第40話 最悪の才覚の災厄

 箱の中はまた繁栄に向かって動き出している。

 所々に小さな木の建物が建てられ始め、人がまだ生きていたことを照明する。けれど建物は緑色に染まってしまう。人はどうにか緑を排除しようと苦闘しているらしかった。

 排除と増殖が続く。建物と緑が、増え続けている。しかし一部分だけ、建物の建っていない場所がある。マツダがそれを指摘した。

「どうして谷を避けてるんだ?」

 どの建物も、そして小さく見える人間たちも、谷からある一定の距離を取っているのだ。いくら人が増えている様子があっても、谷の近くにだけは一棟も建物が建ってなかった。

 谷の中は、全て緑が占領している。

「もう少し近づいて、ちゃんと見てみたら分かるかもしれないわね」

 マリィの言葉に、ノラは箱に触れ、谷の近くを注視した。

「あ」

 近づけば、それは明らかだった。谷の上にひらひらと舞っているものが見える。

 余りものたちだ。

 無理矢理に作り出された余りものたちも、消滅せずにまた生き残っていたのだ。けれど彼らはもう消滅寸前で、けれど――それでもまだ何ものかに成ろうとして虚しく舞っている。

 しかし良く見ると、彼らのうちの一部は、どうにかして一つの形になることが出来ているようだった。その形は目を瞑りたくなるほど醜くかった。形になれなかったもの同士が結びついたのだから、当たり前のことだ。

 しかも、彼らはまたその形から、別の余りものを作りだしているようだった。ノラの目では、その余りがどこから来ているのか分からなかった。

 まるで子供を産んでいるように、醜い形から、新しい余り物が生まれ続けている。

「分かったかしら?」

 マリィの声がして、ノラはその醜いものから目を離し、頷いた。

 とても人間が生きられるような空間ではない。

 あの中に入れば、人間の中身もまた醜く形が変わってしまうだろう。中から壊れて行ってしまう。だから人々は谷を避けているのだ。

 けれど、それではなぜ、今の谷には人が住んでいるのだろう。

 ノラも谷に入ったが、そんなものは感じなかった。

「きっと、あなたが知りたいのはここから先のことよ」

 マリィが言う。

 ノラはその瞳を、今また初めて見たように感じた。箱に目線を戻すと、妙な感覚がする。まるでそれで何かが起きることを知っているかのように、自分の目がじっとそこを見て止まることを、ノラは不思議に思った。

 そして発見したのだ。誰も近づかないでいる谷の縁に、一人の人間がたたずんでいるのを。

「キィコさん」

「え?」

 ノラの呟きに、後ろにいたマツダが声を上げた。

 谷の縁に、ぬるりとした人型が立っている。個性のない顔のないぼんやりとした色の人型だ。勿論、翼はついていない。

「ここからは、進化の物語」

 マリィの声は、空から降って来るようだった。

「ある日、谷に近づける人間が誕生した」

 その人型は、谷を覗き込んでいる。

 しばらくして、それを遠巻きに見る人型が現われた。彼らはぶくぶくと太っていて、どうも谷の余り物を防ぐ大きな服を着ているらしかった。

 しばらくするとぶくぶくの人型は、生身の人型を町へ連れ去ってしまった。引き摺られながら、生身の人型が谷に手を伸ばしている。

 マリィの声がする。

「人々は、谷に近づけるようになった彼を熱心に調べた。残念だけれど、彼については、ほとんど文献が残されていないわ。けれど、確かなことが一つだけ。彼は谷に近づける以外にも、人と違うところがあった」

 ある予感を持って、ノラは聞き返した。

「違いというのは、どういうものですか?」

 マリィが小さく首を振る。

「残念ながら詳しいことは分かっていないわ。飛べたのかもしれないし、犬の鳴き声とそっくりの声を喉から出せたのかもしれない」

 ぶくぶくの人間に連れられて、彼は何度も谷の縁へやってきた。その度に、谷の縁から中を覗き込み、中へ手を伸ばしていた。

 マツダが、ごく平坦な声音で言う。

「そいつが特異持ちだったってことですか?」

 すると、マリィはやや驚いたような顔をしてマツダを見た。

「ええ。そうよ。あなた、本当に不思議ね。さすが、恐竜のことを考えられるだけあるわ。凡庸な、というよりかなり弱い魔法使いに見えるけれど――いえ、だから考えられるのかもしれないわね」

 マツダは馬鹿にされたと思ったのか、眉をひそめた。マリィは気にせず箱の中を眺めて続けた。

「そう。彼は特異だったの。生まれた時からそうだったのか、途中でそうなったのかは分からない。ともかく、最初に発見された特異よ。そして、彼を使って人々は特異を作り出した」

 その言葉に、ぴたりと時間が止まったような気がした。

「作り出した?」

 止まった時間の中に浮いているような状態で、ノラはその言葉を繰り返した。マリィが答える。

「どのような手を使ったのかは、私たちは知ることが出来ない。けれど、特異を作るための何かのきっかけを、人間たちが作ったことは確かだわ。まぁそのあとは、自然に数が増えて行った。今と同じよ。特異は何かの手が施されて生まれている訳ではないでしょう? ほら、あなた」

 マリィはマツダを見た。

「古生物に詳しいのだったら、その辺りも分かるんじゃない?」

「え?」

「進化論というのかしら?」

「ああ」

 マツダはひどくぼんやりと声を漏らした。

「そうですね。一個体に現れた私的な変容が、次の世代にも受け継がれて、その性質が固定されることで、新たな種族が出来るというのは――そういうことは――確かに、自然に行われてきたはずです」

 その喋り方は非常に胡乱で、聞いているとぽんぽんと言葉があちこちへ飛んでいくように感じた。まるで思考の中に瘤があって、滞りなく流れるのことが出来ないみたいに、滑らかでなかった。

 ふと箱の中を見ると、谷の近くに建物が建ち始めている。谷に近づける人間――特異が増えているのだろう。そしてそれは目まぐるしい速さで増えているように思えた。

「それでも、特異は今でも一定数しか生まれないのよ」

 ノラは静かに驚いた。そんなことを聞くのは初めてだった。

「なぜ生まれないのでしょう」

「それが分からないの」

 マリィがそっと箱の中に目を落とす。

「当時の彼らも、かなり色んなことを試してみたようだけれど、特異の数は増えなかった。それも問題だったのね。もし特異が谷に近づけるというだけの特製を持つ種族ならば、彼らはそこまで熱を上げることもなかったでしょう。谷から離れてしまえば問題なく済めたのよ。土地が足りないという訳でもなかった」

 むしろ余っているくらいに見える。今だって、人間の住んでいない果ての方には大きな土地が残っているくらいなのだから。

 箱を見つめるマリィの瞳は、憂いと好奇心の混じった、奇妙な色をしている。

「けれど、特異は谷に近づけるだけじゃなく、特別な能力を持っていたのよ。土を金銀に変えたり、炎を自由に操ったり、あるいは動物と心を通わすなんてことの出来る者もいた。それこそ魔的に秀でた能力を――中にはいくつも持っていた者もあったそうよ。どれも昔の話だけれど」

 箱の中では特異たちが、谷の中にも建物を建て始めたようだった。

 谷に人間の生活の色が付く。同時に、地上には地上の建物が増えて行った。それは、今ノラが見ることのできる世界と、ほとんど変らなかった。

 しかし、やはり決定的に違う部分がある。谷の周りに大きな囲いが出来ているのだ。光を孕んだ鈍色の囲いにぐるりと取り囲まれ、谷は隔離されている。

 ノラはこの景色は知らない。けれど、知識として知ってはいることだ。谷は、かつて地上とは別の理で生き、そして虐げられていた。少し前に地上の中央政府が谷を整備するまで、特異たちは谷から出ることさえ許されていなかった。

