第28話 色盗白
それまでノラは、そうして恐らくはフィールスも、自分たちが塔の上に住んでいるということをはっきりと理解していなかった。
知ってはいたのだ。
塔の下には大地があって、そこには沢山の人間たちが住み、その人間たちを守るために魔法使いが存在している。そんなことは、産まれる前から知っていた。
けれど、知っているということと、理解するということは、隣同士でいるように見えて、本当はずっと離れている。
「よく見ておいてくれよ」
空の中でジャンが呟いた言葉は、ほとんど懇願に近い響きを持っていた。
魔法使いの住む、塔と呼ばれる居住空間は、地上に生えている細長い建物の屋上から一本の紐のようなもので繋がれている。
塔はそれ自体がふよふよと浮いていて、ノラはいつだか、コランが突然渡してきた風船のことを思い出した。
それはただ丸く浮かんでいるだけの桃色の球体で「風船ですよ」と言って笑ったコランのことも含めて、ノラには何もかもピンとこなかった。
それが何のために紐で繋がれ、何のために浮いているのか分からなかったのだ。
「あれもまた、俺らの呪いのうちの一つだ」
ジャンは両脇にノラとフィールスを抱えて空を滑降しながら、横目で塔と地上の建築を繋ぐ紐を眺めていた。やはりノラには「あれ」と「呪い」という言葉の具体が分からなかった。
魔法使いが地上に降りるには、通常地上側からの許可がいる。
許可なしに、しかも魔法を使って飛びながら降りるなどということは、大罪だった。
ジャンの強大な魔力は、近くにいるだけで、びりびりと肌を刺激して、目の前に立ち現れる魔法の形は、他のどんな魔法使いのものより完璧に隠れていて、それでいて美しい。
灰色にしか見えなかった地上の町が眼前に近づいてくる。
それまで庭園にある左右対称の赤い屋根しか見たことのなかったノラは、地上に立ち並ぶ建物の屋根を眺めるのに夢中になっていた。それらは均等に区画されているが、一つ一つ別のものだということが遠くから見てもよく分かった。
ノラはそれまで、庭園にある左右対称の赤い屋根しか見たことがなかったので、こんな風にそれぞれ屋根の形が違うことにまず驚いた。
これが自分たちの守っている町なのだと思った。
あれはなんだろう、その向こうのは――と空を飛びながら、ノラはフィールスとジャンに他愛もない話を仕掛けた。二人とも笑ってそれに答えた。けれど、そのうちに随分スピードが速くなって、景色に酔ったノラはしばらく目を瞑っていた。
そして、もう一度目を開いたとき、眼下には大きな池が広がっていたのだ。
それは、水の張っていない池だった。
巨大な大地の窪みの底には、薄ぼけた朱色の提灯や、空の色を写しそびれたような汚い壁の建物や、その他にも全く数えきれないほどの色彩が散らばっていた。
一体は泥のついたように鈍く、淀んでいて、鮮やかだった。何もかもがあべこべで、矛盾している。見たことのない、感じたことのない色ばかりだった。
「あれが谷の町だ」
ジャンは二人を大木の幹に座らせて呟いた。そこからは水のない池の底がよく見えた。
「なんだか汚いなぁ」
目を細めながら言うフィールスに、ジャンは闊達に笑った。
「でも、俺はあの町が好きだ」
そう言って、ノラやフィールスには理解できないようなことを喋り始めたのだ。
ジャンは、ずっと深い憧憬の目で谷の町を見下ろしていた。
「きっと、俺は失敗作だったんだ。そう思うことが生まれてから何度もあった。自分だけが別の生き物なんじゃないだろうかって――だって俺は、昔から誰もが気にしないようなことがすごく気になったんだ。たとえば魔法使いは黒き翼を倒さなければならないという、ごく当たり前のことについて。勿論、それは当然だ。俺たちは黒き翼を倒すべきだ。けど、一体どこでその理由を手にしたのだろう。翼を持つ者を守らなくちゃいけないという使命が、生まれた時から血と共に流れているのは――それは可笑しいことなんじゃないかって」
すると、ジャンはぽかんとしているノラとフィールスを見て、ふっと笑った。
「俺は、事実失敗作だった。本当に失敗だったんだ。そりゃあそうだ、俺たちだって生きているんだから、進化くらいする」
ジャンはそうやっていつも笑っていたけれど、その時ばかりは笑っていなかったのだ。
「いいか。生き物は、恐怖と希望で変化し続けてきたんだ。その変化が次に繋がって、形になれば進化になる。俺は、俺のこの変化が、俺たち一族全体の進化の結果に違いないと思っている。けど――そう、俺たちには自ら血を繋ぐ術がない。呪いのせいで」
ノラはその時、ジャンの言葉を必死になって頭の中に繋ぎ止めようとしていた。きっと覚えておくべき言葉だから、意味は分からないけれど、反芻しなければと思ったのだ。
けれど、全て、攫われてしまった。
「わ」
と、ジャンの横でフィールスが声を上げた時、背後から、葉と葉がいくつも衝突しあう音が聞こえた。それからすぐに、耳の上を風が通って行く音が。
白い。
翼だ。
「ねえ、ジャン! あれ――あれは」
ノラが立ち上がって口にした瞬間、また後ろから大きな風が拭いた。
翼を広げた人間が、空中を通り過ぎて行く。霧が晴れたように、ノラの目に、何もかもが鮮明に映った。彼らはもの凄い速さ、もの凄い力強さで――それは、まるで魔法とは比べものにならない――空を飛び去って行った。
白い。
何もかも攫うように白い風だ。
「訓練中か?」
と言って、ジャンはバランスを崩したフィールスを枝の上に立ち上がらせると、片手で庇を作りながら、もう遠くを飛んでいる一団を眺めた。
「航空隊だな」
「航空隊? 何だそれ。初めて聞いた」
フィールスは特に汚れてもいない衣服をわざとらしく叩きながら言った。
「中央政府の院とか警邏してる奴らだよ。塔の下にも何人か――ああ。ありゃ式典の稽古だな」
くるくると、その人間たちは飛びながら輪を描き、急降下と急上昇を繰り返していた。
ノラはそこから目が離せなかった。
彼らは、魔法を使っていない。
他のどのような力も使わず、借りず、自分の体だけで飛び回っている。
「お前の気持ちは分かるよ」
そう言って、ジャンはノラの頭に手を乗せた。
「俺たちは、翼を持つ者を心から憎むことは出来ない」
その声の底には、心を許し切った人間の笑みがあった。実際、ジャンはその時笑ってもいたのだ。けれど、言葉の表面にはちくちくとした、悔恨のような、深い諦観のようなものが無理に貼り付けられていた。
「魔法使いにとって、白い翼は希望なんだ」
白い翼を心から憎むことは出来ない。
その言葉には、ジャンの中にある葛藤や反抗心を非常によく表していた。そこに至るまでに、彼がどのような過程を踏んできたのか、ノラには想像することも出来ない。
そして、最早それを確認する術はない。
「呪いだ」
そのすぐ後、ジャンはいなくなった。
呪いを解きに行ったのだ、と幼い頃のノラはフィールスと一緒になって信じていた。呪い、というジャンの言葉の意味を理解しようともせず、ただ信じることだけをした。いつか帰ってきたら聞けばいいと思っていた。
しかし、ジャンが再び二人の前に姿を現すことはなかったのだ。
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