第22話 翼

 魔法使いになるのだ、とキィコは思った。

 谷の縁に座ると、下から風が吹いてきて、轟々とバケモノ染みた音を上げて去っていった。キィコは、黒雲がいつまでも谷の上から動こうとしないで留まっていることを少し面白く感じた。また、雨季に入ったのに雨が降っていないということも。

 それからもう一度魔法リストを開いて、空白だった二枚目に書いた見慣れた自分の文字に目を落とした。字の大きさの調整が取れていないからこんなに汚く見えるのだろうか。一つ一つの文字は、それほど悪いとは思えない。

 リ ュシー を生き 返 らせる。

 バランスが悪いから、だから字の持つ音がばらばらで、こんなにも上手く頭に入らないのだ。

「翼が生えても」

 リュシーは、確かにそう言った。

 何度唱えてみてもよく意味が分からない。もうずっと意味や理由を考えないで生きてきたから、最早どのようなことの意味も、理由も、キィコには理解できないのかもしれない。

 けれど、それで良い。何も考える必要なんてない。たとえばリュシーが、ほんの少しでもキィコに翼が生えるかもしれないと思っていたことも、心底どうでも良いことだ。こんなに何度も唱える必要はない。

 ナカザトの特異がどういう類のものか、そして何者なのか。リュシーが塔の上に住む人の為に今まで何をしてきたか。谷の住人がどのようにして今まで生きてきたのか。

 何もかも知る必要はなかったし、考える必要もない。

 魔法使いになってしまえば全て済むことなのだから。

 遠雷が聞こえて顔を上げると、谷の上に黒い影が見えた。またぞろどこかの誰かに翼でも生えたのだろうか。あんなに何人も。

 もし翼が生えても、とリュシーは言った。

 そんなことはあり得ない。だってキィコの母親は魔法使いだったのだから。だからわたしは――。

「わわ」

 その時、突然キィコの目の前に大きな黒いものが覆いかぶさった。すぐには何が起きのか理解できなかった。風が完全に通り過ぎてしまってから、頭の中に残っている映像が再生される。

 黒い影がもの凄い速さでキィコの横を通り過ぎて行ったのだ。

 黄色い楕円の目が光っていた。何か黒い、黒いものだ。ともかく黒かった。そうして、翼のようなものが、と思ったとき、また同じようなものが二体、ものすごい速度でキィコの横を通り過ぎた。

 急いで振り返って見る。

 しかし、まずキィコの目に入ったのは小さな人影だった。それは良く知った姿形をしている。黒いワンピース。

「ノラちゃん!」

 そうキィコが叫ぶのと、黒い影が急降下するのはほぼ同時だった。ノラが顔を上げる。おぞましい悲鳴が上がった。次の瞬間、三つの黒い塊はぼとぼとと落ちて、燃えた。

 一緒になって、地面の草木も燃える。

 その炎を眺めていたノラが、はっとした顔でこちらを見た。

 キィコは、急いで踏み出した足と、恐ろしい悲鳴で咄嗟に耳元へやった手をしばらく動かせないでそのままにしていた。体のうちのどの器官も動くことを拒否している。ただ茫然として、目だけが前を向いて全てを映している。

 少しの間、ノラもまた同じようにしてキィコを見ていた。

「お嬢!」

 ノラの後ろからマツダがやってくる。すると、またキィコの横を突風が吹いて、黒い塊が一直線にノラたちのいる方へ向かっていった。

 ノラは、一瞬微かに微かに俯いてから、唇を強く噛み、顔を上げた。そして手の平を黒い影に向けながら、腕を下から上へ振り上げた。

 炎が、ノラの腕の動きと同じように燃え上がって、黒い影に傷を付けた。黒い影はみるみる炎になり、落ちてまた草木を燃やした。追って来たもう三体を同じようにすっかり燃やしてしまうと、ノラはぱっとマツダを振り返った。

「導師たちに知らせた方が良い。なにか可笑しい」

「わかった」

 マツダは素早くどこかへ走り去っていった。

 その時、キィコの背後から妙な音が聞こえてきた。ごろごろと聞いたことのない湿った音だ。生温かい呼吸のようなものが腕に掛かって、キィコは、ゆっくりと後ろを振り返った。

 獣がいる。

 その大きな獣は、動物図鑑で見たことのあるほとんど全ての動物に似ていて、そのうちのどれでもなかった。

 四足で土を握るようにして立っている。垂れ下がった耳と、少し長い鼻。鬣はふわふわと揺れていて、牙がぎらりと光っている。その全ては真っ黒く、そうして、大きな大きな黒い翼が。

 獣はすんと鼻を鳴らして、べろりと赤い舌を出した。もわり、とまた生暖かい呼吸が腕に掛かって、キィコはまた少しも動けなくなった。

 ごろごろ、というそれは獣の喉の音だったのだ。

「あ、の」

 キィコが獣に話しかけた瞬間、ぱっと後ろから光が走った。その青白い光を避けて、獣がキィコの横からいなくなる。同時に、ぐいと腕を後ろに引っ張られて、キィコの周りに透明な膜が掛かった。透明だけれど、確かに膜が張っていることが分かる。それはサーカスで見た大きなシャボン玉に似ていた。

