第31話 夢看る獸の孤
彼女は大きく頷いた。
「ノラくん泣かなくて偉いから、欲しい物とか、したいこととか、なりたいものとか。そういうの教えて!」
なりたいもの。
「ぼくのなりたいもの?」
と、彼女の触れた場所からノラの体に流れ込んできていたものが――そのゆるやかだった流れが――突然濁流となって、体の中を隅々まで埋めつくしていった。
その瞬間、それが何であるのかノラはすっかり理解した。
それは全てだ。
今まで外へ流してしまったノラの体の中の全て。
庭園の庭木の匂いや、テラスの中で笑っている母の横顔の美しさ。鳥の鳴き声。フィールスの柔らかい手のひら。感覚。感情。楽しかった。嬉しかった。景色。ジャンの笑顔。悲しかった。色の付いた水滴に触れた白馬の話。彼らには翼が生えた。翼。翼が。
「白い、つばさが」
と、震える声でノラは呟いた。
初めて塔を抜けだしたあの時、翼を持つ者はノラから全てを攫って行ってしまった。
谷の町の色彩も、ジャンの笑顔の翳りも、何も考えられなくなってしまったのだ。
ノラは、空を飛ぶことが出来る。魔法を使えば、飛ぶということはあまりにも簡単だ。しかしそれは、飛ぶという行為からあまりにもかけ離れたやり方だ。
空気の粘度を変え、体積を変え、摩擦を変え、風を作り、膜を作り――結局、魔法を使うということは、そんな風に一つ一つはただの変化でしかないのだ。
自然に存在している世界を、幾つもの層に分け、一つずつ作り変え、不自然を作りあげることだ。
けれど、彼らは違った。
彼らはごく自然に、自分の肉体を使って、自分の力だけで、空を飛んでいたのだ。それはノラには出来ないことだ。生まれ変わって翼を持たない限り出来ない。
そうして、自分は生まれ変わることが出来ないのだ。
死ぬことが、許されていないから。
「ど!」
突然、彼女が口から爆発音のようなものを出して、ノラは意識を現実に引き戻した。
顔を上げると、やはり間抜けな顔がノラを覗き込んでいる。
「泣いてるの?」
と、彼女は今にも泣きだしそうな顔で言った。
言われてみれば、確かにノラの体から外へ、何かが漏れ出ているようだった。頬を触ると、雫が指に触れる。
彼女は段階的に口を大きく広げながら、ど、とか、う、とかいう言葉を吐いた。
「だ、どうしたの? お腹すいた? 大丈夫? つらい?」
何でもないのだ、と言おうと思ったけれど、喉が塞がっていて出来なかった。変わりに、ノラは急いで首を振った。
それでも、彼女の顔には悲壮感が走るばかりだった。
「何か、あの、飴――」と呟いて、彼女は飴玉の袋を開いて、勝手にノラの口の中へ押し込んだ。「ごめんね、ごめんね」
なぜ彼女が謝るのだろう。ノラにはそれが少しも分からなかった。
舌の上が痺れる。ゆっくりと痺れが溶けて、口一杯に甘さが広がった。甘い、と思った瞬間にどろりとまた一気に涙が流れて、同時に体の中の濁流も勢いを増した。
「つばさ、が」
と、ノラはまた口走っていた。
「え?」
彼女が悲しそうな顔のまま首を傾げるのが可笑しくて、ノラは笑った。自分が笑ったことがまた可笑しかった。
「ぼく、翼が欲しいんです」
どくどくと心臓が跳ねる。とんでもないことを言ってしまった、と体が驚いている。ノラは、それでも口にせずにいられなかった。
「人は、進化するものだって」
ジャンの言葉は、常にノラの中にあったのだ。いくら忘れたふりをしても、一度体に取り入れた言葉はなくならない。
進化などと、そんな不確実なものを信じたから、ジャンはいなくなってしまったのだ。そんなものは信じてはいけなかったのだ。
けれど、ノラは口にしていた。
「進化をすれば――ぼくにも翼が、生えるかもしれない」
あの白色を見たときの、強い衝動が忘れられない。
自分ではないものに、なりたいと思ってしまった。しかし同時に、その望みが既に絶たれていることを知った。
しかし、彼女は大きく頷いた。
「うん!」
その声量に、ノラはびくりと体を震わせた。
彼女は泣き顔を瞬時にしまい込んで、明るい表情で鞄から小さなノートを取り出した。そして、さらさらとそこに何かを書きつけた。
そして、書きつけた文字をノラに見せてきた。
「ノラくんに翼を生やす!」
大きな声でそう言って、彼女は満足そうに笑った。
「ここに書いたから、もう大丈夫だよ。万が一、ノラくんに翼が生えなくても、私が魔法使いになって生やしてあげるから、だから泣かないで良いんだよ! ね? もう泣かないで」
そう言って、彼女はノラの頬をぎこちない手つきで触った。
その時のことを、ノラはずっと覚えている。
「ノラくんには絶対、翼が生えるよ」
間違いだと分かって、その言葉を、彼女を信じてしまった。
その罪を、忘れたことはなかった。
「あの、あなたの名前は」
「うん? 名前? キィコだよ」
「キィコさん」
「うん! そうだよ!」
けれど、その名を呼ぶだけで、満たされていた日々があったのだ。
それはまるで、夢のような。
夢。
ゆめ?
