第42話 誰にもなれない

 もう消えているはずのフィールスの声が、部屋の中にまだはっきりと残っているような気がした。

 黒き翼をすっかり殺す?

 なぜ、そんなことをいうのだろう。どうして黒き翼を――彼女を殺さなくてはいけないのだ。

 フィールスは、もう微笑んでいる。

「魔法使いという存在は、抑止力だ。黒き翼とは世界の均衡を崩す厄災のことなんだよ。それは時には天変地異の形で、思想的な反目の形で、またある時には戦火の形で僕らの前に現われる。そうして今回は、文字通り黒き翼を背負っているというわけだ」

 それはつまり、彼女が大地を燃やした火の塊や、あの恐ろしい醜い余り物と同じ存在だということなのだろうか。黒い翼が生えたという、ただそれだけのことで?

「魔法使いは、それらの厄災を調停し、治め、元に戻すために人間に作られた道具なんだ。今までだって、僕らは彼らの元で黒き翼を倒してきた」

 フィールスの飴玉の目が、今何を見ているのかノラには分からなかった。斜め下の方を眺めて、じっと止まっている。

 そして、はた、とノラの方を見た。たった今、夢から覚めたように。

「ねえ。彼らは、僕らに道徳心を望んでいるんじゃないだろうか」

 ノラは微かに眉を潜めた。

 兄の言葉に反発したというのではない。その言葉の指す具体的な意味について、上手く思いを巡らすことが出来なかったからだ。

 道徳心。

 その言葉は、ノラにはたった今、空気の中から生まれて来た新生物のように感じられた。あまりに突拍子がなく、全くの未知で、不気味だった。

 けれどもフィールスは、自分の言葉に深く納得したようだった。

「うん。僕はそう思う。彼らは、世界を滅ぼす力そのものに、道徳心を持たせたかったんだよ。自分たちで判断を下せないようなことを、ぼくらに託せるようにさ。だから僕たちは、人の形をしているんだ。思想というしがらみのない、まっさらな状態で審判を――」

 フィールスは言葉を止めた。それはノラの姿を発見したからに違いなかった。その瞳には、かすかな恐怖が浮かんで取れた。

 恐らく、ノラも全く同じ目つきをしているのだろう。

 兄が何を言っているのか、ノラには少しも分からなかった。それはとても悲しく、ひどく怖いことだった。

「それではにいさまは――黒き翼を、キィコさんを殺すことが、魔法使いの道徳心だと、そう言うのですか?」

 彼女は何もしていないのだ。妙な動物を引き連れて、塔に閉じこもって、ただそれだけ。それだって、彼女自身が引き起こしたことではない。彼女がやったことなど、出来たことなど何一つないのだ。

 何も出来なかったから、何者になれなかったから、背中にあんなものが生えたのだ。

「ああ!」

 ノラは顔を覆った。

 そうしないではいられなかった。キィコは、魔法使いになれなかったのだ。そんなことは知っていたのに。そのことを思うと気が狂いそうだった。あの人には翼が生えた。

 彼女は、魔法使いになれなかったのだ!

「ノラ」

 すぐそこから、あえぐような声が聞こえた。

 顔を上げると、フィールスがこちらに手を伸ばしているのが見える。しかし、その手はノラが目を向けると、ぱたりと床に落ちてしまった。途端に、世界の色が全て、一つずつ暗くなった。

 酷く甘い匂いがしている。

「にいさま!」

 それは、少し思いを巡らせれば分かることだ。こんな風に何人もの人間を眠らせて、たくさんの魔法を使って、その体が耐えられる筈がない。

 ノラが握ると、その指先は石膏のように冷たく、重たかった。

 しかし、ノラの驚きなど気に留めず、フィールスは悲しんでいる。

「君を悲しませたいわけじゃなかったんだ」

 喉を潰されてしまったような声で、フィールスが言う。いつものゆっくりと流れて行くような、空気をふんだんに孕んだ声からは、想像も付かないほど悲痛な、激しい悲しみの声だ。

「ねえ。ぼくは本当は、そんなことをしたいわけじゃないんだ。君を悲しませたり、苦しませたりしたいわけじゃあ」

 フィールスはまるでうわごとのように、脈絡ない言葉を並び立てた。

「でもね。こんな風に体が弱くなってしまっては、どうしようもないんだ。きっと人間たちは困っているよ。僕の体は、再生する力より、破壊していく力の方が強いんだ。だから――でも、ジャンはやっぱり間違ってる。これは進化なんかじゃない。僕らは、ただ滅び始めているだけだ」