 ぼんやりと振り返ると、その膜の中にはノラも入っていた。すぐそばを獣がのそのそと歩き回っている。

「向こうからは見えません」と、ノラは説明した。「もうすぐマツダが戻って来るので、気を取られるでしょうから、その間に」

「ノラちゃん」

 話の途中でキィコが呼びかけると、ノラはびくりと体を震わせた。柘榴色の宝石が外に出ていて、黒いワンピースの上でころりと転がる。

「ねえ、これは――なに?」

 透明な膜の向こうで、獣は怒ったような声を上げている。

ノラはいつもの淡々とした声を吐こうとしたらしかった。

「どういう状況なのか、今はまだ」

「違う」とキィコはノラの言葉を遮った。「そうじゃないよ」

 この透明な膜は、そしてあの炎も、光も、明らかに特異ではない。何がとはっきりと言葉には出来ないけれど、それこそ理由など必要もないくらいに、キィコが今まで目にしてきた特異とは性質が違う。自分の中にある能力を使ったのではない。自分の外にある何かを操ったのだ。

 どうしてこんなにもはっきり分かってしまうのだろう。

 ノラが今なにをしたのか。

「まほう?」

 キィコが呟くと、ノラはぱっと顔を上げた。

「ごめんなさい! ぼく」

 キィコの目を見て、ノラはまたぱたりと下を向いた。

「黙ってて」

 魔法なのだ。

 ノラは魔法を使った。

 この小さな手で。

「――キィコさん?」

 気が付くと、キィコはその手を掴んでいた。

 同じ手だ。

 自分の手と、なにも変わらない。腕も足も頭も、全部キィコに付いているのと同じ作りだ。ただ細く、小さいだけで。全て同じ。

 ノラはもぞりと身を動かし、悲痛な声を出した。

「ごめんなさ」

「いいよ!」

 キィコはノラの言葉を遮って、その両肩を手で掴んだ。ノラの瞳は濡れていて、てらてらと光っているように見える。まるで泣く前の顔みたいだ。どうしてそんな顔をしているのだろう、などと考えている暇はなかった。

「大丈夫! 黙ってたことなんて、なんでもない。そんなのはどうでもいいことだよ!」

 勢いよくキィコが言うと、ノラは小さく「どうでも」と言葉を繰り返した。

「うん。全然! 何も気にしなくていいんだよ。だって、ね? ノラちゃんは魔法が使えるってことなんでしょ、ねえ、そうだよね?」

「そう、です」

「やっぱり! ねえ、それどうやってやったの? 魔法! 私も使わないと――ねえ、ノラちゃん知ってるでしょ? 私が魔法使いになりたいって」

 ノラは再び俯いていたが、声はいつも通りの淡々としたものに戻っていた。

「ええ。知っています」

「じゃあ教えて! 魔法が使えるなら、もう私、何もいらないんだ。本当に、なにもいらない。だから――」

 ぐるる、と透明の膜の外でまた獣が大きく喉を鳴らして、キィコはそちらを見た。獸は首を伸ばして、鼻をひくひくと動かしている。その目線のずっと先の方にマツダの姿が現われていた。

 獣が地面を抉るように爪を立てたのが分かる。

「無理ですよ」

 と聴こえたような気がした。

「えっ、なぁに?」

 キィコがノラの方へ視線を戻すと、視界の端で獣がぱっと消えるように走り出した。けれど、ノラは少しも動じた様子はなく、まっすぐにキィコの顔だけを見ていた。

 そして、いつもの抑揚のない、平坦な声で繰り返した。

「キィコさんには無理です」

「――無理? 無理っていうのは」

 ノラがふっと息を拭くと、透明の膜がぱちんと割れ、閉じた世界が開く。外の世界に出る。

 キィコは頭の隅の方で、いつだかノラと二人で傘の中にいた時のことを思い出した。あれは幸福な時間だった。あれは覚えておくべき時間だった。けれど、一体あれはいつだったのだろう。

「キィコさんは魔法使いにはなれません」

 ノラは射るような目でキィコを見上げながら言った。

「魔法使いは、全て遺伝です。ぼくが魔法を使えるのは、ぼくの父も、母も、祖父も祖母も、そのずっと先まで、みんな魔法使いだからです。純粋な血からしか魔法使いは生まれない。生まれ得ない。だから――キィコさんは魔法使いにはなれない。生まれ直さない限り。絶対に」