_b_――そう、あの子は私の夢なの――_b_
「あ!」
脳に針が刺さったような感覚がして、気が付くとノラの喉からは声が漏れていた。あたりを見回すと、寝室の大きな窓硝子に水が幾つもの筋になって流れているのが見えた。ここは塔の中だ。
音がする。酷い雨だ。
「ゆめ」
ひとりでに喉が開いて、声が出る。
なぜかノラの頭は著しく明瞭に働いていた。頭だけではない、目も耳も鼻も、あらゆる器官が凄まじく鋭く働いている。
こんな感覚はノラは知らない。
今ならば、地上の一つの部屋で針が落ちた音でもはっきりと聞き分けられそうだと思った。
これは、一体なんだろう。
ノラは急いで体を起こした。すると、腰元に巻き付いていた腕がずり落ちた。触れていた温度が消えて、肌がすうすうと冷える。
「ん、お嬢?」
と、マツダは目を擦った。彼は昔から、人の慰め方を抱きしめる以外に知らないのだ。
ノラの頭は働きすぎて、調節が出来ていないような感覚があった。きょろきょろと目が勝手に動いている。言葉が勝手に頭の中を駆け巡っている。
「どうしてぼくらは黒き翼を倒すの?」
「んん?」
マツダがくぐもった声を上げる。ノラは続けた。
「そもそも、黒き翼っていうのは何だろう。それは昔からいたもの? それとも伝承? 伝説? けれど、ぼくらはどうしてそれを知っていたんだろう。ねえ、マツダ。どうして、キィコさんには黒い翼が生えたの?」
どうして、今までその疑問に向き合わなかったのだろう。こんなにも大事で、こんなにも簡単な問いを、どうして今まで抱くことがなかったのか。全く思い出せない。
少し前までノラは、黒き翼を倒さなければならないと思い込んでいた。いや、思い込むという感覚さえなかった。
黒き翼が倒されるのは当然のことだと、理解していた。
「どうして倒さなければいけないのだろう」
すると、マツダは笑った。手が伸びて来て、ノラの頭をひどくぞんざいに撫でてくる。
「なんだ。ねぼけてんのか、ふふ――たまねぎ」
言葉のあとで、その手はぽとりとベッドの上にに落ちた。すぐに健やかな寝息が聞こえ始める。
マツダこそ寝惚けている。けれど、寝惚けているというのでも、マツダが目を覚ますということは珍しかった。
それくらい、疲れているということなのだろう。普段使わないような神経をここ数日使いっ放しだったから。
「ごめんね」
ノラはマツダを起こさないように慎重にベッドから出た。自分の足で立ち上がると、変化がより一層明らかになった。
体が軽い。
何もかもが十全だ。
今、自分が何をしたくて、その為に何をするべきなのか、言語化されないうちに体の中ですっかり整理がついている。
ノラが速やかに自室からでると、いつもすぐに起きる廊下のランプが、眠ったまま静かにしていた。
なにもかもが眠っている。
硬い絨毯も、階段の踊り場の空気も、勿論、各部屋にいる全ての魔法使いも、すべてが深い眠りに就いていて、ただ一つだけ、空中庭園に向かう昇降機だけが、じっとノラの来訪を待っていた。
甘い匂いがする。
小さな四角は、やはり上昇しているのか下降しているのかよく分からないやりかたでノラを運んだ。
鈴の音がなって扉が開く。庭園もまた、全てのものが深い眠りに就いていた。
風が吹いて、湿った土のような匂いがした。
「やあ、元気かい?」
と、聞き慣れたような、全く知らないような声がノラに呼びかけてくる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます