第17話 化け物の血は涙

 あの日みた箱庭は綺麗だったな、と、キィコは楽しかった時のことを思い出していた。

「キィコさん、キィコさん大丈夫ですか」

 そうして気が付くと、オルガがキィコの両肩に触れていた。

「あ、れ? オルガちゃんだ、どうしたの」

 オルガは唇を噛んで泣きそうな顔をしている。

「キィコさん」

 小さく呟いて、オルガはキィコの背中をさすった。

 誰がオルガにこんなに苦しそうな顔をさせたのだろう、とキィコは思った。魔法使いになれば、こんな声は絶対に出させないのに。

 キィコは同じように、オルガの背中にそっと手を回した。でこぼことした、翼の跡が指先に触れる。

 オルガには、生まれつき翼の落ちた跡があるのだ。そのせいで、どれだけの言葉を浴びたのだろう。過去でも、現在でも。

 けれど、このでこぼここそ、オルガの優しさの源なのだ。

 オルガの描く絵は、いつでも柔らかい虹色に溢れている。

「ごめんなさい。もっと早く来れば良かった」

 そう言って、オルガはキィコの左腕を見た。キィコは、ぬるぬるしているのは男の汗だろうと思っていた。しかし、それはキィコの腕から垂れている血だったのだ。自分で自分の腕を引っ掻いていたらしい。

 オルガに事務所に連れて行かれて、キィコはただぼんやり待っていた。

 爪切りに失敗したせいで大げさに血が出てしまっただけだ、と何度も説明したが、オルガはその度にそうじゃないと言って、首を振った。

 何が違うのか、何を言えばいいのかが分からず、キィコはそれ以上何も言えなかった。

 しばらくして、ナカザトが外から帰って来た。

 髪が濡れている。たぶんあの男を追いかけていたのだろう。もう燃やされてしまったかもしれない。キィコは、急激に申し訳なくなってきた。悪いことをした。

 何か音がして、視界の隅で、赤くて丸い球体がころころと転がった。

 ナカザトが我楽多の山を崩して、中から小さな木箱を取り出している。それからいつも通りの気怠い足音をさせて、正座をしているキィコの前へ来て、ソファーにどかりと座った。キィコは怒られると思って身構えていたが、怒号は飛んでこなかった。

