第30話 ある女
その日、ノラはフィールスの補佐で地上に降りていて、途中で待機時間が出来てしまったので町の中を歩いていた。
じっとしていると怪しまれるだろうと計算したのだ。だから、出来るだけ一つの所に留まらないように歩き続けていた。谷の町まで辿りついたのは偶然だった。
昔見た時と少しも変わらない。そこには水のない大きな池があった。
ただし、もう心は何も感じなかった。それは谷の町に限ってのことではなく、ノラはもう、何かを思い出すこともなければ、何かを思い描くこともなかった。
ただそこに存在しているだけ。
色にも形にも、何も感じない。何もない。
鮮やかであるはずの谷の色彩を、自分が見ているのかどうかも良く分からなかった。ただ、大きな虚を見ているようであった。
自分はこのまま、ただ生きていかなければならない。それについてさえ、何も思えない。何の感慨もない。
それなのに、胸を掻き毟らなくてはならないような気がした。喉を引き裂きさいてしまわなければならないような気がした。体を痛めつけなくてはならないような、それは使命感とよく似た感覚だった。
背中の後ろに何もないような気がする。目の前には虚がある。
そして突然、ノラは声を聞いた。
こわい。と声は言う。
それは自らの声によく似ていた。
こわいのだ。ぼくはこわい。でもどうして? なにが怖いの? ぼくはここにいて、体もここにある。ぼくはその体の中にちゃんといる。
ほんとうに? と声は惑っている。
ぼくは、本当にここにいるのか? こことはどこだ。体の中になにがある? なにもない。だれもいない。ここは虚だ。暗い。何も存在しない。ぼくは虚になってしまった。
ぼくはうろだ。
気が付くと、ノラの体は前に倒れ込んでいた。
谷の底が見える。早く早く、と頭の中で声が言った。顔に向かって地面が近づいてくる。落ちているのだ。墜落だ。それはとても良いことだ。
落ちて。粉々になって。消える。消えてしまいたい。
「あっ」
と、思わずノラは声を上げた。とても恥ずかしい声だった。
体がふわりと浮き上がって、顔に向かってきていた地面が離れていったのだ。両足が地面に向き、落ちる速度が急速に遅くなる。ゆっくりと両足が地面に着く。
なんてことはない。魔法使いは勝手には死ねないのだ。
しかし、地に足がついた瞬間、何か厭な影が目の上を動いたような気がして、ノラは空を見上げた。
「あ! うわあ!」
それは人影で、その人影はノラに近づいて来ていた。飛んで――。
いや、落ちているのだ、と理解した瞬間、ノラは魔法を使っていた。下から人影に風を当て向きを変え、自分の方へゆっくりと下ろす。両手を差し出すと、腕に温度が降りてくる。
生きている。
そう思うと体が勝手に震えて、咄嗟に魔法を解いてしまった。
「うわあ!」
「わ、」
腕に急激に重みが戻ったのと、人影が動いたので、ノラは大きくバランスを崩した。そのまま耐え切れず、腕から人影が外に転がっていく。
「あ、」
と声を上げたが、あの高さから落ちるよりは増しだろうと、放っておいた。反動でノラもかなり勢いを付けて地面に倒れたが、やはりなんの衝撃もなかった。土のような泥のようなもので、洋服が汚れただけだ。
無意識に自分に対して働く魔法のことを、ノラはその時初めて不気味だと思った。
呪い、という言葉が頭をよぎった。
「あっ、痛い、あっ、えっ?」
転がった人影が崖にぶつかって、土に向かって素っ頓狂な声を上げている。ひらひらと、その上に何かが落ちてきていた。
白い。
その色を、ノラは良く知っている。白い。羽の色だ。あの日、自分の目を奪った翼の色。
「あ!」
と、また人影は声を上げたかと思うと、ぱっと振り返って、転んだのか走ったのかよく分からない動きでノラの方へ追突してきた。
「わ」
「ねえ! 大丈夫だった?」
その人影――女性が、そう言ってぺたぺたと、ノラの体を触る。
彼女の腕からは血が流れて、顔の横には泥が付いている。
「ぼくは、大丈夫ですが、あなたは――」
すると、彼女は目を丸くして、大きな声で「ね!」と叫んだ。これだけ近くにいる人間にかける声量ではない。
「目測あやまって落ちちゃった! びっくりした!」
目測、と思ってノラは頭上を見上げた。かなり高い所に谷の縁がある。彼女はあそこから落ちたのだ。見たところ翼はないのに。
「死んでしまいますよ。あんなところから落ちたら」
「うん、ね! しんじゃうかと思った! あ、でもね、大丈夫なんだ。私、死なないはずだからね」
と、彼女は妙なことを言った。
「はず?」
「うん! わたし、魔法使いになるから死なないんだ!」
「は」
とノラの口から短く音が出ていた。
「ん?」
と彼女は首を傾けた。
「いえ」
よく分からない。という思いだけがある。彼女の使っている言葉が、自分の知っているものと同じものなのかどうか、検討する必要がある。
「魔法使いというのは?」
聞くと、彼女はぱっと顔を明るくさせ、にこにこと笑いだした。
「魔法使いっていうのは、魔法を使える人のことだよ」
そう言ってから、あれ? とまた首を傾けた。
「言うよね? 魔法使いって。言わない?」
「魔法――を使う人のことを、ですか?」
「そう!」
「言う、かもしれません」
「うん。だからね、私は魔法使いになるの」
意味が分からない。あまりにも理解出来なさすぎて、頭の皮膚が破けそうだった。
彼女はまた声を上げて、今度は地面に向かいながら「あらら」とか「わわわ」とか呟きながら、自分と一緒に落ちて来たものを拾い始めた。
