第44話 春売り子たちの旅

 後ろで何かがどさりと落ちる音がした。どうやらマツダが倒れたらしい。けれど、その音は柔らかい。ノラの足もふわふわと浮いているようだった。

 広場が緑で埋まっているのだ。

 足下を見ても地面は見えず、植物の葉や、蔦や、枝茎が重なり合って、まるで海だ。箱の中で見た海と同じように、風に吹かれて緑が波打っている。

 ノラが呆然とその姿を眺めていると、後方からではなく、前方から声が飛んできた。

「あっ! どうしよう! 誰かきちゃったっすよ! てんちょー! 爆弾なげます? なげます?」

「ちょっと、静かに!」

 それはノラの知っている声で、見回すと少し遠くにその姿を発見した。

「ニーナさん! オルガさん!」

 と、ノラは思わず声を上げた。

 広場の中央、もはや大木になってしまっている、塔と呼ばれる建物の前に、人間が三人立っている。キィコの店の従業員のニーナとオルガ。

 そしてもう一人。

 二人からは少し離れて立っている人物が、酷く気怠そうに振り返った。

「――ナカザトさん」

 やはり、という気持ちでノラが声を上げると、後ろでマツダが立ち上がる気配がする。

「あ? ナカザト?」

 前方では、ぴょんぴょんとニーナが飛び上がりながら声を上げている。

「あれ、ノラちゃんじゃないっすか? いや違うか? あっ、いや、やっぱノラちゃんすよ!」

 そう言うと、ニーナは走りだした。太い木の根を器用に飛び回ってこちらへ向かってくる。ノラもそちらへ向かおうと足を動かしたが、小さな枝と蔦の集まりに、沈んでいくだけだった。

「ちょっと待っててっす!」

 太い木の根が途切れたところでニーナはノラに呼びかけ、後ろを振り返った。

「店長!」

 ニーナの声と共に、ノラの体がぐっと空に上がった。木の根が伸びて、足を押し上げている。今まで聞いたことのない、植物の生長する音が体の中に響く。重たい水が勢いよく流れていくような音だ。

