第41話 呪われども

 部屋の中には甘い匂いが広がっていて、人間たちは全て眠りについていた。

 塔の最上階にあるこの部屋はいつも薄暗く、銀色の壁は人が素肌で触るとぶくぶく紫色の泡を吹くのだ。その泡はしばらくすると銀色に変わり、新しい壁の一部になる。

 ノラは、生まれるずっと前、汚れを厭うこの壁が好きでよく見ていた。ときどき素手で触ってしまう間抜けな人間が現われるのだ。

 そういえば、彼らには皆翼が生えていなかった。今考えてみると、特異でもないのだろう。

 彼らは、何者でもない。

 何者でもあった、と言う方が正しいのかもしれない。翼持ちでも、特異でも、もちろん魔法使いでもなく、誰にでもなれるはずの存在。

 恐らく、原始の血を色濃く引く者。

 部屋の奥まで進んで行くと、フィールスは水槽の前に座り、目を瞑っていた。

「にいさま」

 声を掛けると、睫毛が煌めくように震えて、瞼が開く。

 フィールスの瞳はいつも甘そうな色をしていて、匂いと混ざって、飴玉のように見える。その飴玉の瞳がノラを捉えて、微かに揺れた。

「ああ。夢を見ていた」

 しかし、彼はいつも夢を見ている。

「君が食いちぎられるところだったよ」

 そう言って、フィールスは体を少し起こすと、水槽に寄りかかるように座りなおした。ノラは、どうにかして軽く笑ってみせた。兄の見る夢の内容を聞いたのは、ほとんど初めてに近い。

「痛いのは厭だな」

 ノラが言うと、フィールスはやけに真剣な顔をした。

「それはそうだ。誰だってそうだ」

 まだ夢の中にいるような話方だな、とノラは思ったが、もうずっとフィールスはそんな喋り方しかしていなかった。

「魔女はなんと言っていたんだい?」

 フィールスは微笑んで言った。

「魔女?」

「ああ。彼女は魔女と言われているんだよ。あの建物を見た? あの本がたくさん飛び回っているあれ――。彼女はね、あれを守るために、沢山の人間を殺してしまったのだ。だからあそこに幽閉されているのだって。叡智の守り人と言えば聞こえはいいけれど」

 そう言って、自嘲に似た笑い方をした。

「もうずっと長い間、死ぬことを許されずに生きているらしいね」

 ノラは、それにさして驚くことが出来なかった。

 マリィの柔らかく穏やかな語調の奥にある、重くて黒いものの正体が分かって、却ってすっきりした位だ。

 しかし、魔法使いは人間を殺すことが出来ないはずなのに、彼女はどうやってそれをなしえたのだろう。

 やはりかなり力のある魔法使いなのだ。

 するとフィールスは、自分の背後にある水槽を、こんこんと叩いた。中で浮いている子供がはたと目を開け、すぐに閉じる。

「これはぼくの子供らしい」

 確かに、水槽のプレートにはフィールスの名前が書いてある。

 しかし、中に浮かんでいる子供は、他の水槽の中にいる子供たちと寸分違わない姿形をしているので、何の感慨も持つことが出来なかった。

 恐らくどこかにノラの子供も浮いているのだろうと思ったが、それも全く同じ。何の気持ちも抱かない。

 魔法使いは、生まれた時はみな同じ顔をしている。

 彼らはノラたちを直系と言って遠ざけるが、元を辿ればみな同じ人物なのだ。それでも、生きていくほどに顔付きの変わる他の魔法使いとは違い、ノラたちが時間を経るほとに、あの肖像画の人物に近づいて行くのは事実だ。

「でも、この子供はいわば入れ物だろう?」

 フィースルは視線が水槽から床に降りていく。そして、床に倒れている人間の手の内にある試験管を眺めた。その中には、小さな光りが蠢いている。ある者は素早く、ある者はゆっくりと、液体の中を泳いでいる。

「これを入れなければ、ただ生きているだけの生き物だ。つまり、ぼくの本当の子供は、その小さな光る獸ということになる」

 獣という言葉は、とてもしっくりくる名称だった。ノラは、試験管の中で瞬きながら蠢くその獣が、自分の体に入って行くときの感覚を今でも覚えている。

 獣たちは体の中を駆けまわり、それぞれ体の中に住処を作る。そうして普段はじっと眠っていて、魔法を使うときにだけ、目を覚ますのだ。

 この水槽の中の生き物もまた、じきにその日を迎えるのだろう。

「もうすぐ産まれるの?」

「さあ、どうだろうね。それは彼らに聞いてみないと」

 フィールスはとても詰まらなそうに、やはり横たわっている人間を見た。彼らは、ずいぶん気持ちよさそうに眠っているようだった。

 ノラは彼ら人間に対して、やはり一種の愛情のようなものを抱かずにはいられなかった。それは翼持ちに対して抱く感情とほとんど同じだ。

 それらは全て仕組まれたものなのだと、ジャンは言った。

「どうして今まで気にすることが出来なかったのかな」

 ノラが言うと、フィールスはノラの目を不思議そうに眺めた。

「ぼくは」とノラは続けた。「自分たちが、彼らと違う生まれ方をしてくることを、ずっと知っていたよ」

 彼ら人間も、翼持ちも特異持ちも、ノラたちとは違って、母親の腹の中から産まれてくるのだ。

 それなのに、ノラは自分たち魔法使いも、彼らと同じ人間だと思っていた。もはや、思うという意識さえなかった。しかし、それは可笑しなことだ。

 翼持ちや特異は、長じてその特性が発露するまで、そのどちらなのか見分けることは出来ない。途中で枝分かれするというだけで、産まれた時点では全く同じなのだ。彼らは同じ生き物なのだ。

