第18話 前から濡れている

「キィコさん?」

 もう辺りは真っ暗だったので、キィコは声を掛けられるまでその存在に気付けなかった。

 それは黒い傘と黒い服のせいでもある。

「ノラちゃん」

 何も考えずに道草をしていたので、そこがいつもの谷の縁だということにもキィコは気が付いていなかった。

 瞼が柔らかく濡れて、これは限りなく霧に近い雨なのか、限りなく雨に近い霧なのかと、どうでも良いことを考えた。

「どうしたんですか?」

 駆け寄ってきて、ノラは言った。

 ノラこそどうしたのだろう。こんな深い時間に出歩いて大丈夫なのだろうか。

 そういえば、ノラに渡すものがあったのだ。オルガとニーナが紙袋を用意して、お客さんに貰ったお菓子を少し入れて、それで、赤いリボンで持ち手のところを結んでくれたのだ。

 何から言えば良いのか分からなくて黙っていると、ノラそっと背伸びをして自分の傘をキィコの頭上に掲げた。

「傘――忘れちゃったんですか?」

 答え方が分からず、キィコはぼんやりノラの顔を眺めた。

 すると、持っていてください、とノラが傘の柄を突き出してくる。大人しく手に取ると、思ったよりもずしりと重たかった。

 傘、と口にしてみる。

 傘だ、と思う。

 ノラは斜め掛けにしている鞄の中をごそごそと漁り始めた。

「あのね、傘を持つ、という文化を獲得できなくて」

 キィコがやっとそう答えると、ノラは鞄の中からハンカチを取り出して、背伸びをしながらキィコの頬に当てた。

 ほふほふと、柔らかい布が肌に触れた。

「濡れるの、嫌じゃないんですか?」

 ノラの声音には、批判や同情や憐憫や、そういう余計なものは入っていない。ただの疑問。純然な。何の他意もない。

「考えたことなかった」

 キィコが答えると、ノラはこてりと首を傾けた。

「なにがですか?」

「だから――雨に濡れるのが嫌かって」

 それは、とノラは少し考えた。

「嫌じゃないということですか? 雨に濡れるのが好き?」

「別に好きではないかな」

「何も思わないんですか?」

「うーん。濡れてるなぁとは思うよ」

「でも――笑っています」

 ノラは不可思議そうな顔をしている。

「それは、今ノラちゃんが拭いてくれたから」

 そう答えると、何かを見極めるようにしてノラはじっとキィコの瞳を覗いた。酷く懐かしい。もう随分長い間離れ離れになっていて、今やっと会えたような気持ちがした。

「ノラちゃんだ」

 名前を呼ぶと、体の中がじわりと満たされていくように温かくなる。

「ノラちゃん」

 もう一度呼ぶと、ぼんやりとしていたノラの顔が微かに歪んだ。

「なんですか? どうしたんです?」

「ねえ、ノラちゃん」

 もう一度言うと、はい、と素直に答えてくれた。

 どうしてこの子には翼が生えていないのだろうと、神の名の付くものを全て呪いたくなる。この子には、翼が生えるべきだ。

「あのね、ノラちゃんに翼が生えたら――どこか遠くに連れて行って欲しいんだ」

 言いながらキィコはいつものようにノラのワンピースの中から首飾りを引っ張りだした。ころりと夜の中に飛び出た宝石は、暗い中でも柘榴色に美しく輝いている。

「遠くですか?」

「うん。遠く」

「それはどこでしょうか」

「んー、どこだろう。どこか、ああ、動物がいる所がいいな」

「動物」と言って、ノラはぱちぱちと瞬いた。「キィコさんを抱えてですか?」

 上手く飛べるかな、とぼそりと言うので、キィコも考えてみる。

 どうだろうか。ノラはまだ小さいから、翼も小さいのかもしれない。そもそも、上手く自分を抱えられるかどうか。

「うーん」

 キィコが声を出すと、髪の中から地肌を滑って、ぼろりと雫が落ちてきた。それを見逃さず、ノラはたった一筋の雫を、ハンカチでまた丁寧に拭った。

「きっと魔法のほうが簡単ですよ」

