後幕 僕の塔

四幕 空中の蛇と血脈の檻

第23話 花咲く議場の彼の人や

 ノラは廊下のガラス窓から地上を見下ろしながら、叔父のことを考えていた。あの時、彼が内緒だと言って自分たちを外に連れ出さなければ、こんなことにはならなかったのだろうかと、不意に思ったのだ。

 こんなこと。

 塔の上から見る景色はいつでも代わり映えのないものだった。雲が浮いているか、靄がかかっているか。どちらにしても一様に白っぽいのが常だ。それが今では、暗く沈んでいる。少し遠くを見ると、真っ黒な渦が生き物のように蠢いている。空の上で黒い蛇がとぐろを巻いているように見える。その中央がどうなっているのか、ノラのいる塔の上からでは良く分からない。ただちらちらと、黒い物体が飛び回っているのが辛うじて見えている。

 もう一度あそこへ行く。行かねばならない。

「あれは、外の生き物ですかね」

 魔法使いたちは何かを決めるための会議を開いたことがなく、議場であっても庭園でのお茶会と同じ速度、同じ温度でゆったりと話した。楕円の大きなテーブルを囲んで悠々と語らい、結局のところ、彼らはただ、ある時間を待っているだけなのだ。

「どうでしょうか。外にあんな生き物がいるのですか」

「調査隊はみな外に出払っておりますから、今は分からないですな。あなた、どうです?」

「図鑑や図書なんかには載ってないですね。ただ特徴が似ている動物はいくつもあるようですよ。私はいつだか隊長殿に意見を聞いたことがありますけれども、外の生き物はよほど逞しく成長しているということですからね、それぞれの特徴が合わさるということもありそうですが」

「それで中に入って来たのかしら。成長して今までと違うことが出来るようになったから……だって祓いの者たちはちゃんと仕事をしていたわけでしょう?」

「果ての方でもいつもと変わったところはなかったということですよ」

「しかし、谷ばかりに攻め入っているのは少し妙な気もしますがねえ」

 あれは攻めているのではなく、守っているのだ。

 ノラは強くそう思ったけれど、口にはしなかった。何か確証があるわけでもない。けれど、あの一等大きな獣だけは、どう見てもキィコのことを守っていた。

「ところであれは特異のようなものですかね。火を吐いたりするのは」

「そればかりは見てみないことには分かりませんな」

 こんな風に、老導師たちはことさら動物たちについて話たがった。新しい話の種が出来て嬉しいのだろう。

 しばらく彼らは、好奇心に駆られた会話を繰り返し、ゆったりとした笑い声で議場にぽつぽつと花を咲かせた。

 彼らの咲かせた花はいつまでも消えずに、空気を淡い色に染める。それでもなんとか会議の体裁は保って、やっとのことで彼らは一つの決定を下したようだった。

 谷に攻め入っている動物たちは排除。しかし、出来れば生け捕りに。

「黒き翼はどうしますか」

 その声に突然、議場から淡い色が消え、空気が灰色に戻った。

 結局、彼らはこの時を待って、それまで言葉を浪費していただけなのだ。

 長老が、皺の寄った手を上げた。

「彼らは黒き翼を討伐されたいとのことです」

 魔法使いたちは誰も顔色を変えなかった。何も思っていないのだ。

「そうですか」

 質問をしたフィールスは、そうゆったりと答えた。ノラはその兄の姿を盗み見た。彼は肘掛けに片肘を立てて、いつものように、微かに笑っているような表情をしている。

「そういうことでしたら」

 フィールスは言って、そっと議場の上の方を眺めた。誰もが見慣れている肖像画。長い髪を美しく束ね、自信に満ちた表情で魔法使いたちを見下ろしている彼の人。

 彼女がまだ生きていれば、一体何を思っただろう。

「では討伐には」

 フィールスが話を先に進め始めたのに気がついて、ノラは急いで手を上げた。

「ぼくが!」

 声を出したら、なぜかじくじくと心臓が痛んだ。けれど魔法使いたちは、やはりゆったりと、ただ時間が流れていくのを見守っているだけだった。

「討伐はぼくがやります。黒き翼には一度接触しているので特徴は分かっています。一見して凶暴性は感じられませんでしたが、万が一兄に何かがあっては大きな損失です。ぼくに行かせて下さい」

 ノラが一気に言うと、魔法使いたちはやっとそれぞれの時間を動かし始めた。満足そうに微笑む者も、そっと長老の顔を伺う者も、またなぜかフィールスに対して懐疑的な目を向ける者もいた。

 けれど、ほとんどの人間は、事の成り行きに納得しているということを表すために、何度か頷いただけだった。

「君はどう思うのかね、フィールス」

 長老が長い髭の中で口を動かした。

 フィールスは頬杖を外して、そうですね、とここにいる誰よりもゆったりとした口調で答えた。

「彼女の意見を尊重しましょう」

 そして、ふっと笑うと、また頬杖をついて、楽しそうに付け足した。

「いずれ、ぼくには無理なことですよ」

 その言葉に、示し合わしたように、魔法使いたちはどっと笑った。それは否定の意味を込めた表現だ。

「ご冗談を言ってはいけませんよ、直系であらせられる貴方が」

 こうなってしまえば、もう灰色の空気はすっかり消え、また議場には会話の花が咲くばかりだ。

 その花の色は薄く、それでいて眩いほどに煌めいている。

 彼らは自らの存在が、過去の栄光の証拠だと思っていて、その柔らかい幸福が壊れる想像などしていない。だからどんな時でも、安堵による余裕と共にある。

 世界を救った大魔法使いの末裔であること。

 それが彼らの生きている意味であり、存在理由だ。

 しかし、それはノラにしても同じことだった。

 あの日、叔父に地上へ連れて行ってもらうまでは、ノラも確かにその安堵と共にあった。

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