第21話 箱庭の色、幻の歌。
「おい、リュリュ!」
キィコの横を通り過ぎたナカザトが、そう声を上げた。
「聞こえるか?」
キィコがそっと振り向くと、リュシーは気怠そうにナカザトに目を向けた。掠れた声がする。
「なんです、先輩。そんな顔して。私、歌ってあげましょうか?」
「いらねえ」
「あらそう」
リュシーはふふふと笑った。それから、ゆるゆると自分の腹に刺さっている刃物の柄を触る。
「すごいですね、これ。本当に全然痛くない」
「そうだな」
「ええ?」
「お前の特異は俺の次にすごい」
「――結局、それだけしか褒めてくれませんでしたね」
鼻歌が聞こえる。希望の歌だ。
「お前、どうしたい?」
そのナカザトの声は、今急に空中に生まれてみたいに聞こえた。
どうしてそんなことを聞くのだろう。何がしたいだなんて、そんなにらしくないことを言わないで欲しい。それではまるで、リュシーがもうここからいなくなるみたいじゃないか。
そんなことはあるはずがない。だってリュシーは希望の歌を歌っているのだ。だから平気だ。こんなに明るい音を、奏でているのだから。
しかし、もはやリュシーは歌ってはいなかった。
「もうがんばりたくない」
音がない。
いつでも歌っているようなリュシーの声から、あの美しい音が消えてしまった。
頑張りたくない。そんな言葉がリュシーの口から出るなんて、キィコは想像もしたことがなかった。希望の歌も、人が死ぬ歌も、もう歌わないつもりなのだろうか。
そうか、とナカザトは淡々と答えて、リュシーの横に片足を付いてしゃがみ込んだ。
「なら、最期にもう一つくらい何かしてやってもいいぞ」
「何かって、先輩が? 私に?」
「ないならいい」
ふふふ、とリュシーは笑った。
「私、何でも持っているから、先輩のことは昔から嫌いです。あの時だって、わざと私を勝たせたんでしょう? あなたはいつでも弱い子を守ってましたものね。だから強い私のことは守ってくれなかった。ここに連れて来てくれたことはもちろん感謝しています。それでも本当は――本当に感謝の一つもしたくないほど、あなたのことは嫌いです。ずっとずっと一番に大嫌い」
「悪態なら死んでから吐けよ」
「そうですね。そうします。ああ、でも」
と、リュシーはごく自然に笑った。
「箱庭」
キィコはその言葉に「え?」と、小さく声を上げた。それは困惑の声だった。
箱庭。
何かと何かが繋がりそうで、けれど、その何かと何かが分からない。
「私、先輩の作る箱庭だけは好きでした」
リュシーは天井を眺めていて、ナカザトはリュシーの腹に刺さった刃物を眺めている。二人の視線は、合っていなかった。
「分かった」
ナカザトは立ち上がると、リュシーの体を跨いで、キィコに目を向けた。
「もう長くないぞ」
そう言い放って、ナカザトは壁に並んでいるドレスの一つに手を伸ばした。触った場所がきらりと光る。
裾がにょろりと伸びて根になり、床に埋まっていった。肩口からは枝が伸び、葉が茂った。ほんの数秒で、一着のドレスはすっかり一本の若木に変わってしまった。
生きている。
生きていなかったものが、生き物になってしまった。これはナカザトがしていることなのだろうか。部屋の中のドレスが、床が、壁が、みるみる姿を変えていく。
もう長くない。
夢の中のような景色の中で、その言葉だけが現実味を帯びていた。
「いやだ」
口から漏れた声は、キィコ自身に返ってくるだけだった。
いくら言葉を体の外に排出しても、同じ思いが増えるだけだ。それなのに、嫌だ嫌だと口が勝手に繰り返してしまう。
「嫌だ、いやだいやだ」
繰り返す度に、思いが増幅して、息が詰まる。
その時、ころんとリュシーの首がキィコの方へ傾いた。
「キィちゃん?」
その声が言う。
リュシーに名前を呼ばれるだけで、キィコはいつでも自分自身に価値を感じることが出来た。生きているということそれ自体が、途端に素晴らしいことのように思えて仕方がなかった。