 それは、全くいつもと同じ平坦な口調だった。

「キィコさんが魔法使いになって、ぼくを連れて行ってください」

 言葉が体の中にじわりと染みこんで。そうか、とキィコは強く思った。魔法使いになれば、なんだって出来る。

 ノラに翼を生やして、遠くに遊びにいくことも出来る。

 どこまでも、どこでも行けるのだ。

 すると、傘の向こうから声が聞こえた。

「お嬢!」

 傘を上げて見ると、遠くでマツダが何かに躓いたのが見える。また動物だろうか。

 キィコとノラがじっと見ていることに気が付いて、マツダは何もなかったような顔をして二人の方へ走り寄って来た。そして、顔付きを整えて、ノラに告げた。

「会えたんだからもう良いでしょう。行きましょうよ」

 不機嫌そうな顔でマツダはやっとちらりとキィコを見て、また顔を歪めた。

「は? あんたなんでそんな濡れてんですよ。傘は?」

「だからね、傘を持つという文化を獲得できなくて」

「だから? どっから繋がってんだそれ」

「マツダくんも会いに来てくれたの?」

「お嬢が聞かないから着いてきただけです。こんな時間に。それに雨だし」

 どうもマツダは雨が嫌いらしい。鬱陶しそうに頭を振るって、説教めいたことを口走り始めた。雨粒みたいにいくらでも文句が出てきそうだったので、キィコは少ししゃがんでノラに顔を近づけた。

 雨の日の傘の中は、小さな部屋みたいで心地が良い。

「ねえノラちゃん。雨季でも会えるかな?」

 ノラは一瞬ぽかんとしたけれど、すぐにキィコの目をはっきりと見た。

「会えるかどうか、約束はできません」 

 それはとてもノラらしい言葉だった。

「うん。でも、会えるといいな」

 キィコは心の底からそう思った。暗くて長いこの時期に、少しの時間でも良いから、ノラと話せれば良い。

 ノラがちらりとキィコの左腕を見た。

 きっと、もうずっと前から気がついていただろう。けれど、ノラはそれについて何も言わなかった。

「約束はできませんが」

 もう一度言って、キィコの包帯が巻かれた腕を撫でる。

「ぼくはいつでもキィコさんに会いたいですよ」

 途端に、キィコの肌の上から、ちくちくとした痛みが消え去った。

「ほんとう?」

「嘘はいいません」

 ノラは軽く笑った。

「そっか。そっかぁ」

 そうして突然、キィコの頭の中に、頑張りましょうね、というリュシーの言葉浮かんだ。

「うん! 頑張ろう!」

 キィコは傘をノラに戻して、外に出た。マツダが、何か不思議な生き物を見るような目で、キィコを眺めた。

「あの、傘、持って行って下さい」

「平気だよ。もうずっと濡れてるし、それに二人に会えたから、平気!」

「いやだから、全然繋がってねえよ文脈が」

 マツダは自分の傘をキィコの頭の上に寄せた。

「そう? 繋がってるよ。あ、平気平気。うん。二人とも、こんな遅くにごめんね。本当にありがとう。気を付けて帰ってね? わたし今から走るけど」

「走る? 走るんですか?」

 酷く驚いたような顔と声でノラが言う。

「うん! 今、すごく走り回りたい気分だから。大丈夫、ちゃんとまっすぐ家帰るから。心配しないで。うん。じゃあ、またね」

 キィコが手を振ると、ノラも素直に手を振りかえした。

「はい。また――いつか」

「近々ね!」

 キィコは向きを変え、走った。

 走り出した途端、もっと強く大丈夫だと思った。

 明日にはもっと大丈夫になるだろう。リュシーにも会える。ノラにも、またすぐに会える。そうすれば、また新しく始められる。また頑張れる。

 きっと、今度の雨季は今までとは違うものになるはずだ。そんな言葉が、まるで予言のように頭を過った。

 そうして、その予言は当たったのだった。

 次の日の朝、谷は雨季に入った。

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