第27話 ジャン=ジュダ

 それがいつから始まっていたのか、ノラにはよく分からない。

 魔法使いは自分たちの部屋を自分の好きな景色にするのが日常の楽しみだった。窓の外を浜辺にしてみたり、調度品を全て氷にしてみたり、日によってころころ変える者もいれば、一定して寸分変わらないものを作り続ける者もいる。

 そしてノラの父、コランはすぐに部屋の景色を変えたがった。

 ある日は天蓋付きのベッドに眠り、ある時は水の上に浮かんでいた。一つの場所が持つ匂い、空間の体臭のようなもの――それが父の部屋には一切存在しなかった。

「では、こういう話がありますよ」

 ノラが訪れると、そう言ってコランは他人行儀に話を聞かせてくれた。これは実際にあったことですが、と前置きをして、その実、彼が話すのは何もかも空想にすぎないのだ。

 睡蓮が女に化けた話。空から落ちる色の付いた水滴と、それに触れた白馬の毛並みの話。雪の上を木船に乗って、獣を崇める蛮族の村に赴いた落伍者の話。

 そして、そういう話が終わってしまうと、もう他には何も話さなかった。いつまでも黙って困ったような顔をしているのだ。

 きっと父も子供が苦手なのだろう、とその頃のノラは別段気にも留めなかった。

 けれど、一人前の魔法使いとして仕事をするようになると、ノラの耳には嫌でも大人たちの噂話が耳に入って来た。

 さすが大魔法使いさまだ、というような婉曲な物言いをして、彼らはしきりにコランへの不理解を主張していた。どうやらコランは一体、他人と関わる術を、空想の話をする以外に持ち合わせていないようなのだ。

 そんな風であったから、コランは世間知らずの集まりである魔法使いの集団の中で、さらなる世間知らずとして人々の笑い種となっていた。

 当の本人は、彼の大魔法使いの血脈を保持するためだけに生きることを続けているいるだけで、現実については何もかも少しの興味もないらしかった。

 それこそ、彼は空想の世界でのみ生きていたのだ。

 だから、コランが早々にフィールスに爵位を譲ると言いだした時、もう死ぬ許可をもらうつもりなのだろう、とノラは茫漠と思った。

 実際は主席魔法使いの座から退き、顧問となった今でもまだちゃんと生きている。ただし、自分の部屋の中から出ることは一切なくなった。ノラはもうだいぶ長い間、父の姿を見に行っていない。

 そんな父に比べると、母であるゼルダは分かり易かった。

 空中庭園がまだコランの場所であった頃――あの場所は代々主席魔法使いの住処であるのだが――ゼルダはそこに建てた大きな屋敷のサロンで、毎日お茶会を開いていた。

 壁中に煌びやかな装飾が施されたそのサロンに、子供が入ることは決して許されず、ノラとフィールスは面会の日には外にある庭で、ゼルダの気が向くまで何時間でも待たなければならなかった。

 ゼルダは子供に構うのが好きではなく、会ってもいつも詰まらなそうにしていた。

 彼女にとっては、肉感として自らを敬ってくる子供たちよりも、地位や名誉を理解し、猥雑な会話をし続けてくれる他人の魔法使いといる方が気持ちがよかったのだろう。だから、ノラとフィールスが待っていても、会いに来ないことはよくあった。