 ノラを乗せたまま、根の先がニーナが立っている木の幹に絡みついた。その瞬間、ぼこぼこしていた根が道のように平べったくなる。

 ニーナが目一杯ノラに手を伸ばすので、ノラも手を伸ばした。指先が触れたかと思うと、ぐっと大きく引っ張りあげられる。

「あはは、軽い!」

 ニーナは笑って、抱きかかえたノラを自分のいる根の上に下した。そこもまた平らになっていて、よく見ると、緑の中に根の道が無数に出来上がっているのが分る。

「あの、ニーナさん」

 ノラの心は驚きと焦りでない交ぜになっていて、それ以上声が続かなかった。まず何を確認するべきなのだろう。

 すると、ふとニーナの持っている薄桃色の花が目に入った。

 ニーナがそれに気付いて、手を持ち上げる。

「あ、これっすか? これは睡眠爆弾」

「睡眠爆弾?」

 ニーナはポケットをまさぐり、小さな鉄の塊のような物を取り出して見せた。

「これを、花に変えると」

 小さな爆発音が響き、ニーナの手の内に煙が上がった。

「これになるんすよ」

 煙が晴れてニーナが手の内には目一杯の茎が握られていた。すべて薄桃色のラッパ型の花を付けている。ニーナはへらへらと笑ってみせた。

「よく分らないんすけど、翼持ちの人はこれで眠っちゃうんだって」

「ちょっと、ニーナ」

 やっと息を切らして到着したオルガが声を上げた。ニーナがぱっとそちらに目を向ける。

「おお。オルガさん相変わらず足が遅い」

「うるさいな。っていうか、そんなに無駄遣いしたら怒られるよ」

「あ、そっか。ん?」

 と、ニーナがノラの方を振り返る。

「誰すかそのイケメン。ノラちゃんのおにーちゃん?」

「え?」

 ノラは振り返った。

 マツダがすぐ後ろにいて、体中に付いた葉を不機嫌そうな顔で払いながら、恨みがましい目でノラを見ている。

「お嬢、お前、最近ちょいちょい俺のこと忘れてくれやがりますよね」

「ご、ごめん」

 本当のことなので謝る以外なかった。するとニーナが、マツダの顔をものすごい勢いで覗き込み始めた。

「え、えっ、おにーさん地上の人? 結婚してないなら私と結婚しません?」

「は? 誰だよ」

「ニーナ!」

 オルガが咎めるように名前を呼んだ時、ノラの足元がまた大きく揺れた。揺れたというよりは、波打ったと言う方が正しい。

 そして、先ほどと同じように、足元の根がむくむくと動いて、今度はノラの胴に絡んだ。

 そのまま、もの凄い勢いで前へ前へと連れて行かれる。マツダの驚きの声は一瞬で遠ざかった。

 大木になってしまった塔の前で、ノラは下ろされた。煙が見える。

「差し入れでも持って来たのか?」

 ナカザトは煙草を口から離した。ノラの体に巻き付いていた柔らかい根たちが、緑の海の中へ帰って行く。

 ああ、特異だ、とノラは思った。

 魔法とは違う。

「あなただったんですか?」

 気が急いて、ノラは声を上げた。すると、ナカザトはただ顔をしかめてみせた。

「ぼくに、何かを気付かせたのは――」

 言葉を詰まらせながら、ノラはあの時のことを思い出していた。あの日、目を覚ましたときのこと。

 覚醒した瞬間、頭が冴えわたっていて、何もかもに疑問を抱くようになっていた。全ての物が彩度を上げたように見えた。

 今思えばそれは確かに、誰かの手によって気付かされたという感覚が一番近かった。フィールスはそれを特異だと言った。そんなことを出来る人間は、ノラの近くにそういない。

「俺じゃねえよ」

 ナカザトは少しの愛敬もなく答えて、煙草を投げ捨てた。

 煙草が飛んで行った葉の中から、小さく火の燃えるような音がする。けれど、すぐに緑がいくつも被さって葉の揺れる音しか聞こえなくなった。

 背後から、マツダたちが走って来る音がする。ナカザトは一瞬そちらを見てから、またノラを見下ろした。

「で、何しに来たんだ。魔法使いサマは」

 やはり知っているのだ。やはり、と言ってそんなことがどうしてあり得るのかノラには分らない。

 魔法使いがどこにいるのか、誰なのか、それを知っているのは地上の塔に関わりのある極少数の人間に限られているはずで、その人間をノラは全て把握しているはずだ。

 もちろん、その名前の中に彼はいない。

「あの」

 ノラがそう口にしたところで、急に何かが爆発するような音がした。頭上を影が覆う。

「お嬢!」

 後ろからマツダの叫ぶ声がする。ノラはそちらを振り返ろうとしたけれど、その前に体が引っ張られて叶わなかった。

 頭上の影が濃くなり、すぐ横で大きく葉の潰れる音がした。

 何か大きなものが落ちて来たのだ。

「あの馬鹿」

 ナカザトがすぐ側で言う。前の前の服から煙草の匂いがした。どこか懐かしいような、遠い匂いだ

 ふと横を見ると、先ほどまでノラがいた場所には、巨大なプロペラのようなものが落ちている。もうその端の方には蔦が絡まり始めていた。

「おい、ちょっと!」

 と、マツダの声がすぐ後ろでしたかと思うと、ナカザトはノラの体を乱雑に押しのけた。

 ぼすり、とよく知っている匂いの元にノラの体がぶつかる。

「うわ、おいノラ大丈夫か?」

「え? ああ。うん」

 口からぼんやりした声が出た。上空を見上げるナカザトのことが気になって、ノラは急いで同じ方向を見上げた。

 かつて広場の中央に聳え建っていた建物は、もう思い出せそうになかった。何の変哲もない建物だったように思うが、最早目の前にあるものには建物であった時の面影が一切ない。

 太い蔦が幾重にも重なって、木の幹のように見えている。幹の天辺には、緑が生い茂っていて、そのさらに上から、ピカピカとした光線が走っている。

 葉の間から眺めると、屋上のあたりに灰色の機械が見えた。四角い箱の中にいくつも光源があって、そこから四方に様々な色の光を飛ばしているらしい。

「あれは、なんですか?」

 ノラの声に、ナカザトが吐き捨てる。

「知らね。つうか、あいつの考えることなんか知りたくもねえ」

「あいつ――キィコさんがやったのですか? あれも?」

 ノラは地上に落ちているプロペラをもう一度見た。背後でがさがさと足音がして、ニーナがオルガの手を引っ張りながらやって来る。

「大丈夫っすか? またなんかすごいもん落ちてきましたけど」

 ニーナたちもまた、そのプロペラを眺めている。

 よく見ると、他にも広場を埋める葉の海に、さまざまな物が埋まっている。自転車の車輪のようなもの、ピンク色の平べったい滑り台、いくつもの光る石、鉄の棒。どれも我楽多ばかりだ。

 これも空から降って来たのだろうか。

「キィコさんは、どうなっているんですか?」

 オルガが首を振った。

「分からないの。けれど、この上にいることは確か」

 上空に茂る葉の近くを、羽を広げた動物たちが飛び回っているのが見える。谷の縁でノラたちを襲って来た生き物と同じものだ。

「つうか、あんたたちここで何してるんだよ」と、突然マツダが非難の色を隠さない声音で言った。「立ち入り禁止のはずだろ」

 そのナカザトが眉を潜めるのが分った。

「そりゃこっちの台詞だ。てめぇらこそ何しに来た」

「は? なんであんたにそんな事言わなきゃいけないんだよ、つうかあんた誰な、いっ!」

 と短い鳴き声のようなものを出して、マツダが身を竦ませる。ナカザトがマツダの腿を蹴り上げたらしい。

「お前にゃ聞いてねえ。燃やすぞ」

「は? なに? 暴力?」

 マツダがまた声を上げると、ナカザトの手から火が上がった。

 やはり、ノラにはそれがどういう原理で燃えているのか少しも分からない。特異の能力は、魔法使いの目で読み解けるような原理がないのだ。

 自然な現象として、不自然が起きている。

「ここは俺たちの土地だ」

 ナカザトは強い口調で言い、足元に転がっていた石を拾い上げた。

「ついでに言や、あの阿呆はうちの従業員だ」

 石に火が移って燃え上がる。その炎は橙と薄い青色をしていて、ノラが今まで見たどんなものよりも美しく、まるで生きもののように躍動し、燃えていた。

「俺は上司として、こいつらは後輩として、あいつをぶっ飛ばす権利があんだよ」

 ぶっ飛ばしはしませんが、とすぐ後ろでニーナが言う。

 ナカザトは、まっすぐノラの目を見て言った。

「そんであんたは? どこの誰で、ここに何しに来たんだ?」

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