第16話 獸
ホールでは知らない女の人が歌っていた。
雨季になるとリュシーはいつもいなくなってしまう。何か大事な仕事があるのだそうだ。今回は雨季になる前に行ってしまった。だからキィコはこの時期が憂鬱だった。
壇上の知らない女は甘ったるい声で、甘ったるい歌を歌っている。
「私、魔法使いになるんですよ!」
雨季前は客足が伸びる。人が一人いない分、キィコは客に沢山ついた。
それでもうすぐ就業時間というとき、初めて付いた男に簡単な自己紹介をすると、男は何も答えずにもぞもぞと体を動かし始めた。
うんともすんとも言わないので、仕方なくキィコは世間話を続けた。時々こういう風に話をするのが苦手の人がいるのだ。それとも、こういう店に来たのが始めてなのかもしれない。
キィコが何度目かの会話を振ると、男は突然顔を上げずに斜め下に向かって呟いた。
「――れる」
女の歌声にまぎれて全く聞こえない。
「え? なんですか?」
「変えられる」
と今度はやけにはっきりと言った。
「かえられる?」
言葉の意味を咀嚼しようとキィコはその言葉を繰り返した。今、自分はどんな話をしたのだったろうか。全然思い出せなかった。脳みそが水に浸されたみたいにぶよぶよとしている。
男は顔を上げてキィコの目を射るように見た。
「指名料払うから他の子と変わって欲しいんだけど」
何をそんなに怒っているのだろう。よく分からない。
いま初めてはっきりと見たけれど、男は随分と丸い目をしていた。ぎらぎらとしていて、目が合っているのにどこを見ているのか分からない。
ぞっとしたけれど、キィコは笑顔を作って答えた。
「ああ! そういうことですね、えっと、あの――ちょっと待ってていただけますか?」
男からの返答はない。蛇腹の衝立を広げて外に出て、もう一度衝立で目隠しをするときに、男の指がソファーの縁をかりかりと細かく掻いているのが目に入った。
口の上でぶつぶつと言葉が滞っている。
遅番でやってきた従業員も今は皆客についているから、すぐに変わりの人は来られないだろう。そもそも、もうあの客に付いてからかなり時間が経っている。
今から指名料だけで誰かと変わるのはきっと無理だ。そう思いながら、キィコはナカザトに彼の言い分を伝えた。
予想通り無理だという答えが返って来る。
「最初に言うなら兎も角、時間経ちすぎ」
「そう、ですよねぇ」
一方的に喋っていたのは自分なのだ、と言い訳をしようかとも思ったけれど、そんなことをする義理もないので止めた。
店から男に出された選択肢は、また全額を払った上で今他の客に付いている従業員を待つか、今すぐ帰るか、その二つだった。
実質的にはこのままキィコが付くか、という三択だが、あの調子でそれは選ばないだろう。男はキィコの存在そのものに怒っているようだったから。
「分かりました。そう言ってきますね!」
キィコが答えると、ナカザトが咥えていた煙草を口から外す。
「俺が行くか?」
「あ、いえ、大丈夫です。ぜんぜん、私は、あれなんで!」
と口が答えている間に、キィコの体は勝手に振り返っていた。
そのままぱたぱたと駆けて行くと、ホールに浮かぶ色取り取りの淡い色彩が目に入って来た。途端に恥ずかしさと居た堪れなさが湧き上がって大声で叫びそうになった。
急いで息を吸ってそれに耐える。
女の甘ったるい歌は、耳から体を腐らせていくようだった。
彼は何が気に入らなかったのだろう。キィコの顔だろうか。喋り方だろうか。何か傷つけるようなことを言ったのか、声が大きいのが嫌だったのだろうか。頭が悪いから。何者でもないから。
「ああ」
大声ではなかったけれど、声が出てしまった。余計に胸がつかえる。
普段なんとも思っていない全てものが気にかかった。こんなことでは駄目だ。何か楽しいことを考えないと。あの日のこと。楽しかったこと
ノラの笑った顔やマオの踊り、リュシーの声。頑張りましょうね、と言った声。歌。
でもマオは。
もう二度と自分のためには踊らないと言った。
ああ。
「――ということですので、申し訳ないのですが」
キィコが言い終わると、男は自分の口の中でだけ何事かを言った。
それは聞き取れなかったし、聞き取るべき言葉でもなかったように思う。だからキィコは男がどちらかを選ぶまで黙っていた。彼に説明しているうちに、少しだけ気分は落ち着いていた。
誰にでも気に入らない人間はいるだろう。一目見ただけで受け入れらない見た目や声や仕草が。
それは彼のせいではないし、勿論キィコのせいでもない。
もぞり、と男が動いたのでキィコはそっと顔を上げた。けれど、男と目は合わなかった。
その目は、明らかにキィコの胸元に向いていた。
「あの――どうします」
「喋るな」
キィコの言葉の端に、男の言葉が掛かっていた。その意味が汲み取れずにキィコがもう一度口を開くのと、男がキィコの腕を取ったのはほとんど同時だった。
強い力で引っ張り上げられ、バランスを崩したキィコはソファーの肘掛けに強かに頭を打った。水で緩くなった脳が、どろりと端に広がっていった。
「一言も喋るなって言ってるんだよ。黙れ、黙れ、だまれ」
そう言って男はキィコの胸を力強く握り込んだ。潰して消してしまおうとでもいうように。痛みに自然に口から出た悲鳴を、男は言葉だと判断して手で口を塞いでくる。
キィコはそっと自分の腕に爪を立てて、痛みを感じないことを確認した。時々こんな風に自分の体が自分のものでなくなることがある。
こうなればもう、無敵だ。
男はわざとかそうでないのか、極めて判断し辛いやり方で、キィコの頭をまたソファーに打ち付けた。
「なんで笑ってんだよ、なんなんだ! 気持ち悪い、気持ち悪い」
心の声が漏れている。笑ってしまってはいけないと思うと、余計に笑いたくなった。面白くて仕方がない。背中がむずむずする。
この男はもう一度金を払うのが嫌だったのだ。でも帰るのも嫌で、だからこうして、気色の悪いキィコ相手でも懸命に自分の欲を満たそうと頑張っている。
彼の頑張りを無駄にしてはいけない。人の頑張りが実を結ぶのは、どうあれとても素晴らしいことだから。
「ふざけやがって――なにが魔法使いだ。何で俺が、俺は」
声量を抑える余裕がなくなったのか、男の罵声がぽんぽんとキィコの耳に届いてくる。がたん、と大きな音がして顔を上げると、衝立が倒れていて、もう男はいなくなっていた。
壇上では、派手な身なりの女が、ぱくぱくと口を動かして歌っていた、どのような音もキィコの耳には届いてこなかった。
ただ光だけがまばゆい。
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