三幕 ぬるい雨季の葬列と歌

第15話 腹中に巣喰う

 霧が首筋に水滴を作ってぼろりと鎖骨まで落ちたので、キィコは急いで手の甲で頬を拭った。泣いていると思われたら堪らない。魔法使いは泣かないのだから。水滴になる前に拭っておかないといけない。

 イシの言った通り、サーカスの次の日は雨が降った。

 土を細かく抉り続けるような豪雨が二日続いて、次の日にはまた晴れた。それは全く馬鹿らしいほどの晴天で、道々の泥濘みはすぐに温まってしまった。

 碧空からの太陽光を浴びて、全ての物が彩度を上げる中、谷の人々は雨季の準備で忙しなく走り回っていた。

 植物は生長を続ける。

 長雨に備えて商店はみな硝子戸に変わった。飯店の軒下に吊り下げられた半開きの豚は奥に隠され、二匹の鳥だけが逆さ吊りのまま残された。民家では雨樋の下に銀盥やドラム缶や、淵の欠けた壺が並べられている

 雨季が来るのだ。

 その晴れた日、ノラはいつもの場所に来たかもしれない。けれど、キィコは家の窓に雨除けをつけたり、食料を買い込んだりしていて、いつもの時間に行けなかったのだ。準備が終わった頃には仕事に行く時間で、次の日の朝はまた雨が降った。そして今日は霧が立っている。

 サーカスの日以来、キィコはノラと会えていなかった。

 こうなってしまうと、今までどうやって約束もしないで簡単に出会えていたのかが分からなかった。もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。

 雨季が来る。

 人が死ぬ。

 もう一度キィコが頬を拭った時、路地の向こうで朱色の火の玉がゆらゆらと揺れるのが見えた。霧の中から火が次々と生まれて、列をなしてこちらへ近づいてきている。

 その時になって、ようやくキィコは、自分が一つ道を間違えていることに気が付いた。

 ナカザトにもらった地図は雨に濡れて疾うに見えなくなっていたけれど、足元へ目をやると線路が二つ走っている。葬列軌道の一つ向こうの道に入れ、とナカザトがは確かに言った。

 葬列に会えば面倒だから、と。

 谷の中に時々坂道があるのは、谷を作る時に土が固くて掘り進められなかった場所があったからだと聞いた。

 中でもこの辺りは勾配が早く、谷の中でも一番だ。

 線路だけが通る細い路地の両端には平屋が並んでいて、普段は明るい彩色の雑貨が売られているのに、今ではどの店もガラス戸をぴたりと閉じている。中は暗く、人の気配がない。

 この先の、谷の一番背の高い場所に火葬場があるのだそうだ。

 ごろろ、と鈍色の線路から振動が伝わってきて、キィコは急いで線路の上から降りた。遠くで揺らめいていたはずの火の玉が、提灯の形に変わっている。葬列がもうすぐそこまで近づいて来ているのだ。

 ちりんちりんという鈴の音が、湿った空気の中で膨張して幾重にも重りあって、こちらへ近づいてくる。

 この状態で急いで踵を返して立ち去ることが不躾なのかどうか、キィコには分からなかった。いつでも、何をするにもその正誤が分からない。体の中に倫理がないから。

 仕方がないのでそのまま商家の軒に身を寄せ、葬列が過ぎ去るのを待つことにした。

 ぽろんぽろんと、雨樋から銀盥に小さな雫が落ちてくる。霧が雨に変わったのだ。

 急に下駄の音が間近に聞こえたと思うと、視界の端にぬるりと獣の鼻の頭が現れた。先頭の喪主が白い獣の面を被っている。赤く縁どられた細い目の中に、人間の瞳があるのが分かって、急いでキィコは頭を下げた。

 淡い香の匂いが鼻先を掠めていく。

 ざり、と土を踏む音がして、頭を下げたまま、目だけで土の上を見る。喪主の下駄の先がキィコの方を向いていた。何もかも音が止まって、見えない空間で、葬列そのものがキィコに頭を下げている気配がした。

 キィコは頭を下げたままじっとしていた。

 銀盥に雫が落ちる。ひとつ、ふたつ、みっつ。 

 よっつ。 

 ちりん、とまた鈴の音がして、喪主の下駄の向きが変わった。

 大勢が土を擦る音と、ごうごうと線路の上を何かが滑る音が再開する。このままじっとしていれば大丈夫だろうと、キィコはふっと息を吐いた。それで少しだけ前を盗み見た。

 子供たちが四五人、黒と青が互い違いになった蛇腹傘を掲げている。

 その下にはまさに棺が一つそっくり入る大きさの細長い台車があって、ごろごろと低い音を立ててゆっくりと進んでいる。台車の中にもう棺は入っていない。白い小さな骨壺と、その周りを獣の人形が取り囲んでいる。喪主が付けていたお面と同じ動物だった。