 魔法使いは全体に子供が苦手なのだ。

 ノラだって、自分に子供が出来たとして、親身になれるかどうかと言われれば、全く自信がない。勝手に生まれて勝手に親子だと言われても、何の実感もないし、気味が悪い。

 ただ、子供にしてみれば、生まれたその時から親は親なのだ。

愛情に憧れていた時期もあった。

「よぉ! どうしたお前ら、また辛気臭い顔してんなぁ」

 そんな暮らしの中で、異質な存在だったのが叔父のジャンだ。彼は、いつでも急にノラとフィールスの前に現れては、沢山の話を仕掛けてきた。

 その頃、庭園には馬鹿に澄み切った池があって、ジャンはよくそこへノラとフィールスを連れ出した。

 そうして、二人を桟橋の上に置いたまま、自分だけ裸足になってさっさと池の中に入っていくのだ。

 大きな音を立てて、ジャンがいつまでも七色に輝く魚を追いかけ回していたのを、ノラはよく覚えている。

 ジャンの足音に魚はすぐに散り散りになる。すると彼は詰まらなそうに水から顔を上げ、いつものようにへらへら笑った。

「お前らの母ちゃんって、ちょっと怖いよなぁ! 俺またさっき怒られたよ」

 その声は、いつも、とんでもなく間抜けな響きをしていた。

「ジャン!」と、フィールスがノラの横で明るい声を出した。「そんなことを言っているとまた怒られるよ」

 思えば、フィールスはジャンの前では良く笑っていたのだ。それは微笑みとは全く対極の笑いであった。純然な喜びの発露だ。

「んあー?」

 気の抜けた声を漏らしてジャンはまた池に目をやってそろそろと動き出した。池の縁の辺りは土が柔らかく、ジャンが通った後には茶色い泥が舞った。ノラは馬鹿みたいに透明で隅々まで明るい池より、土の濁りで混沌としているその姿の方が好きだと思った。

「なんで俺が怒られるんだよ?」

 ジャンが全く悪びれずに言うのが、フィールスは可笑しくて仕方がないようだった。

「なんでって、あの人はジャンのお義姉さんなんだろう?」

「あー。うん、そうらしいな」

「身内を悪くいうのはみっともないことだよ」

「そんなこと言っても、俺の身内は今も昔も兄貴だけだ」

 フィールスはふう、とどこか大人ぶった様子でため息を吐いた。

「まぁ、本心ではそうだとしても、実際にはさ」

「あっ!」

 と、フィールスの言葉をさえぎって大声を上げると、ジャンは池に両手を入れたまま、そろそろと怪しげにノラたちのいる小さな桟橋の方へ近づいてきた。

「え」と、横でフィールスが間の抜けた、少し怯えたような声を出した。「なに」

 それに対して、へへ、と笑うとジャンがばっと両手を上げる。

「うわあ」

 びちびちと、その手の内には小さな魚が蠢いていた。

 それは水の中にいたときには確かに七色に光っていたのに、空中ではぬめぬめとした灰色以外の色味がない。

 ジャンはフィールスが驚いたのに随分気を良くしたらしかった。それでひとしきり笑ってから、ああ、と何かを思い出したように声を上げ、大きく笑った。

「でも、お前たちは身内だぞ。血が繋がってるからな」

 そう言って、ジャンはその魚をなぜかノラに手渡そうとしてきた。

 びちびちといつまでも跳ねているのが恐ろしくて、ノラは首を振ったが、大丈夫だから、と言って水の中にノラを誘って、そっとその魚に触らせた。

 触るだけで、生きていると分かる。

 それは不思議な感覚だった。

 ジャンの手から離れた魚は、ノラの手の内に入るとすぐ、指の股をくぐって、水の中に去って行ってしまった。もの凄い速さで、水の中に七色の光線が走る。

「あのな。俺は、俺の身内のために呪いを解きたいんだ」

 ジャンは言った。

 呪い、という言葉の意味がその時のノラには分からなかった。辞書で調べると、それは魔法の一種らしかった。災いを齎すために使われる魔法だ。

 しかし呪いを解く、という意味はやはり分からなかった。

 災いを齎すものを排除したいということだろうか。けれど、そんなことは願うまでもなく、魔法使いならば簡単に出来ることだ。生まれたときから体に備わっているものとして、いわば視覚や聴覚と同じ一つの機能として、魔法使いにはその力がある。

 ジャンほどの魔法使いが、それを出来ないはずがなかった。

「ねえ、ジャン。呪いとは何のことを言うの?」

 ノラとフィールスがそれを聞きに行った時、ジャンは塔の上から、地上を眺めていた。

 その時、とても恐ろしく思ったことをノラは覚えている。

 ジャンが飛び降りてしまうような気がしたからだ。

 けれど、飛び降りたとてして、何てことはない。彼は魔法使いなのだ。

 死ぬことはない。

「そうだな。お前たちは、知っておいてもらおうか」

 そう言って、ジャンはその日、ノラとフィールスを地上へ連れ出したのだった。

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