それはただの白い紙だった。ただ白いだけで、翼とは似ても似つかない。紙には手びっしりと何かが書いてあるようだった。風貌から察するに彼女は学生なのかもしれない。
恐らく彼女が落ちたのも、紙が落ちたのも自分のせいだろうと思って、ノラも遠くに飛んでいる紙を拾いに行った。
「あっ、ごめんねー。ありがとうねー」
と、彼女は弾んでいるのか緩んでいるのかよく分からない声で言った。どことなくジャンに似ているような話し方だ。
「え?」
と、ノラの口からは勝手に声が漏れていた。声が出てから少し遅れて、ノラは自分自身がひどく驚いていることに気が付いた。
理由は二つ。
一つは、今まで全く思い出さなかったジャンについて、ごく自然に彼女と似ているなどと思ったこと。
そしてもう一つ。それは拾った紙に描かれたものに対して――。
「あの、これ!」
「えっ、なに?」
声を上げると彼女は寄ってきて、ノラの持っている紙を覗き込んだ。
白の上に濃い灰色の線がいくつも走っている。まるで一色とは思えない、鮮やかな濃淡で描かれているのは、ノラのよく知った人間の姿だった。
彼の大魔法使い。
魔法使いたちが肖像画を掲げ、日々崇めているノラの先祖だ。
「これね、すごい魔法使いなんだって。借りた本に書いてあって、でも返さなきゃいけないっていうからね、描いて、写して貰ったの」
しかし、魔法使いは人前で魔法を使うことが出来ない。これは非常に厳しい決まりごとだ。
地上にいる魔法使いたちがもし、人前で魔法を使ったとすれば、即刻塔の上に戻されることになっている。
だから、ほとんどの地上の人間にとって、魔法使いは、神話や伝説と同じような存在であるはずなのだ。
実際、大魔法使いが行ったことなど、ノラだって詳しくは知らない。
しかしこの白い紙の上に描かれているのは、魔法使い達が掲げている肖像がと寸分違わなかった。
「本に、書いてあるんですか? 魔法使いのこと」
「うん。書いてあるよ! 魔法使いって、何したのか皆結構知らないでしょ? でも探すと結構書いてあってね、大きな橋作ったとか、喧嘩を止めたとか、なんかそういうの。でもこれは何言ってるのか、全然よく分からなかった」
と言って、彼女は彼の大魔法使いの肖像が貼り付いた紙を、ひらひらと揺らした。
「分からない?」
というノラの声に、彼女が頷く。
「何か見たことない知らない言葉で書いてあったの。皆読めないって」
地上には読める文字と、読めない文字があるのだろうか。それとも、彼女と、その周りいる者の知識の問題なのか。
「でももの凄く偉いんだって、借りた時教えてもらったから間違いない」
「そうですか。それは――ええ」
と、ノラの口は、勝手に意味のない音を連ねた。何か言いたいことがある時、どんな風にそれを伝えれば良いのか、もうすっかりノラは忘れてしまっていた。
「どうしたの?」
すると、彼女が顔を覗き込んできた。彼女の顔は、どうにも間抜けだ。ノラはその間抜けな顔に向かって言った。
「あの、あなたはなぜ魔法使いに?」
少しの間があって、彼女はやはり首を傾けた。
「ん?」
と、口を閉めたまま広げて、言葉を理解しようという顔をしている。ノラの質問の意味が分からなかったらしい。しかし、これ以上どう言ったら良いのか分からない。
ノラは極力ゆっくり言葉を吐いた。
「あなたは、どうして、魔法使いになりたいのですか?」
まずもって魔法使いになる、という言葉自体が異文化だ。
ノラの周りには、生まれた時から魔法使いである者しかいない。だから「人間が魔法使いになる」という概念がもう思考の埒外にある。
しかし、彼女は彼女で、少し困ったようにこう答えた。
「どうしてっていうか――なりたいんだよね! 魔法使い。ならなきゃいけないし――だから魔法使いになるんだと思うんだど」
「はぁ」
魔法使いになりたい理由が、魔法使いになりたいから、というのは可笑しい。それに――。
「なりたいと思ったら、なれるものなのですか? 魔法使いというものは」
言ってみて、少し意地が悪いような気がした。だってノラはその答えを知っているのだ。そんなことは不可能だと身をもって理解している。
けれど、彼女はごく軽い声と緩い表情で答えた。
「うん。なる必要があって、なりたかったらなれるよ!」
いよいよノラは混乱してしまった。
彼女の言い分だと人間は、蛙になりたくて、且つ蛙になる必要があれば、蛙になることが可能だ、ということになる。しかし、人間は蛙にはなれないだろう。
それとも、地上では蛙になることが可能なのだろうか。
「あっ! そうだ」
ノラが考え込んでいると、急に彼女はそう叫んで、ごそごそと腰に巻いてある鞄の中を漁り始めた。
「あのね、あ、ちょっと待ってね、飴が、じゃま――あ、ねえお名前は?」
「え?」
「ん? あのね、名前を聞いているの、えーと、あなたさまの?」
「あなたさま? あの、ぼくのですか?」
「そう! ぼくの!」
と言って、彼女は鞄の中から小さな四角いものを取り出した。それと一緒になって中からぽろぽろと丸い色彩が落ちる。
あ、ああ、とぼうっとした鳴き声のようなものを上げて、彼女はそれを拾った。赤や、桃色や、水色の球体を。
「ノラです」
答えると、彼女はノラの顔を見てへらへらと笑った。
「ノラくんか! じゃあね、ノラくんの願いごとはなぁに?」
そう言って、彼女は拾った丸い色彩を三つ、ノラの手に握らせた。
彼女の手に触れた場所から、じわじわと、ノラの体の中に何かが流れ込んできた。
「ねがいごと?」
それは、今までまったく感じたことのない感覚だった。
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