 そして、キィコの手ではなく、手首を握って引っ張った。それは意思疎通の出来ない獸の手綱を引くようなやり方だった。

「ここは危ないので、安全なところまでお連れします」

 遠くの方で、マツダが獣と対峙しているのが見えた。まるでじゃれ合っているようだ。けれど、その手はノラと同じように、目に見えない大きな力を操っている。

 魔法だ。

 彼も魔法を使っている。

 キィコは足を止めた。

 ノラは振り返り、全くいつもどおりの、表情のない顔でキィコを眺めるだけで、何も言わなかった。

「なれない?」

 キィコがもう一度聞いても、顔色ひとつ変えなかった。

「なれません」

「絶対?」

「絶対です」

「そっか。うん――そうだよね!」

 普通に答えたつもりが、やけに明るい声が口から出ていった。そしてもう一度、そうだよね、と口が勝手に動く。けれど、キィコの足はもう、一歩もそこから動かなかった。

 すると、やっと少しだけ、ノラは訝しがるような表情を見せた。

「キィコさん?」

 そうだった。

 キィコには、ずっと気付かないふりをしていたことが、もう一つだけあったのだ。知らない振りを続け過ぎて、今の今まで本当にすっかり忘れてしまっていた。

 そうして今、すっかりそのことを思い出してしまうと、それはもう、少しも無視できないほど、存在を膨れ上がらせていた。

 そうだ。そうだった。私は。

 私の体は――。

 もうずっと、肩甲骨の下のところが、ぎしぎしと音を立てているのだ。

「もし、翼が生えても」

 リュシーはそのあと、なんと言うつもりだったのだろう。大丈夫だと励まそうとしたのか、まだ方法はあるとか、悲しまないでとか、言おうと思ったのだろうか。

 けれどそんなことは、ナカザトの言う通り頭の悪いキィコが考えたって、仕方のないことだ。答えが出るわけでもない。だってもうリュシーは存在しないのだから。

 考えたって仕方がない。

 けれど、今やキィコの頭は考え初めていた。何も考えないように、ずっと努力をし続けてきたのに。その努力もすっかり無駄だった。

 世界にはさんしゅるいの人間がいて、それは努力で変えられることは出来ない。

 生まれ直さない限り、キィコは魔法使いにはなれないのだそうだ。

 けれどもし、本当に生まれ直せるのならば、キィコは魔法使いになる必要など少しもない。だって、それなら地上の家の、裕福な、頭の良い子供に生まれれば良いのだから。

 そう願わないために、魔法使いになる必要があった。

 そうしないと――。

「キィコさん?」

 この小さな友人のことも、憎しみながら生きていかなければいけなくなるから。

 生まれついた場所でこんなにも違う。ある場所では有効な努力が、ある場所では全く意味を持たない。それどころか、努力をすることさえ許されない。希望を持てば笑われ、変革を望めば卑しめられる。

 誰がこんな世界を愛せるのだろう。

 こんな世界にいて、一体誰を愛せるというのだ。

 骨が騒いでいる。背中の、皮膚が痒い。

「ノラちゃん」

「なん、ですか。キィコさん」

 呼べば答えてくれる。ただそれだけのことが、今ではこんなにも煩わしい。

「今日が私の人生最良の日だ」

 でもそれじゃあ、いままでの人生は? これからの人生は?

 一体何なのだろう。

「キィコさん!」

 前兆は、きっと生まれたときからずっとあったのだ。生まれたときから知っていた。ああ、そうだ。私には。


 翼が生える。


 キィコの体が大きく宙に浮かんで、前から黒い獣が飛んでくるのが見えた。マツダがノラに駆け寄って行くのを、キィコは上空から見下ろしていた。

「なんで――」

 ノラは呟いたようだった。

 キィコに寄ってきた黒い獣は、マツダにしていたように襲いかかっては来なかった。柔らかい鬣が腕に触れ、赤い舌が、キィコの汚れた包帯の上をべろりと舐めた。

 それにしても、ノラはどうしてあんなに驚いているのだろう。

 何も驚くことはない。だって、世界にはさんしゅるいしか人間がいないのだから。特異でないのなら、そして、魔法使いになれないのならば、キィコの背中には翼が生えるに決まっている。

 けれど、マツダに支えられながらふらふらと立ち上がったノラは、キィコの方へ震えながら手を翳した。

「お嬢!」

 マツダが制するような声を上げる。

 しかし、ノラは錯乱した声で叫びながら首を振った。

「でも、倒さないと!」

 倒す? 

 一体何を倒そうというのだろう。この獸は悪い奴じゃない。倒す必要はない。ひと目見れば見れば分かるじゃないか。私のことを心配しているだけだ。

 そう思って、キィコは後ろを振り返った。

 その時――。

「え?」

 視界いっぱいに翼が入り混んできた。

 それは、キィコの背中から生え、蠢いている。今まで見たどんな翼よりも大きく、立派で、そして――。

 真っ黒だった。

 意味が分からず茫然としていると、キィコの横を明後日の方向に、炎の柱が飛んで行った。見下ろすと、地上ではノラが子供のように涙を流して、キィコのいる方へ手を翳していた。

「おいノラ、もういい!」

 マツダの声に、ノラは大きく首を振り、苦しそうに声を上げる。

「だって、ぼくたちは、あれを倒すために生まれて来たんでしょう?」

 泣いている。

 キィコは、なぜだか心の底から笑いたくなった。それに実際、笑ってもいた。なぜ自分がこんなに声を上げて笑っているのか、少しも分からなかった。けれど、声を出さずにはいられなかった。

「あはは! 魔法使いが泣いている!」

 翼が勝手に蠢いてノラの姿はどんどん遠ざかっていった。

 空から見下ろすと、確かに谷は美しい円形をしていた。

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