第14話 灯らずの家
きっと母は魔法使いだったのだ。
キィコが一人になって最初に思うことはいつでもそれだった。
谷の縁には緑が茂っている。町中では見ない木々や草花が広大な円の周りに蔓延っている。ここは谷と地上の境目なのだ。
そうしてこの辺りの、白土で出来た四角い平屋の家々はなぜか皆向きを揃えずに建っているのだった。まるで子供が遊び途中で放ってしまった積み木みたいに。日当たりだとか、見栄えだとか、誰も考えなかったのだろうか。誰も考えなかったのだろう。
キィコは一歩一歩足を大きく上げて、草木を蹴りあげながらゆっくり進んだ。
谷の底から音楽が聞こえてくる。人々の喧騒がそれに被って、踊り子の足音のように聞こえた。しかし、キィコにはもう楽しい踊りの音には聞こえなかった。あれは悲鳴だ。
谷には特異が住んでいる。地上には翼持ちが住んでいる。
そうしてここには――。
この谷の縁沿いには、谷から上がって来た特異持ちと、地上から食み出た翼持ちが住んでいるのだ。だから、と考えながら、キィコはいつものように周り道をして、黒い犬の臥せっているのを眺めながら家路を歩いた。
そう。だから母は魔法使いに違いないのだ。
星が一つ大きく瞬く。今日は晴天だから良く星が見えるのだ。あの小さな箱庭は何だったのだろう。ノラはとても嬉しそうだった。リュシーは何かを心配しているのだろうか。そんな風にキィコの頭は今日の出来事を反芻している。
とても楽しい一日だった。リュシーの言った通り、もしこの先に辛いことがあったら、真っ先に今日のことを思い出せば良い。そうすればきっと大丈夫になるだろう。そう信じられるくらいに楽しい一日だった。
それでも、いつかは家に帰るのだ。
キィコの家もまた白土を塗り固めて出来た四角い箱で、その辺りにある他の箱との区別がつくのは住んでいる人間だけに違いなかった。
たとえば、十年前に鳥がぶつかって出来た茶色い染みだとか、どこから生え始めているのか分からない蔦の模様だとか、雨どいのずれとか。
それを見分けられるのはこの世でただ一人、キィコだけなのだ。
家は温かく、雨風が凌げ、花瓶も靴紐も土埃も、全てのものがキィコを安心させる。
けれどその安堵は、ほとんど虚無に等しい。
この家には夜になっても明かりが付かない。キィコが帰って来るその瞬間まで。だから本当は、夜になればどれが自分の家なのかなんて、蔦の模様を見るまでもなく分かり切っているのだ。
ただ一つ、暗いままでいる家が自分の家だ。
「おとうちゃん、ただいま」
「ああ、おかえり」
イシはまだ網戸の向こうを向いたままで答えた。この家の庭は幅が五十センチしかなくて、網戸の向こうにはすぐ隣の家の土壁がある。そのごく狭い庭で生活している虫の声を聞くのがイシはとても好きなのだ。
キィコは腰に付けている小さな革の鞄を外しながら口を開いた。
「少し遅くなっちゃったね」
テーブルの上に乱雑に広がっているチラシの上に鞄を置くと、金具が当たって音が響いた。パン皿の上に濡れた薄布が掛かって、こんもりとしている。キィコはその布に手を伸ばしながら話し続けた。
「あのね、サーカスにマオが出てたんだよ!」おにぎりが三つ。「私、全然知らなくってね、今回も出ないって聞いてたから」一つは半分齧られている。「すごい驚いたなぁ。大水槽でね、赤い綺麗なドレス着てて、ずいぶん長い間潜ってさ、息をしないでぐるぐる踊るんだよ。すごく綺麗だったんだ! マオが水の中でも踊れるなんて知らなかった。ねえ。おとうちゃん知ってた?」
するとイシは少しだけ首を後ろに向けた。その口は笑っている。
「知らなかったな。いつもあそこで練習してるんだろう?」
「そう! 踊り場でね? この前は、ほら巡業に出る前の日に会ったでしょ。その時に八回転出来るようになったって、見せて貰ったの。ターンだよ。踵を付けないで八回も! すごいよねえ。だから、だから今度はやっぱり陸で踊りたいって。あれ、陸っていうのかな。陸の上で――なんか違うなぁ」
するとイシは、もう少し首をキィコの方へ向けて「舞台で?」とぼそりと呟いた。
「あっ、そうそう、舞台の上で! 今度は水の中じゃなくて舞台の上で踊って見せるからって、楽しみにしててって言ってた。きっと踊れるよね、だって八回転だもん。見たことないよ。ね!」
「そうだなぁ」
イシはまた網戸の方を向いた。台所の方から風が吹いて来て、油と洗剤の混じった匂いが漂う。エイミはいつでも洗剤を付けすぎるのだ。
「おとうちゃんは? 今日は何してたの?」