 代わりに、温度も湿度もない声を視線が飛んでくる。

「腕出せ」

「は、え、う、うで?」

 その木箱が救急箱だということを知り、キィコは体を強ばらせた。

 ナカザトが自分の傷を手当てをする。そんなことは到底考えられないし、考えたくもない。

 この汚い爪跡だらけの腕を見られるなんて。そんなことは。

 しかし、ナカザトがそんな心情の機微を汲み取ってくれるはずもなく、キィコの腕は乱暴に取り上げられてしまった。

「あ、わ! あの、違うんです、これはそういうのじゃなくて」

 引っ張って自分の腕を取り戻そうとしても、びくりともしない。

「うるせえな」

「うるさいと言われましてもこれは」

「黙ってられねえなら念仏でも唱えてろよ」

「ねんぶつ? むりです、知らないです」

「じゃ動物の名前」

 言いながら、ナカザトは手際よく木箱から消毒液を取り出した。

「どうぶつ? 動物というのは、それは――象、とか、ですか」

 精一杯大きな声を出そうとしたけれど、口からは微かな音しか出て行かなかった。腕の上の汚い赤い染みが目に入って、恥ずかしくて瞳に液体が溜まっていくような気がする。

「そう」

 とだけナカザトは答えた。

 消毒液の染みたガーゼが腕に押し当てられて、やっと痛みが体に戻ってくる。びくりと体が震えたのを気取られたくなくて、キィコは急いで動物のことを考え、唱えた。

「虎、犬、豚、こうもり――がびある」

 ナカザトの顔が少し上がる。

「なにそれ」

 はっきりと目が合ってしまって、目を合わせて喋るのが普通のことなのかそうでないのか、途端に分からなくなった。

「え。あの、よくは、知らないんですけど。水辺にいるノコギリみたいな、ぼこぼこで尖ってる、すごくこわいやつ、です」

「へぇ」

 絶対にこんな説明では分からないだろう。

 キィコだってよく分かっていないのだ。待機室にある動物図解には名前以外にほとんど説明が載っていなかった。どんなところで何をして生きていた動物なのか分からない。

 だいたい、ナカザトはそんな動物の生態なんかに少しも興味はないだろう。だからこれは、キィコのための相槌に他ならなかった。

 どうしてそんなことをするのだろう。

 そんなことをされてしまっては、何かを認めなくてはいけなくなる。大丈夫だ、ということが上手く体に言い聞かせられなくなる。

 傷を労わるということは、傷ついていることを認めることだ。

 キィコは、努めて動物のことだけを考えることにした。

「山嵐、フタコブラクダ、ヒトコブラクダ、あひる」

 汚い傷の上に軟膏が塗りこまれて、薄いガーゼが敷かれていく間、動物のことだけを考えていた。

 現実と空想の間で、形しか知らない動物たちが、浮かんでは、すぐに消える。そうして、もう頭から引っ張り出す動物がいなくなったころ、キィコの腕にはすっかり包帯が巻かれてしまっていた。

 手当が終わっても、ナカザトは何も言わなかった。道具をさっさと片付けて、木箱を我楽多の中に戻している。なぜ何も言わないのだろう。

 ナカザトは怒るべきだ。

 キィコが自分で自分の腕を傷つけたことを気にしているのだろうか。精神的に深く傷ついているとでも思っているのか。けれどそれは違う。全くそんなことはない。

 どうして分からないのだろう。そんな風にされては、立ち行かなくなるということが。

 どうして。

「あの、店長!」

 と、キィコの口から、今度はちゃんと大きな声が出た。

「わたし、今日最後まで出来ますよ。ローラちゃんの分も」

 彼女はもう死んだのかもしれない。

「いらない」

 とナカザトは淡々と答えた。全く平坦に。温度も湿度もなく。少しの情感もなく。いつも通りに。

「え、っと、いらないというのは」

「お前今日はもう帰れ。帰って寝ろ」

「でもまだ時間が――」

 時計を見ると、本来の終業時間まであと三十分ある。もし次に客が入って来たら、その客に付いてから帰らないと。

「明日」

 ナカザトはキィコの買って来た紙袋を開きながら言った。

「リュシーが一度帰って来る」

 だから今日は帰ってすぐに寝ろ、と言った。

「何も考えんな」

 その言葉はうまくキィコの頭には入ってこなかった。

 ナカザトは、紙袋から香の入った小さな箱を取り出している。

 香屋の主人は、何か呪文めいたことを口の中で唱えながら、生白い皺の寄った手で香を一束一束箱に詰めていた。

 葬列の殿を追いかけながら泣いていた小さな男の子と、白い壺と、それを取り囲む獣たちと、頭の中から色んなものが出て行って、消えていった。

 泣いてしまわないで偉いわね、といつでもリュシーは褒めてくれる。

「店長」

 呼びかけると顔が向く。そんな些細なことでさえ、人は涙を流すことが出来るのだ。けれど、キィコはそうではない。キィコは泣かない。

 泣かないということは、非常に簡単なことだ。

 人の気持ちを考えず、自分の気持ちも考えなければ良い。それが人を捨てるのと同じことだとしても、そんなことは気にしない。

 きっと魔法使いは人ではないのだ。だから泣かないのだ。人の気持ちを知らないような、人間ではない生き物が魔法使いになれるのだ。

 部屋の隅に、細くて長い煙が立ち上っている。

「どうしてお香を焚くんですか?」

 キィコの質問に、ナカザトは少しも顔色を変えなかった。

 まっすぐキィコの目を見て、吐き捨てるようにナカザトは告げた。

「獣除け」

 どうりで、甘い匂いは少し吐き気がする。 

 腹の中に獸がいるから。

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