 彼らの家では、死ねばその人はいなかったことになる。

 この話は誰に聞いたのだろう。

 あのおうちでは昔ね、死んでしまったらその人の物は全て燃やされてしまっていたのだよ。何もかもだよ。靴や洋服や、手紙なんかもね。名前や性別もね。みんな燃やすんだよ。そうして誰も、その人のことは二度と口にしない。いなかったことになるんだ。ただひとつ、玄関に獣の人形が増えるだけでね。

 今では。

 今では、その一族では、腹を引き裂いて死んでしまった人にだけその葬式をするのだそうだ。

 誰が教えてくれたのか、全く覚えていない。ぼんやりしているうちに葬列は過ぎ去ってしまった。顔を上げると、一人の少年が閉じた蛇腹傘を引きずりながらぽてぽてと歩いていた。

 しきりに顔を拭って、どうやら泣いているらしい。

 涙は、遠くからでは雨の雫と見分けが付かない。

 キィコも急いで頬の雫をもう一度拭った。

 少年の嗚咽もじきに遠のいて聞こえなくなったので、キィコは線路の上に降り立った。まだ微かに振動が伝わって来る。やはり、霧は細かい雨に変わっている。

 子供の頃には、腹を引き裂くということがどういうことか分からなかった。どうして人は腹を引き裂いて死んでしまうのか。

 しかし、大人になると、理由は分からないままで子供のころの疑問が解消することがある。それは肉感として。

 腹の中には獣がいる。




 なんとかお使いを済ませて雑居ビルの前まで辿り着くと、螺旋階段の下にナカザトが立っていた。大きな雨粒がぽつぽつと衣服の上に跳ねているのに、煙草の火が消えていないのは不思議だとキィコは思った。

「遅い」

「葬列に会いました」

 素直に答えると、ナカザトは大きく舌打ちをした。

「地図代天引き」

 けれど、その声の棘は雨の音に阻まれて、キィコの所に上手く刺さってこなかった。やわやわとした優しい音にすら聞こえた。

「買い物は?」

「あ、それは。ちゃんと守りました」

 キィコが腹に抱えていたものを見せると、ナカザトは何も言わずに煙草を放った。吸い殻がいくつも落ちている。

 これもまた叱られるのは自分だろう、とキィコが思って眺めていると、持っていた紙袋を取り上げられた。腹の中から使命がなくなって、急激に体から熱が出て行ったような気がする。

 自分はどうしてこんなところで濡れたまま突っ立っているのだろう。

 かんかんかん、と虚しい音を立てながら、ナカザトはもう螺旋階段を上り始めていた。

 雨季が来れば、必ず人が死ぬのだ。

 キィコはもう一度頬を拭って、階段を走って上った。

 悲しくならないように、大きな音を立てて上った。雨水が跳ねて脛にいくつも飛んできたけれど気にならない。だってずっと濡れているのだから。

「駄賃」

 そう言って、ナカザトはキィコに古い本を渡した。待機室へ入ったが、誰もいなかった。

 オルガは三時間の指名が入っていて、今日来るはずだったローラは三日前から行方が知れなかった。もしかしたら今頃腹を引き裂いて死んでいるかもしれない。

 考えるな、といつか誰かが言っていたことを思い出して、キィコは本を開いた。

 ナカザトの渡してくる本には、いつもキィコが知らない魔法使いについて書かれている。谷の図書館の物はもう全て読んでしまって、キィコは情報に飢えていた。

 ナカザトがどこからこういう本を持ってくるのかは知らない。一度それを聞いたら本を取り上げられたので、もう聞かないことにしている。

 魔法使いは実在している。

 本を読むまでもなく、それだけは確かなことだった。キィコが魔法使いになるというと人は笑うが、笑う人間たちも、魔法使いの存在は信じている。

 信じているというより、疑っていない。

 特異だろうと翼持ちだろうと、誰もその存在を否定しない。

 しかし、否定はしないけれど、口にもしないのだ。

 それはなぜなのだろう。

 頭が何かを深く考えようとしたので、キィコは目を瞑った。そうして、何も考えないように、雨の音を数えた。

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