第24話 空中庭園
「フィーさま。おい、フィー。フィールス!」
会議が終わっても魔法使いたちは楽しく談笑を続けていた。
もう少しも用はないが、ノラの一族は最後まで議場にいなくてはいけない決まりだった。そういう時、フィールスはいつも眠ってしまうのだ。
フィールスの眠りには落差がほとんどなく、柔らかい雨が空から落ちるのと同じくらい静かに、溶けるように眠りの世界へ入る。
そして、こうやって頬杖をついて、目を瞑っている姿こそ、兄の本来の姿なのではないだろうかとノラは思う。
長い睫毛の影を頬に落とし、浅い呼吸を繰り返し、やはり微かに笑っているような顔をしているのだ。
「起きろって、フィールス。フィー。フィーさま!」
いくらマツダが揺すっても、フィールスを目を開かなかった。
「ちょっとお嬢。起こしてやって下さいよ。ここじゃ体に悪い。俺じゃ無理だ」
「うん」
けれどフィールスは、マツダの呼びかけであれば、五回に一回は起きるのだ。家族以外だと他の誰が起こしても起きないのだから、二人の間にはそれなりの信頼があるのだろう。
二人きりの場合、彼らは一体どんな会話をするのだろう。
ノラはそれを知りたいような気もするし、知りたくないような気もした。そっと椅子に近づくと、微かに甘い匂いがする。どういう訳だか、眠っている時のフィールスからはいつもこの匂いがするのだ。
それは腐敗の匂いだろうと言って、フィールスは笑った。
魔法使いの腐っていく匂いは甘いのだと。
「にいさま、もう起きないと」
ノラがそっと耳元で語りかけると、すぐそばで瞳の開く音がする。
「ああ」
と言って、フィールスは、瞳をゆっくりノラの方へ向けた。
「夢を見ていたよ」
しかし、フィールスはほとんどいつも夢を見ている。
「部屋に戻りますか?」
マツダが問いかけると、フィールスはただ微笑んだだけで何も言わなかった。どういう意味なのか測り兼ねたらしいマツダは何も言わず、小さく嘆息した。
ただそっと椅子の背に手を掛けている。
それでしばらくして、フィールスが立ち上がろうとすると、そっと椅子を引いた。こういう従者の所作は、もうごく自然に出来ているのに、どうして喋る時になるとあんなにちぐはぐになるのかがノラには分からない。
「ノラ」
呼びかけられて顔を上げると、いつの間にかフィールスはノラの正面に立っていた。
兄妹と言っても、今ではそれほど関わりがないので、まじまじとその顔を見るのは、奇妙な感じがした。まるで肖像画の中の人物が呼吸をしているようだ。
それは、フィールスがいつも緩く笑っているせいでもあるのかもしれない。大魔法使いも、いつ見ても額縁の中で微笑んでいる。
「少し話をしよう」
そう言って、フィールスはノラたちを彼の庭園へ連れ出した。
空中庭園。
多くの魔法使いはそこをそう呼んでいた。魔法使いたちの住む塔の最上階の一つ下にあるらしい。それも本当かどうかノラは知らない。
庭園まで上がるための昇降機はフィールスに許された人間しか使えず、そこには階数が書いていない。乗ってみても、上っているのか降りているのか判然としないのだ。浮遊しているという感覚だけがある。
その数人を運ぶだけの小さな箱は、ノラにあの谷のことを思い出させた。
けれどそれは間違いだ。さかさまになっている。あの谷に降りる油臭い昇降機を初めてみた時、ノラはこの庭園のことを思い出したのだから。本当はこちらの方が先なのだ。
ちちちち、と鳥の鳴く声と共に、緑色の光が飛び込んでくる。この庭園はフィールスの好きなようにしてあるので、大抵初夏のままだった。
踏みしめた先の草木は柔らかく、ほとんど何の感覚もしない。地上の草は、歩くたびに足の裏を押し上げてきて、体がぐらぐら揺れるほどだったのに。
「おえ、」
飛んできた声に振り返ると、マツダの頭の上に、赤と緑の羽を蓄えた大きな鳥が乗っていた。フィールスは鳥と蛇をとても愛しているので、庭園にはそれらが沢山いるのだ。
「さあ、座ろう」
フィールスはアーチ状の小さな休憩所を示した。
中には揺籠のような作りの立派な椅子が一脚と、簡素な作りの小さな椅子が一脚あるだけだ。
「俺はここで良いですよ」
マツダが入り口で立ち止まるので、ノラは小さな椅子に座った。
「君に見せたいものがあるんだ」
フィールスが揺籠の椅子に座ると、目の前に大きな球体が現れた。
透明な硝子の球体のように見えるが、それが実際に何で出来るているのかは分からない。ノラは大抵の魔法使いが使う魔法の仕組みは分かるが、フィールスの使うものは理解出来なかった。
隠されている、ということは魔法の本質なのだ。強力な魔法は、それだけ強力に隠れている。
「覗いてご覧」
促されて、ノラは上から球体を覗き込んだ。緑がちらちらと揺れる。
球体の中は、底の方が平らになっていて、その上には草が生えていた。随分遠くからの景色だった。空の上から地上を見ると、ちょうどこんな風に見えるのかもしれない。
何かが動いている。
「んん、象か?」
入口の方からそれを覗き込んでいたマツダが呟いた。
「象?」
ノラが言うと、マツダは自分が思わず声を上げたことを少し恥じているようだった。
「あー、そう。耳が大きいのと、鼻が長いのが特徴」
象、というのは、サーカスでは見られなかった動物だ。
マツダなどは無駄に学位を持っているけれど、動物学に詳しい魔法使いは少ない。興味はあるけれど、知識がないのだ。
改めて他の場所にも目を向けてみると、球体の中では、沢山の動物が生きているらしかった。言葉で学んだ時には多少は理解できていたような気もしたけれど、目の前に生き物として現れると、やはり何がなんだか分からない。
「あれはなに?」
ノラが聞くと、マツダは首を伸ばしてその中を覗いた。
「どれ」
「あの、色がまちまちの、首が長い」
「ああ、キリンか。高い所の葉っぱ食うから首が長いんだ」
「手前の小さいのは? 木陰に沢山いる」
「んー、サーバル――いや、ハイエナかな」
「何をしているの?」
「休んでんじゃねえか? まだ昼間みたいだし」
「昼間に休むの? 夜行性?」
「良く知ってんな。お前、動物学嫌いじゃなかった?」
「少し勉強し直したの」
それは、彼女に動物のいる所に連れていって欲しいと言われたからだった。勿論、ノラがそれを勉強したところで、どうにもならないということは分かっていた。
自分に翼が生えて彼女を動物のいるところへ連れて行くことも、彼女が魔法を使えるようになって、自分を動物のいるところへ、連れて行くことも、あり得ないことだとちゃんと理解していたのに。
すると、急に半球の中が暗くなった。
どんよりとした灰色の膜ができて、何も見えなくなる。ノラが顔を上げると、フィールスはいつもより少し楽しげな口調で言った。
「雨が続くと死ぬ動物がいるんだよ」
何を言うのだろう、とノラは思った。
死ぬ動物がいるのは、当たり前のことだ。生きているのだから、何か特定の条件下で死ぬ動物だっているだろう。そう理解しているのに、フィールスのその言葉は、とてつもなく恐ろしいものに聞こえた。
「あれは君の友人なのかい?」
フィールスはいつも通りの甘く柔らかい声で言ったが、ノラの体はぴたりと固まって、動かなくなってしまった。
兄の目が、蛇のように冷たく固まってみたのだ。
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