「キィちゃん? いるの?」
「うん――うん。いるよ! わたし、ここに」
声を上げ、キィコは急いでリュシーの横へ這い寄った。
ごつんごつんと膝が床に当たる音が体に響いて、楽しいのか悲しいのか、分からなくなった。
顔の横に手を付いてキィコが覗き込むと、天井を見上げていたリュシーの目が確かにキィコの顔を捉えた。
あら、と彼女はいつもと同じ軽い声を出した。
「だめよキィちゃん。そんな顔をしては」
そしてキィコの頬にそっと手を伸ばした。
「涙が流れてしまいそう」
けれど、流れてはいないのだ。こんな場面になってもまだ泣かない自分のことを、キィコはとても恐ろしく思った。まるで本当のバケモノだ。
泣かないのではない。もう泣けないのだ。泣き方を忘れてしまった。
それなのに、リュシーは力ない指先で、キィコの頬を拭うような仕草を繰り返した。流れていない涙を何度も拭い、目を細めた。
「ごめんなさい」
それは絞り出すような声だった。
「キィちゃん、ごめんなさいね、あなたを信じてしまって、きっと辛いことだらけだと知っていて、それなのにわたし――」
「なんで? なんでリュシーが謝るの?」
キィコには本当にその意味が分からなかった。
リュシーの顔の上では、葉の影がちらちらと揺れている。
「あなたを信じられることが、私の希望だった。いまでも、信じているのはそれだけなの。ねえ、キィちゃん」
またリュシーはキィコの頬を拭った。
「あなたは、あなたこそ魔法使いになるべき人よ」
その指先は恐ろしく冷たかった。
「ね。魔法は人のために使うものだから」
キィコは急いでその手を握った。
「うん、リュシー、大丈夫だよ。私、魔法使いになるからね。それでね、大魔法使いになって、二番目にリュシーに魔法をかけるから。だから、それまで待ってて。こんな傷、リュシーならなかったことに出来るんでしょう? あの花みたいにまた元気に」
今まで一度だって、リュシーはキィコの望みを裏切らなかった。いつも、どんなときもで、キィコの全てを受け止めてくれていたのだ。
今日だってそうだ。
「そうね、キィちゃん。わたし歌わなきゃ」
リュシーが歌い出すと、部屋の中に風が吹いた。
あたりから森の匂いと、ちゃぷちゃぷと水音がした。一人の少女が川辺を歩いている。風に擽られて木々が騒めくのを見て、少女は笑った。
小さな足が触れる川底で、小石が弾みながら転がっている。前へ、前へ、楽しそうに転がっている。
その歌は、いつでもキィコに夢を見させてくれた。
リュシーは、今まで人のために、幸福なまやかしを見せてきたのだ。一体、それのどこが罪なのだろう。
誰だって、悪い夢より良い夢の方がいい。本当はそこに何もなくったって、まやかしだって、幸福は残るのだから。
リュシーが歌い終わると、辺りには、木々の揺れる音だけが残った。
「キィちゃん」
リュシーは突然ゆるく閉じていた目を、ぱっと開けた。
まるで、何かを追いかけるように、強い力でキィコの目を見た。
「ねえ、もし翼が生えても――」
「えっ?」
しかし、キィコが上げた声は、大きな木々のざわめきに掻き消されてしまった。どこからか風が吹いて、天井のすぐ下の木々が揺れる。
リュシーはそれを眺めて、とろとろ眠るように、微笑んだ。
「きれい」
今や、ドレスだったものたちはみな若木に姿を変えていた。
けれど、柔らかい新芽たちはまだ自分が衣服であったことを覚えていて、光に透かされると、緑の中でほんのり色づいている。赤や黄色や緑や、青と白のストライプ――。
「綺麗だね、リュシー、すごくきれい」
けれどもう、彼女は土の上で横たわっているだけだった。
目を閉じて。もう開かない。
もう歌わない。
もう二度と、歌わなくて良いのだ。
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