第20話 リュシー・オ・シディアン

 その日、谷は雨季に入ったが、夜中になるまで雨は降らなかった。

 ただ一日暗い雲が空を覆っていて、一筋の光も地上に降りてこなかった。キィコが目を覚ましたのは、遠くの方で何か軽い音がしたからだ。

 背中がぞわぞわとして、風邪でもひいたのかと思った。きっと、今のはポストの音だった。

 それから何度も寝返りを繰り返して、生きるためにはまず眠らなければならないと、いつか誰かが――。

 こんな風にキィコはいつでも体の中に残っている言葉が誰から与えられたものか覚えていなかった。けれど、誰かが言ったのだ。どうして忘れてしまったのだろう。どうして人間は大切なことも忘れられるように出来ているのだろう。

 起き上がると、居間にはすでにイシの姿があった。

 明るい声音で朝の挨拶をして、朝食を取る。もうほとんど朝という時間は終わりはじめていた。

 昼と朝の間は、均一に張り巡らされた糸が何かの弾みで絡まったような、一部だけ弛んでしまったような、奇妙な居心地の良さがある。あるいは、居心地の悪さが。

 キィコはいつも通り裸足で外に出て、郵便ポストの中を覗いた。

 何日か開かなかったのでポストの中は一杯だった。沢山のチラシと、イシに当てた行政庁からの書類が一つ。

 キィコに当てた書簡は四通もあった。

 うち三つが電報で、全て日付は今日だ。

 一つ目の送り主は職場から『ホンジツリンジキユウギヨウ』とだけある。キィコはそれでやっと昨日の出来事と、自分の腕に巻かれた包帯のことを思い出した。

 過去と現在が繋がって、急激に目が覚める。

 それはとても詰まらない気持ちだった。

 それから、もしかしたらこの電報は嘘で、キィコだけを休ませようという魂胆なのじゃないかと疑った。けれど、二つ目の電報を見ると、それはニーナからで、店が休みだからオルガと一緒に画材屋に行こうという誘いだった。

 三通目はオルガからで『ジュウニジシブヤカフエ』と補足が来ていた。十二時ならばランドリーに行って洗濯をしてからでも間に合うはずだ。

 四通目。

 下の方になっていたので、これは何日か前のものだろうとキィコは思った。配達夫の押印がされていない。

 直接ポストに入れたのかしらと封筒を裏返すと、差出人の名が目に入った。

「リュシー」

 その名前を呼べば、キィコはいつでも幸福な気持ちになれるはずだった。

 その場で封を切り、一枚目を読んで、次を捲る前にキィコは家の中に入った。イシに書類を渡して、着替えて、いつものように革の鞄を腰に巻く。その中に手紙をそっくり入れて、ランドリーへ出かけた。

 ほとんど無意識のうちに体が動いていた。それで、泡を立てて洗濯物がぐるぐる回りはじめたのを見て、ようやく続きを読んだ。

 理由。

 その言葉について、キィコは思考を巡らす力を持っていなかった。なにごとも、深く理由を考えさえしなければ、どうにかやっていけるものだと思って生きてきたから。

 キィコにはリュシーの手紙の意味がよく分からなかった。

 頭の中で言葉がつらつらと流れるだけで、言葉が分かっても、理解が出来ない。もちろん、手紙を読む前と読んだ後で、リュシーへの思いが変わることもない。

 ただ、言葉だけが体の中に染みこんでいった。

 世界は自分と、それ以外とに常に分かれていた。

 これは、誰が書いた言葉だろう。これは自分の思いではないだろうか。また忘れてしまった。誰の言葉も、勝手に取り込み血肉にしてしまって、思い出すことが出来なくなる。

 恐ろしくなって、キィコは走った。

 谷の縁から、巨人の階段を飛んで転げ落ち、昇降機に飛び乗る。谷は暗く、人々の顔はみな一様に曇って見えた。雨季が来たのだ。

 この町はまるで牢獄のようだ。

 走っているうちに、何かなんだか分からなくなった。誰かが言っていたのだ。すぐに取り出せるようにと。楽しかったときのことを、一生懸命覚えているようにと。

 どうしたのだろう。こんなに何もかも忘れてしまうような人間ではなかったこれは一体誰なのだろう。足が、手が、自分の思う通りに動いている。その理由が分からない。

 血と一緒になって、誰のものか分からない言葉が体の中を蠢いた。

 世界にはさんしゅるいの。人間が谷の人々を操って永遠に幸せに二度と踊らない翼の兆候が。進化が。

「店長!」

 雑居ビルの中は薄暗い。

 空気が沈んでいて、人の気配が少しもしなかった。けれど、ナカザトはここにいるはずだ。どうにかして会わなくてはいけない。

 キィコは、リュシーがどこに住んでいるのか、そんなことも知らないから。あとはもう、ナカザトに聞くしかなかった。

 事務所の中に光はなかった。我楽多が部屋の片隅でじっとしていて、赤い、何に使いのか分からない丸い球体が、いつだかと同じ場所で同じ形でいる。

 けれど声が。

「あ、」

 キィコは振り返った。振り返りたくない、と思いながら最早体は振り返っていた。

 足が勝手に動く。

 事務所を出て、暗い細い廊下を行くと、扉の隙間から光が漏れていた。廊下にも我楽多が転がっている。

 口の開いたトースターや玩具の赤い車、青い車、硝子の破片。この先を行く従業員は一人だっていなかった。用事がないし、廊下にひびが入っていつ落ちるか分からないと言われていたから。

