第25話 死ぬ動物は死ぬ動物
ノラは、なんとか気を紛らわせようと、その言葉を繰り返した。
「ゆうじん」
しかし、それはどうやら逆効果だったようだ。ゆうじん。ゆうじん。喉を通って外に出たはずの言葉が、ずっと胸に留まっている。
フィールスは、椅子をゆらゆらと揺らしながら、柔らかい表情でノラを見た。
「黒き翼は君の友人なのだね」
思わず、ノラはマツダを振り返った。
ノラが度々地上に降りていたことを知っているのはマツダだけだ。しかしマツダは、少し焦った様子で、蛇の絡まった腕を大きく振った。
「俺は言ってないぞ!」
すると、フィールスがとても面白そうに笑った。
「確かに、マツダの口は何も言っていないね」
「口はってなんだよ、口はって」と、マツダが顔を歪める。
「そのままの意味さ。お前はいつも、僕には何も話してくれないからね」
「だったら何で知ってんですか」
「この前読んだ本に妙なことが書いてあってね」
と、フィールスは楽しげに椅子を揺らして言った。
「昔の生き物たちは、臓器にも記憶があると思っていたらしいよ」
「はぁ?」
とマツダが声を上げる。それは不理解を端的に表す、彼の得意な言葉だ。フィールスは、それで一層嬉しそうな顔をした。
「そういう説があった、というだけの話だよ。皆が皆信じていたという訳ではない。マツダは生理学は不得手だったかな?」
「そりゃフィールス様に比べれば、誰だって何もかも不得手でしょうよ」
「そんなこともないだろうけれどね」
とフィールスは肩を竦めた。
「もちろん、お前の顔の語る通り、生理学的にはそれは間違いだ。記憶というものの在り処は脳髄ということになっているからね。この脳というのも色々と面白いのだけれど――ともかく、臓器に記憶は宿らないというのが人間の決定だよ。けれど、きっとそれだけで説明するのが嫌な連中がいたのだね」
「嫌だなんて」
マツダが吐き捨てる。
「そんな感情で現実をどうこうできないでしょう。そういう奴らは、すぐに願望と希望を取り違える。間違いですよそれは。ただの逃避だ」
その言葉に、なぜかノラは酷く非難されたような気持ちになった。
けれど、マツダの言っていることはもっともだ。事実を事実としてありのまま受け取らなければ、どこかで必ず事実から仕返しがくる。なぜってそれは夢を見ているようなものだから。
目が覚めれば必ず現実が始まる。
そして、生理的にも比喩的にも、夢を見続けるということは不可能だ。
「相変わらずお前はロマンチストだね」
フィールスが言うと、マツダはごく自然に大きく顔をしかめた。
「ロマンチスト? 俺が?」
「間違いなくマツダはロマンチストだよ。何か一つのことを信じたいというのだからね。それは正しい答えがあると思っているということだろう――ところが、僕はこうして、君たちが黒き翼と会っていたことを知っている。」
「何の話だよ。意味がわからん」
マツダは嘆息して、小鳥に啄まれているのが気になるのか、軽く頭を振った。
「フィーの話はいつも要領を得ない」
「僕はマツダの瞳の記憶を見せてもらったんだよ。お前は一度寝たらなかなか起きないからね」
フィールスはそう言うと、手のひらをそっと動かした。空中に映像が浮かび上がる。
そこにはノラと、そしてキィコが映っていた。
「あ、」
という、ノラの声に、フィールスは微笑んで見せた。
「よく映っているだろう? マツダの眼球の記憶だよ。水分量と本来の質の問題なのかな。指先や髪の毛や、色んなものを見てみたけれど、眼球が一番よく映った」
詳らかにすることは出来ないが、なんとなくであればノラにもフィールスが使った魔法は理解出来た。
フィールスは時間を動かすことが出来るので、マツダが寝ているうちに、その眼球の時間をずらしたのだろう。
それで眼球の記憶を辿った。
眼球の記憶、というのはノラにはすっきりとしない考えだった。恐らく、情報を受けた時の瞳の揺れや収縮や、そういう反応のことを記憶と言い換えているのだろう。
記憶の在り処が脳だとしても、それは脳が情報を統合しているというだけで、実際に物事を知覚しているのは他の器官だ。
その知覚を再構成する魔法でも使ったのだろう。
魔法で脳を作れば良いだけで、それだけならばノラにも出来そうだった。ただ、やろうとすれば恐ろしいほどの時間が掛かるだろう。それに、やはりノラには時間を動かす魔法はどうやっても使えそうにない。
フィールスはこんな風に、ずっと新しい魔法の使い方を考えている。
彼の強大な魔力は内からその体を壊すほどで、使わずにいられるのならばそれが一番良いのだ。それなのにフィールスは、ある時からやたらに魔法の実験をするようになった。
「君は友達を自分の手で倒そうというのかい?」
突然フィールスが言った時、ノラはまだ空中に映っているキィコの顔を見ていた。
しかし、こんなものを見ないでも、ノラはキィコの顔だけははっきりと覚えているのだ。取り分け、その笑顔を。
「違います」
しかしノラはそう答えた。
「彼女は、友人ではありません」
はっきりとそう答えると、体の内の暗い部分がすっと抜けたように感じた。体のどこかで何かが落ちて、すっかりいなくなってしまった。
今となっては、それがどんなものだったのか思い出せない。
彼女には翼が生えたのだ。しかも黒い翼が。
「安心したよ」
そう言って、フィールスは意識的に笑って見せた。けれどノラには、フィールスの笑みの理由は、どのようなものであっても判じがたいのだ。もう長いこと親しく話をしてこなかったから、分からなくなってしまった。
「もっとも、友人であっても何も心配することはない」
ノラが黙っていると、フィールスはそう付け足して、目の前の球体を指し示した。
「見てご覧」
灰色に淀んでいた球体は、今では強い日差しが濡れた土や草を乾かし始めていた。しかし緑は見えない。背の低い草木は泥に侵されて汚れてしまい、倒れている木々がいくつもあった。そして、先ほどまでは見られなかった泥水の濁流が見えた。
その悍ましい急流の傍で、無数の動物たちが横たわっている。
「僕が雨を降らせたので彼らは死んだ」
フィールスのその声には、柔らかさしかなかった。愛情に満ちた、優しく、温かい口調で彼は続けた。
「けれど、それは決して僕のせいではない。彼らがそういう生き物だから死んだのだ。彼らが死んだことに理由があるとすれば、それは僕の降らせた雨だけではなく、もっと沢山のことを羅列しなければならない。そこには僕らの知り得るものも、知り得ないもある。だから、僕らの知り得る理由だけで何かを心配するのはとても滑稽なことだよ」
横たわった無数の動物の中に、まだ動いているものがいる。
それは死んだ仲間の近くを歩き回っていた。
瞬間的に見たのにもかかわらず、ノラにはその小さな生き物がもうずっと長い間、死の周りをうろついたあとだということが分かった。永久とも思える間、一つ一つの死骸を確認してきたのだということだ。
それでもフィールスは、どこまでも柔らかい口調で言うのだった。
「だいたい、僕らは雨を降らせるためだけに生まれたのだからね」
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