。

「遅い」

 マツダは怒ったように呟いたが、ノラは少しも気にしていない。

「ただいま」

「ただいまじゃないですよ。遅いですよ。すげえ啄まれたじゃねえか。つうか、あんた! 誰だ!」

 マツダが音がするほどの鋭さでキィコを指差した。

「あっ、ええと、キィコです。初めまして? いや、二度目ですかね」

「んなこたどうでも良い!」

 マツダの声は吠えているみたいだった。

「俺は何者なのかって聞いてんだ」

「何者? 何者、っていうのは」

「誰だ」

「だれ」

 そんなことを言われても、名前を提示したらもう、キィコが自分を表せられる言葉は何もない。あとはもう、何者でもないということしか確かでない。助けを求めようとノラを見たが、その頭は思ったより下の方に沈んでいた。

「どうしたの?」

「なにしてんだノラ」

 二人の声を無視して、ノラは草の上にナカザトにもらった土産を広げている。それは店のチラシで雑に梱包されていて、ノラが剥くたびに辺りにがさがさと大きくな音が響いた。

「なんだった?」

 しゃがみこんでみると、取り出されたのは綺麗な硝子作りの箱だった。

 箱の中央に大樹が生えている。本物の大木だ。たとえノラの手の内に収まる小ささでも、土から食み出た根のうねりや、幹にこびり付いた苔や、枝分かれの一つ一つまで、どこを見ても何百年と生きてきた大樹に違いなかった。

 大樹の周りには若木が幾つも乱立し、背の低い草や羊歯も生え染めている。

「箱庭?」

 いつの間にかマツダも正面からそれを覗き込んでいる。

 確かにこれは箱庭という言葉で言い表せるのだろう。けれど、キィコの知っている箱庭は、もっとちゃんと作り物めいている。人の作った小さな家が建っていたり、人の作った海が広がっていたり、人の作った人間が遊んでいたり。

 けれど、これは人の作ったものではない。どこかに存在する場所をそっくりそのまま小さくして、切り取ってある。あるいは、世界そのものがそこで生きてきたみたいだった。

 あの店にはよく意味の分からない我楽多が転がっているけれど、こんなに美しいものは置いていない。ナカザトはこれをどこで手にしたのだろう。

「なあ、お前今日なにしてたの?」

 マツダが箱庭からノラに目を移して言う。その声には先ほどまでの棘はなく、単純な疑問だけがあった。

「遊んできたの」

 ノラはそう答え、ちらりとキィコを見た。

「友達と」

 友達? とマツダが顔を顰めてキィコを見る。ふふふ、とキィコの口から勝手に笑みが漏れた。

「そうなんです、わたし、ノラちゃんの友達なんです。それで、この箱庭はノラちゃんが私の友達をやっている迷惑料としてナカザトさんがくれたもので」

「いや、ちょっと待て、勝手に登場人物増やすなよ。誰だよナカザトって。男?」

「男、と思いますけれど。ナカザトさんは――いや、ナカザトさんが何者かは私もよく分からないので、説明はできません」

「はぁ? なに、意味分かんねぇんだけど」

 マツダの声にまた棘戻ってきている。助けを求めようとノラを見ると、ノラはまだ箱庭を眺めていた。

「でも楽しかったよ。今日」

 ノラの小さな手の中で、世界がきらめているように見えた。マツダはもごもごと口を動かしてから、そうですか、とぶっきらぼうに言った。

「まぁ、楽しかったならいいんじゃないですか」

 拗ねているような、微妙な言い回しが面白くて、キィコは笑った。笑っているうちに、急に悲しくなってきた。

 今日が終わったのだ。日は完全に沈みきってしまっている。

「楽しかったよね。今日は、すごく楽しかった」

 明るい声は、すぐに闇に溶けて消えた。

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