 だから、そこに扉があることも知らなかった。

「分かってる」

 そこから聞こえたのは、間違いなくナカザトの声だった。

 我楽多を飛び越えて扉に手を掛けると、歪んだ木の擦れる音がする。さらに力を入れて引っ張ると、獣の欠伸のような音を立てて、それは開いた。

 ナカザトが振り返ったのが見える。

「お、まえ」

 キィコの目に、部屋中の色彩が飛び込んでくる。

 細い部屋の壁沿いに、いくつものドレスが掛かっている。赤や黄色や緑色、それから白と青のストライプ。あれは、初めて会った時にリュシーが着ていたものだ。よく覚えている。

 そしてもう一つ、部屋の真ん中には白色がぼうっと浮かんでいた。その上に赤も。

 白いドレスを着ているのだ。お腹に刃物が刺さっている。そこから血が滲んでいて、それが赤色の正体だった。

「リュシー」

 キィコが駆け寄ろうとすると、ナカザトに手を強く掴まれた。

 意味が分からず、キィコはナカザトから顔を逸らして、リュシーの名前を呼んだ。何度も読んだ。しかし、何度呼んでもいつもの優しい声が返ってこない。

 リュシーの口元は、小さく動いているようだった。指先で自分の腹に刺さっている刃物の柄を、ゆるゆると撫でている。まるで慈しむように。

「リュシー、リュシー!」

「静かにしろ」

 淡々とした声音でナカザトは言った。 

「だって! リュシーが!」

 そう言って腕を振り切ろうとすると、余計に強い力で引っ張られて、キィコの体はくるりとナカザトの方へ向かされてしまった。

 自分の腕なのにぴくりとも動かない。

 この力は嫌いだ、とキィコは思った。ごく自然に弱い生き物でいることを、こんな風に思い出させないで欲しい。

「お前、それ読んだんだろ?」

 ナカザトはキィコの手元を見て言った。リュシーに貰った手紙は手汗でくったりとして、もうくしゃくしゃに歪んでしまっている。

「よんだ」

 そう言って、キィコは頭を振った。

「読んだけど、意味が分からない。分からないです私には、なにを言っているのか、どういうことなのか、なにも」

「本当か?」

 そのナカザトの声にキィコは縋るような気持ちで顔を上げた。しかし、その淡々とした声とは裏腹に、ナカザトの顔は大きく歪んでいる。

「お前は、本当にその手紙の意味が分からないのか?」

 ナカザトからは、微かに甘い香の匂いがした。

 爪先が柔らかい布に触れる。

 また無意識のうちに腕のを掻き毟ろうとしていたのだ。それが包帯をしているなんて。全く、どうしてこうも間抜けなのだろう。

 どくどくと、体の方々から腹の真ん中に血が集まって来るようだった。

 腹の獣が起きてしまう。

 こんなことをしていたらきっと起きてしまう。

「わたしは、」

 本当はもうずっと知っていたのだ。

 雨季になるとリュシーが消えてしまうこと。帰って来た時の彼女がキィコの前で人の死ぬ歌ばかりを歌うこと。一日の大半をここではないどこか別の場所で過ごしているらしいこと。特殊な特異をもつ彼女が谷で暮らしていること。

 すべて、可笑しいことだと知っていた。

 優秀な特異は、谷には帰ってこない。自ら帰ってくる者などいない。

 そんなことは、誰だって知っている。けれど、何もかもを疑うことをしなかった。嘘だと分かっていて、リュシーの言葉を信じた。信じるという意識さえなく信じていた。

 信じることが、自分のためであり、そうしてリュシーのためだと願っていたのだ。

 ところが、この手紙にはそういった疑問の、本当の答えがすっかり書かれてしまっていた。それは、キィコの信じてきたものが、リュシーのためにはならなかったという証拠ではないだろうか。

 リュシーは魔法使いではなかった。

 特異持ちだったのだ。

 彼女は、全てをまやかすことが出来る。

 それで沢山の人たちを、取り分け谷の住人を騙し続けてきたのだという。不安や不満を感じないように。厭なものを見ないように。感じないように。まやかしてきたのだと。

 そうしてそれは、谷の人間のためではなく、地上の人間のためだった。谷のためじゃなく。地上のために。

「余計なことを考えるなとは言ったけどな」

 ナカザトは、キィコの爪の立った指をぞんざいに振り払った。

「認めるなとは言ってない」

 そして、すっとキィコの横を通り過ぎて行った。

 体から力が抜けて、キィコはその場にしゃがみ込んだ。握っていた手紙が落ちて、手の平から熱がなくなる。

 リュシーは魔法使いではなかった。

 キィコは、ずっとリュシーのようになりたいと思っていた。

 彼女こそが、魔法使いなのだと。

 そう信じていた。

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