 けれど、魔法使いたちは生まれ方が違う。

 そもそも、自分たちは生まれたのではなく、作られたのだ。

「どうしてそれを不思議に思わなかったんだろう。どうして誰も、不思議だと言わなかったのだろう」

 自分たちを作り出している人間について、彼らが一体何者なのか、ノラは今まで一度だって気にしたことはない。

 そして疑問を持ってしまった今では、なぜ不思議に思わなかったのかが分からない。それも妙なのだ。だって、記憶がないというのではない。何もかも覚えていて、それなのに思い出せない。

 すると、フィールスが何ということはない、という風に言う。

「それは都合が悪いからだろう」

「都合――都合というのは、誰にとって?」

「もちろん、彼らにとってさ」

 フィールスはそう言って、笑ったままの目で床に眠りこけている人間たちを見た。しかし、すぐにその目は形を変え、ノラを向く。

「君はぼくの知らない誰かに、そのことに気付くよう細工されたようだよ」

 それがどういう意味だか、ノラには分からない。誰かに気付かされた、という感覚はノラの体の中にはなかった。ただ突然、頭が冴え渡ったのだ。フィールスは、無理に微笑んでみせたようだった。

「けれど、それは少し時間を早めたというだけのことかもしれない。君が自力で気付く可能性は十分にあった。実際、ジャンはひとりでにそのことに気が付いたのだから」

「ジャン」

 ノラは思わず口走った。

「ジャンはどこへ行ったの? どうしてこの鍵を渡して、どこかへ行ってしまったの?」

 一つに気が付いてしまうと、崩れるように次々何もかもが気になっていく。ジャンのことを、どうしてもっとちゃんと考えなかったのだろう。

 さあ、とフィールスは肩をすくめた。

「ぼくは何度も魔女に問いただしたけれど、答えてはくれなかった。白を切っているのか、本当に知らないのかは分からないけれど。他にはもう探りようがなかった。でも、きっと殺されてしまったのだろうね」

 ごく自然に吐かれたその言葉を、ノラは受け止めることが出来なかった。

「殺された? ジャンが?」

 殺された。

 どう考えようとしても、うまくいかない。今まで、そんなことは考えつきもしなかった。もう帰ってこないのだろうと、ごく自然に感じていたくせに、死というものを連想することがなかった。

 だって、魔法使いは死ぬことが許されていないのだ。許可をもらい、特別な処置を受けないかぎり死ねない。

 特別な処置。

 それもまた考えたことのないものだ。処置とは何を意味するのだ? 死の近くにある処置というのは――それは。

「呪い、ということをジャンは言っていただろう。ぼくはずっとそれについて考えていたんだ。そんなものは見当もつかなかったからね。何一つ不自由を感じたことなどなかったし。不満もなかった。けれどある日、突然気が付いてしまったんだ。ジャンと同じように」

 フィールスはノラの顔を見て、微笑みではなく悲しそうな顔をしている。

「ぼくらは、命を生きることを許されていない」

 こぽこぽという、水槽の中の音が、途端に部屋中を占拠しはじめたような気がした。

 甘い匂いもまた、どんどん強くなっているようだった。

「君もあそに行ったのだから、魔女に箱を見せて貰ったのだろう? ぼくらは、突然変異種である特異を元に作られたんだ。この小さな獣は、特異の種だ」

 やはり、小さな獸は光り、飛び回っている。

「君は知らないかもしれないけれど、いつだか挨拶に行ったあの学院、ほら――珍しい特異を持つ子供たちが沢山いただろう? あそこは、特別な能力を発動する特異を集めて、その種を抽出するためにあるんだ。その種を小さな獣が食べ、ぼくらはそれを食べる。いや、実際には僕らが食べられているのかな。いずれにせよ、魔法使いの父母は特異だ」

 父、母。

 もしくは、男、あるいは女。

 ノラはそういう言葉に、人間たちが持っているような特別な感傷を持ったことがなかった。全き他人事だからだ。その括りは、生殖行為が元となっている。

 魔法使いは、行為としての生殖を行うことが出来ない。それらは常に、第三者が行うものだ。

「呪い」

 ノラが呟くと、フィールスは頷いた。

「そうだ。ぼくらには呪いが掛かっている。自ら子孫を残すことが出来ない。自ら死ぬということが許されない。そうして肉体はというと、絶えず再生を繰り返している。なによりぼくらには思想がないじゃないか。考えるということに、規制が掛かっている」

 そうだ。規制。まさにその言葉がぴったりだ。ノラの頭は、今まで考えることを制されてきた。しかし、一体誰に。

「彼らがなぜ、そんな風にぼくらを作ったのか、ぼくにはが分からない。ぼくたちが生きたり死んだり、生殖行為をしたり、思想を持つことが、そこまで彼らの不利益になるとは思えない」

 すると、フィールスは即座にこう言った。

「ならば君は、黒き翼をすっかり殺してしまうことが出来るのだろうね?」

 その言葉は、今までと比べものにならないくらい、強くノラの体を刺し、引き裂いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る