「なぜ、人々は特異を隔離したのですか?」

 ノラの言葉に、マリィは即座にはっきりと答えた。

「いいえ。彼らは隔離されていない。彼らが隔離したのよ」

「え?」

 意味を判じかねてノラがその顔を見上げようとした瞬間、箱の中の谷から幾筋もの炎の光が、地上へと降り注ぎ始めた。

「この囲いは特異が作ったものよ」

 ノラは、これほどまでに強い意志を持った光線を見たことがない。明らかな敵意。明らかな害意。

「彼ら特異は、人々が住むことの出来ない土地で暮らすことが出来た。そして、多くの人が持たない特別な、素晴らしい能力を持っていた。そのことが、彼らに多大な優越感を与えたとしても、何ら不思議ではない。そして自分たちは選ばれたのだと――その選ばれた血を、純粋な状態で残すべきだという思想に陥ったとしてもね」

 谷から近い場所はすぐに焼野原になった。地上から、あるいは谷から、火の玉や鉄の玉がたびたび降り注ぐ。谷の囲いは何度か崩れたが、すぐに建て直され、その度に高く、広くなっていった。

 特異たちは地上まで領土を広げ、地上は後退し、沈黙した。よく見ると、特異と共に、あの醜い余り物たちも地上へ住処を広げているようだった。特異しか生きられない世界が、明らかに広がっているのだ。

「これが、真実なのですか?」

 ノラは思わず口にした。これが本当だとしたら、今まで、自分たちが信じて来た歴史は、誰かが作り出した嘘だということになる。一体誰が、何のために吐いた嘘なのか。

 マリィは、顔色を変えることなく、箱からノラへ視線を変え、淡々と答えた。

「真実のうちの一つ、というべきね。ある場所から、ある方向から、ある世界から見た一つの真実。そして――まだこの先がある。これから先は、私たちのための一つの真実よ」

 私たちという言葉が誰を指すのか、ノラには分からなかった。

 しかし、箱の中に目を落とした瞬間、すっかり理解した。これまで、この大地は何度も厄災に見舞われてきた。そうして今、また新たな厄災が降り注ごうとしている。

 谷の領土の上に、巨大な赤黒い火の玉が浮かんでいる。それは地下から沸き起こるのでも、天から降り注ぐのでもない。あの禁忌の余り物たちでもない。

 それは、ノラにとって非常に見慣れた、全く新鮮さのないものだった。

「魔法」

 とても原始的な、魔法使いであれば誰でも使える程度のものだ。

 箱に触れ近づくと、火の玉を操っている人物が、谷の領土の外に立っているのが見えた。それは今までののっぺりしたものと違い、姿形のはっきりした人型だった。

 ノラのよく知っている人物だ。

 額縁の中でいつでも自信に満ちた顔をしている、彼の大魔法使い。

「私たちのご先祖さまね」

 その姿を見止めた瞬間、ノラの心臓は早鐘を打ち始めた。

 肉体の外側から、見えない手で心をべたべた触られているような感じがする。とても厭な気持ちだ。決して触ってはいけない場所を、探るように無遠慮に、見えない手が動いている。

 マリィの声は、今までになく冷淡だった。

「色んな事情が重なったのね。たとえば、全ての特異が谷の中にいたわけではないということ。地上の人間が、このままでは自分たちの暮らす場所がなくなるのではと怯えていたこと。地上に、長い間特異について研究を続けてきた機関があったこと。そして、彼らの研究が、有る形で結実したこと」

 火の玉はゆっくりと谷へ近づいて、今ではその一部を燃やしている谷の中では、特異が逃げ惑っている。

 まるで恐竜のように、翼竜のように、その他全て生き物たちのように。同じことを繰り返している。

 けれど、本当は、一度として同じことなど起きていなかったのだ。それは全て別々の、段々と最悪な厄災だ。

「どういうことか――もう分かるわね?」

 マリィの言葉は、やはり空から降っているようだった。

「私たち魔法使いが、どうやって生まれたのか」

 そんなことは、初めから知っている。

 それなのになぜ、こんなにも恐ろしく思うのだろう。どうしてこんな風に、存在の膜を全て剥がされてしまったような気持ちがするのだろう。それは分かり切っていることだ。

 魔法使いは人間ではない。

 ノラたちは人間に作られた、人間と似て非なるものだ。

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