六幕 空を飛びたい恐竜たちの
第43話 オオハラエと路地穴のねむり
真昼だというのに、谷は夜が明ける直前のような、薄い暗闇の中にあった。雨は降っていない。黒雲は遠くで見るよりも大きく広がって、それは谷の中央に行くほど厚く空を覆っている。
まるで夜だ。
「すげえな」
マツダが言ったのは、天変地異の前触れのような、その景色についてではなかった。
その坂の両端は、赤提灯の鈍い炎で埋め尽くされている。
坂へ向かう路地の中には、青か緑か、そのどちらとも判別のつかない色の火の玉がぽつぽつと浮かび、流れている。
子供たちが炎を吊した木の竿を持っていて、それが揺れているのだ。子供たちは喜びを隠さず騒ぎ立てているが、素顔なのは彼らだけだった。その横をじりじりと歩く大人たちは蛇腹の傘を差し、みな獣の顔をしている。
面を被っているらしい。
「オオハラエだよ!」
看板に書いてある文字が分からずノラたちがじっとしていると、火の玉を持った子供がそれだけを言って、坂を駆けて行った。遠くから鈴の音と小さな太鼓の音が聞こえる。
獣と子供たちの一団は、どこからともなく現れて、一様に坂の上を目指しているらしい。オオハラエ。何かの祭りだろう。
「どういう神経してるんだ? こんな非常時に」
マツダはそう漏らしたが、それは非難ではなく、単なる疑問と驚きの声だった。谷の中は、真実、まるで別の世界なのだ。
道を一つ外れると、そこにはただの日常があった。人々の顔の上には様々な表情が張り付いていて、それらは全く、特別ではない。個々の生活に即した、ごく個人的な表情だ。
その表情は、町の中央に近づいて、暗闇が深くなっていくほど、豊かになっているようにノラには思えた。
「どうしてこんなに脳天気でいられるんだ?」
マツダがそういうのは、地上の人々の姿を見ているからだろう。彼らは泣いたり喚いたりしているという訳ではないが、対岸の火事が自分たちの生活に影響を及ぼすのかどうか、心底から恐れている。
谷だ。とノラは漠然と思った。
地上と谷との境目に座り、この町を眺める度にノラは思った。ここは谷だ。無尽蔵に増殖される建築物や、遠くからでも耳を澄ませば聞こえる喧噪、なにより、ほんの少しの隙間もなく生え染めている植物たち。
谷は常に全ての者と共生しようとしている。
ノラは、彼らが黒き翼を拒否したということに違和感を持っていたが、それは情報が間違っている。
谷の共生の本質は、受け入れることではなく、淘汰なのだ。
生き残っている者たちだけが、生きている。そして、生きていくことだけを認めている。
マツダは、さきほどから絶えずきょろきょろと辺りを見回していた。いつもは谷の縁までしか来なかったので、マツダが谷に足を踏み入れるのはおそらく今日が初めてのことだ。
ノラは、あのサーカスの日を思い出した。谷の縁でじっと待っていた獸の毛だらけになっていたマツダの姿を。
「ねえ、マツダはどうしてあのとき付いてこなかったの?」
「え? なに? なんの話です?」
聞き慣れない雑踏の音のせいで、マツダの声はいつもより上滑りして聞こえた。もしくは、それはマツダ自身の声音のせいかもしれない。
「サーカスの日。キィコさんと谷に行ったとき、どうしてちゃんと待っていたの?」
思えば、マツダはいつも、ノラとフィールスの行くところには着いて来ていた。ノラは最初、マツダがフィールスに着いて回っている時に、目を盗んでキィコの元へ通っていたのだ。
もし見つかれば、どこまでも着いてくるだろうと思ったからだ。結局あの日、見つかってしまったわけだけれど。
「お嬢が待ってろって言ったんじゃないですか」
マツダはその時のことを思い出したらしく、不服そうに答えた。
「でも、この前は待っててって言ったのに着いてきた」
ノラはあの犬の鳴き声のことを思い出して言った。
「それは――だってあのサーカスの日は」
マツダはまた反論をしようというような声を出したけれど、その語尾はしぼんでいった。
「笑ってたから」
そう言って、ばつが悪そうにマツダは視線を商店の方へ移した。硝子戸の前に、赤い実をいくつも紐でくくりつけたものが並んでいる。
「お前が笑ってたからだよ。あの時俺が追いかけなかったのは」
それからマツダはぶつぶつと文句を言うように続けた。
