第29話 消失する当該

 変化は常に外側から起こるのだ。

 その頃、マツダが正式に従者につくことになって、三人でいることが多くなった。三人でいるときには良く笑っていたと思う。

 マツダは、ノラとフィールスにとって外の世界そのものだった。濃く血の繋がっている者同士ではない、それ以外の人間との触れ合いは、喜びや悲しみや、その他全ての感情を、よりはっきりとした形にしていった。

 同時に、今まで言葉にしなくても理解出来ていたものが、少しずつ分からなくなっていった。

 例えばフィールスがマツダに何かを言う。けれど時々、ノラにはそれが間違っているように聞こえることがあった。フィールスはきっとそんなことは思っていない。どうして間違ったことを言うのだろう。

 そう思っても、人の感情を違うと判断するのも間違っているような気がした。だから、そんな時には黙っているしかなかった。

 ノラは、少しずつ無口になっていった。

「どうした? 大丈夫か?」

 マツダは、そんなノラのことを良く気に掛けた。けれど、心配ないという意を伝えるために、黙ったまま首を振ると、マツダは少し困ったような顔をするのだ。

 だからノラも、少し間違ったことを口にしてしまう。

「大丈夫。元気だよ」

 マツダが安心して笑う。

 だから、間違いだと分かっていて言葉を使ってしまう。けれど、その頃はマツダやフィールスが笑うならば、少しくらい間違えていても良いと思えていた。

 思えばそれは、純粋に幸福であった、唯一の時間だった。

「ノラ、僕はお父様の後を継ぐことになったよ」

 ある日、フィールスが突然そんなことを言った。

「にいさまが?」

「ああ。父上はご隠居なさるらしい」

「そんなことより聞けよノラ、こいつまた昨日も夜遅くまで起きてやがって」

「ああ。マツダはよく寝ていたね」

「俺は! お前にも寝ろと言ったはずだ!」

「少しくらい五月蠅くても、君は寝たら起きないんだから良いじゃないか」

「そういうことじゃねえんだよ。俺が言っているのは、お前の体調管理の問題なの! あんま魔法使うなって言ってんのに、遅くまでがちゃごちゃごちゃごちゃ!」

 父の後を継ぐということに対して、フィールスはさほど気負ってはいなかった。ノラもマツダも同じ思いだった。立つ場所が変わっただけで、生活が変わるなんてことは、想像することも出来なかったのだ。

 主席魔法使いといっても、実際には何をするという訳でもない。

 何か理由の良く分からない書類に許可を出したり、老導師たちとのお茶会に参加したり、時々は地上で働いている魔法使いと歓談するために、地上に降りる。

 そんなものは、庭で遊んでいるのと、大して変わらない。変化のうちに含まれない。そう思っていた。

 けれど、そう――変化は常に外側から現われるのだ。


「その名前は口にするな」

 父であるコランが子供に対して敬語を使わなかったのは、ただ一度、その時だけだった。

 魔法使いたちはみな、ジャンがいなくなってから一度もその名前を口にしなかった。ただ、それはジャンが居た時からそうだったから、ノラもフィールスも気に留めなかったのだ。

 なぜって、彼らは身内ではないから。

「なんで、ですか」

 一緒にいたフィールスの声は、今まで聞いたことのないような揺れ方をしていた。

 他の魔法使いが何を言っても気にならない。けれど父は、コランはジャンと血が繋がっているのだ。かつては、ただ一人の身内だった。

 そんな父が、どうしてジャンの名を呼ぶことを禁じるのか。その意味がフィールスには――ノラにも分からなかった。

 コランは、子供たちのことを見ず、壁に向かって話しかけていた。

「存在しない者について考えれば歪みが起きる。考えないことだ。歪みに嵌まれば元の場所へは戻れない」

 あるいは、それはコランが父として語った唯一のことだったのかもしれない。

「あいつはもういない。もう――帰ってこない」

 どこまでも、深く深く沈んでいくような声だった。

「もう二度とその名前を読んではいけない

 フィールスは、言い付け通り二度とジャンのことを口にしなかった。

 ノラには理解できなかった。戻ってこないとして、なぜ語ってはいけないのか。まるで最初からいなかったようにしてしまうのはなぜなのか。

 それでも従うより他はなかった。ジャンのことを口にするたび、フィールスが不思議そうな顔でノラを見るようになったからだ。

 そのうちに本格的にフィールスは主席魔法使いとして動くようになり、ノラもまた体の弱い兄の補佐として仕事をすることが多くなった。二人の間には自然と会話が増えて、その度に、親しさが遠のくような気がした。

 また言葉への不信が募った。

「ん、ノラ。どうした? あー、っと、大丈夫、ですか?」

 その頃から、マツダは口調を計りかね続けていた。

 それがいつから始まっていたのか、やはりノラには判然としない。けれど、その頃には、もうはっきりとした形を持ってそれは存在を示し始めていた。

 自分は失敗作なのではないだろうか。

 これはジャンの言葉を借りたわけではない。自然とそう思うようになったのだ。

 周りの気にしていないことが気になって上手く歩けない。成長していくにつれ出来るようになることが、いつまでも出来ないのは、どこかに欠落があるからに違いない。

 欠落。欠陥。欠損。欠乏。どれだか分からない。ともかく、何かが足りない。

 最初から足りなかったのかもしれない。

 だから自分はあの庭園の濁った池に、薄汚れた谷の町に目を奪われたのではないだろうか。フィールスのようにただ汚いと言って笑うことは、ノラには出来なかった。

 目が離せなかったのは、好きだからではなく、同情をしていたからだ。足りない他者を愛する。それは自己愛に違いない。

 そんな自分が嫌で嫌で、ノラは次第に内に生まれる感覚に疑問を持つようになった。何もかも本当でないような気がして、喜びも悲しみも、他のあらゆる感覚も間違っているような気がして、そのうちに全く信じられなくなった。

 そしてそれは結果的にノラを生きやすくしたのだ。

 ノラは、目の前にあるものを、機械的に判断し、処理していくようになった。もともと、魔法使いが生きるために個人的に何かをする必要はないのだ。

 だから、空想の中だけに生きた父のように、ノラは理の中で生きた。

 受信し、計算し、判断し、行う。それが生きるという作業だ。

 受信し、計算し、判断し、行う。繰り返し、繰り返し。

 そんな風に何年も生き続けていた。

 受信し、計算し、判断し、行う。

 受信し、

 計算し、

 判断し、

 行う。

 もう何も思うことはない。

 もう何も感じる必要はない。

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