そう言いながら、キィコはおにぎりを一つ口に含んだ。塩気が舌に触れる。喉が渇いているということを急激に思い出させる味がする。
「エイミが来てご飯を作って行ったよ」
「おとうちゃん食べた?」
「食べたよ」
「美味しかった?」
「ああ、美味しかったよ」
エイミのご飯はどれも塩気が強い。だからいつでもあんなにせかせかとしているのだ。塩が体のなかで固まって暴れているに違いない。
「また何か言われた?」
塩のせいでエイミの口からは文句しか出ない。あれが駄目。これが駄目。全部誰かのせい。全部イシのせい。全部キィコのせい。
「ああ、そうだな」
イシは肯定の返事をしたけれど、それ以外は何も言わなかった。
そっと網戸を開けて、外の空気を吸っている。呼吸の音と虫の声が聞こえる。
「キィコ」
「うん? なあに、おとうちゃん」
キィコはまた大きくおにぎりを口に含んだ。文句しか言わないエイミの作るご飯は。けれど、一日の終わりに食べるととても美味しいのだ。
イシはキィコを振り返っていた。
その灰色の目はうまいことキィコの顔の辺りに向かっている。どうしてそんなにはっきりと位置が分かるのだろう。小さいころからキィコはそれが不思議でならなかった。あまりに正確だから――だからキィコは物心がついてからも、自分の父親に視力がないということにしばらく気付かなかった。
「明日は雨が降るぞ」
イシの声はいつも渇いている。
イシの予報が外れたことは一度もない。だからキィコはこれもまた、物心がついてしばらく経つまで、自分の父は特異持ちなのだと思っていた。たとえば雨が降るのが分かる特異だとか。雨の匂いが分かる特異だとか。
しかしある日、お風呂に入っているときに忽然と気が付いたのだ。
イシの背中には翼の落ちた跡がある。肩甲骨の根が少し抉れているのだ。翼持ちの翼は大人になると落ちることがあるらしい。もちろん、落ちない人間もいる。
個人差という言葉を、だからキィコは幼い頃からずっと知っていた。今でも知っているし、一生忘れることはないだろう。
「じゃあ明日は傘を持っていかないとだね。明日の私にもう一回そう言ってね!」
「明日も朝から仕事か?」
「うん! でも祭りの次の日だから、きっと暇だよ!」
「そうか」
「うん!」
そう答えて、キィコは革の鞄から魔法リストを取り出した。一日の終わりに、ちゃんと考えなくてはならない。書き漏れはなかったかどうか。訂正する箇所はなかったかどうか。叶えるべきものは、一つも漏らさないようにしなくては。
父の目はしばらくキィコの方を向いていた。本当は目が見えていたらどうしよう。そんなことをいつでも思う。それはとても恐ろしいことだ。
「私ね、日記まだちゃんと続けてるんだよ」
キィコが言うと、イシは笑った。そうしてまた、隣の家の土壁に向かった。
「今日は書くことが沢山あるだろう」
その声音はいつも渇いている。そして、いつも柔らかい。
「うん! たくさんある」
なぜか。
これは、考えてはいけないことなので絶対に考えないようにしているが、キィコは自分が魔法使いになるのだということを、父にだけは一度も言ったことがなかった。ただの一度も、もしかしたら魔法使いという言葉自体をこの家で吐いたことがないかもしれない。
その理由については決して考えない。人生には考えて良いことと悪いことがあるから。キィコは昔からその区別だけははっきりとついていた。そしてこれは考えてはいけないことなのだ。
キィコが魔法使いになることは決して後ろめたいことではない。恥じることでもない。それなのになぜ言えないのだろう、なんてことは考えてはいけない。だって――。
だってそれは魔法使いになれば、解決することだから。
魔法使いになれば、なにもかも上手く出来るようになるだろう。
心の底から物事を楽しむこと。父の天気予報を喜ぶこと。エイミに減塩を勧めること。いくらでも出来る。今までの考えてはいけない事柄が、すべて光に反転する。
母親はどんな人間だったのか。
それを聞くことだって出来る。
「雨はやだねえ」
キィコが呟くと、イシは微かに笑った。
「そうだなぁ」
何を笑っているのか、キィコには少しも分からないし分かろうとも思わない。
一日の始まりに思うこと。一日の終わりに思うこと。一人になって思うこと。
全て同じだ。
母は魔法使いだった。
だからわたしも、魔法使いになるのだ。
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