「あんな変な女だと思わなかった。そんなに遅くならないって言ってたし。まぁ、悪いやつじゃないのかなって思った。本当に、あんな変な女だとは思わなかった」
ノラはこんな時なのに笑いたくなった。ただただ懐かしい思いがする。
「キィコさん、そんなに変かな」
「変だろ! 声でかいし、大人なのに走って帰るし、傘差さないし」
「ずっと濡れてるから差さないんだって」
「最初に濡れる意味が分からん」
「うん。そうだね」
そう答えながら、ノラは突然キィコの言葉に激しい淋しさを感じた。彼女は一体いつから濡れていたのだろう。頬を拭っただけで、あんなに報われたような顔をして。もっと早くに会いに行けばよかった。そうすれば。もしかしたら――。
けれど、こんなことを考えるのは無意味だ。
キィコは恐らく、産まれたときから雨に濡れて生きている。そうして、初めて出会ったあの日以外に、ノラがキィコに出会えることはないのだ。生き物は生まれ直すことは出来ない。
自然と会話が途切れて、二人はしばらく歩いた。すると突然、遠くの方から何かが落下するような大きな音が響いた。
「なんだ?」
マツダの声を出す前に、ノラは走っていた。
今の音は、谷の塔から聞こえてきた。キィコのいる塔だ。
中央に近づくほどに、辺りが暗くなり、人気がなくなる。広場に続くはずの路地に入ると、ほとんど光がなくなってしまった。このあたりに無数にある路地は全て、塔のある広場に繋がっているのだ。
道は間違えていないはずだ。けれど、その路地に入った瞬間、分からなくなった。自分たちはいま、どこにいるのだろう。
この先に、塔があるはずの場所には、何もなかった。黒雲のせいではない。何かが空を塞いでいる。ノラは洞窟のようになった路地に光をかざして進んだ。
そしてその先に、翼が落ちているのを発見した。
路地のどんづまりに、二人の女性が羽を閉じて横たわっている。制服を見るに、地上の航空隊たちのようだ。
「おい、どうなってんだ?」
マツダはぞんざいにそのうちの一人の翼をつまみ、捲った。
べろりと羽が広がり、その根元に人肌が見える。全く変化はなく、マツダは乱暴にも思えるやり方で翼を手放した。ばさりと音を立て翼は落下したが、彼女たちは目を開けなかった。
ただ深く呼吸をしている。倒れているのではなく、眠っているのだ。なぜこんな所で。
それに、この路地を覆う壁はなんだろう。広場を塞ぐなどという報告をノラはウケていない。壁に手を伸ばすと、ざらざらとして、少し湿っているようだった。触れた瞬間、どうして見た瞬間に気付かなかったのだろうと思う。
「木だ」
植物の根のようなものが幾重にも重なり、壁と天井になって路地を塞いでいるのだ。しかし、これはいつ出来たのだろう。こんな報告はなかった。
黒き翼の占拠する建物の周りには、治安維持のために地上からかなりの人員を送ったと聞いていた。警備する必要などない位に何も起こっていないというのが最後の報告だった。それが今日の朝のことだ。
ノラは、地面に横たわっている二人をもう一度見下ろした。彼女たちは赤子のようにやわやわとした表情で眠っている。その顔の横に、薄桃色のラッパのような花が落ちているのが見えた。
「魔法じゃない」
ノラはそう言ってから、いつだかフィールスがノラに向かって同じことを呟いていたことを思い出した。そして、どうしてひと目見ただけでこんなにも分ってしまうのだろうと不思議に思った。
「特異だ」
目の前の壁は、暗がりの中でほんの微かに発光しているように見えた。何かを反射しているのではない。水滴のようなこの光を、ノラは見たことがある。
あの、箱庭の中で。
「マツダ、下がって」
「は? え、下がるって。お前、なに」
「向こうに行かなきゃ」
気が急いてノラはマツダが完全に下がり切る前に火球を放った。木の壁は少し燃えただけだった。すぐに、もっと大きな火球を放った。壁が丸く燃え、炭になった根が落ちるのを目の端で感じながら、ノラは向こう側へ飛び込んだ。
「ばっか、お前、うわあ!」
マツダの悲鳴じみた声が聞こえ、背後から恐ろしい早さで木が伸びる音が聞こえた。
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