 フィールスの飴玉の瞳からは、いくつも雫が零れ落ちている。

「にいさま、もういいから、魔法を解いて。これじゃあ――」

「でも答えを出さなくては」

 そう言って、フィールスはノラの腕を強く掴んだ。体の中のすべての力を使うように。

「君が黒き翼を倒さないのならば、ぼくはあの谷を焼いてしまうよ」

 目が眩むほどの強い甘い匂いがする。

「なぜ? それがぼくらの道徳心だから?」

 フィールスは強く首を振った。

「違う。ぼくはこわいんだ。君がジャンみたいにどこかに行ってしまうことが怖い。ぼくはジャンを愛していたけれど、今では憎んでいる。ジャンは、呪いを解くなんていう新しい価値に飛びついて、ぼくらを捨てたんだ。道徳心なんていうのはでたらめだ。ぼくはただ恐ろしくて――そうして憎い。新しい価値というものが。ノラ、あの黒き翼は新しい価値そのものだ」

 この匂いを、フィールスは魔法使いの腐敗していく匂いだと言った。それは植物の匂いと似ている。花弁を溶かし、滅びる寸前の花々の匂いに。

「君が刻限までに黒き翼を倒さなければ、僕が彼女を殺す」

 言葉の途中で、フィールスは飴玉の瞳をすっかり隠してしまった。

「きみが、食いちぎられる、夢をみたんだ」

 そうしてノラは、産まれて初めて兄が音を立てて眠りの世界へ落ちていくところを見た。




*   *   *




 その夜、ノラは生まれて始めて夢を知った。

 今までも、いくらか夢を見たことはあったのだ。けれどそれは目が覚めてしまえば、自然と体の外へ溶け出し、もう二度と戻ってこないような、脆いものだった。

「ノラ?」

 早くに起きたらしいマツダが、訝しげな声をあげた。ノラは半身を起き上がらせたまま、ぼうっと体を動かせないままでいた。

 翼の生える夢を見たのだ。

 今でもはっきりと覚えている。まるで本当に起きたことのように、それは肉感を伴っていた。背中の皮膚を破って、白い羽が生えたのだ。

 空を飛んだ。あの航空隊のように。色を攫う白色の翼で飛び回った。

 けれど、その世界には誰もいなかったのだ。

 自分以外、誰も。

「どうした」

 再び声がして、ノラはゆっくり振り返った。

「マツダ」

「なに、なんだよ?」

 異常を感じて、その顔に険しさが混じる。ノラは答えた。

「ぼくの背中はどうともない?」

「は? 背中?」

「背中を触って。確かめて――」

 ノラは自分の声が思いもよらず真剣であることに気がついた。それは可笑しなことのような気もするし、悲しいことのような気もした。

 マツダは、当然のこととして、ノラの言葉に従おうとした。ベッドに戻ってきて、ノラの背中を後ろから眺める気配がする。

「確かめるって、どこを?」

「翼の生えるところ」

「生えてないよ」

 触らぬ前からマツダは答えた。

「でも、何か兆候があるかもしれないから」

 それはかつてキィコがノラに対して言ったことだった。

 今はまだ生えていなくても、いつかは生えるのだから、きっとその前に兆候があるはずだと言って。キィコは、いつも丹念にノラの背中に触れた。

 ノラが谷の縁から飛び降りるたびに、背中を点検してくれた。

 そうして隈なく調べ終わったあと、必ず言うのだ。

 まだみたい、と。

 ノラはそれを聞くと、そうかまだなのか、と思った。まだ自分には翼が生えていないのだ。まだ。まだ――。

 本当に、心からそう思った。

「どう?」

 ノラの声にマツダはすぐには答えなかった。もう一度、翼の在り処を柔く触り、少ししてから答えた。

「なんともない」

 そうしてノラは、ようやく、そのことに思い当たった。

「そうか。なら、やっぱりぼくは魔法使いなんだ」

 翼は生えない。

 希望は消えてしまった。

「マツダ。髪を梳かして。それから、外出許可を」

「許可って――どこに?」

 マツダは疑うような目つきで言った。ノラは答えた。

「谷へ」

 黒き翼の元へ。

 だってぼくらは、そのためだけに生まれたのだから。

 

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