第32話 彼の人は往き帰らぬと誰か云い
揺り籠の椅子に座って、フィールスは空に向かってぽつと呟いた。
「いまは夜だ」
ノラも、同じように空を見上げた。星だけは煌めいて、眠ってはいないようだった。
「このままみんな寝ていたら良いのにね」
ノラが答えると、フィールスは小さく笑った。
その笑い方は、昔、ジャンと一緒にいた時にしていたものと少し似ていた。
「そうだね。みんな寝ていて、ぼくらだけが起きていれば良い」
「けれど、にいさまは、時間を止められるのでしょう? それならばずっと夜でいられる」
ノラはそう言いながらフィールスの元まで歩いた。足元の土と植物たちは、ノラが踏みしめると少しだけ起きて、離れるとすぐに眠った。
フィールスがまた笑う。
「時間を止めてしまったら、時間を止める意味はなくなってしまう」
そう言って、椅子の背に凭れている頭を傾けて、ノラを眺めた。
「そこにはぼく以外いないのだからね」
フィールスがまだ他者と共にありたいと思っていることについて、ノラは静かに驚いた。もう兄は他者と生きることを――というよりは人と生きようと思うことを――やめてしまったのだとばかり思っていたから。
そしてフィールスは、いつもの柔らかい声音で続けた。
「やはり、あれは君の友人なんだね?」
ノラはもう、その言葉に昼間のように反感は抱かなかった。
「友人というよりは――友達です」
同じじゃないか、と自分で思う。
けれど、友人より友達という言葉のほうがキィコには合っている。確かにある一部分では、キィコは確かにノラの友達であった。ごく自然に話し合い、笑い合うことを続けて来たのだから。
ノラがどれだけ深い感情を抱いていたとしても、やはり二人の関係を表すのは友達という言葉が最善であるようだ。それにノラは、あの時とても嬉しかったのだ。
キィコが自分のことを、友達だと紹介した時。
「ジャンもぼくの友達だったよ」
ふいにその名前が耳に入ってきて、ノラの心臓は一瞬痙攣したようだった。
フィールスは、もう絶対にその名前を口にしないだろうと思っていたのだ。もし口にしたとしても、非常に冷たい響きをもって放たれるのだろうと、そう思っていた。そんな日はこない方が良いとも。
しかし今、フィールスは非常に柔らかい表情と声音で呟いている。
「ぼくはジャンに強く憧れていたし、一緒にいると明るい気持ちになった。ジャンに何かがあったら、必ず守ってあげようと思っていたし、力になれることがあるのならば、全てを擲ってもよかった。つまり――ぼくはジャンのことを深く愛していたんだね」
愛していた、というその言葉は、星の瞬きや草木の揺れに似ている。ただまったくの事実を述べるようにフィールスは言った。少しの過剰も欠損もなく、微かな温かさだけを携えた言葉だった。
そうして、すぐ近くでノラの顔を眺めた。
遠くを眺めているようなその目に、ノラはそわそわと淋しい気持ちになった。
「にいさま?」
「ぼくも君も、そろそろ答えをださなくてはいけないみたいだ」
フィールスは急にすっと目を細めて、ノラの耳に手を伸ばした。
冷たい指先が触れて、体がびくりと跳ねる。指は耳の縁を少し触り、喉と肩も同じようにそっと触れ、腕に降りた。神妙な顔つきで、フィールスは検診するようにノラの体を眺め、触り、ふと呟いた。
「魔法じゃないな」
ノラにはその言葉の意味が分からなかった。
けれど、フィールスがあまり面白く思っていないのだということは分かる。そうだ。昔はこんな風に感情がすぐ読み取れた。今では、フィールスがどうして笑うのか、ノラは少しも分からない。
もっとも、フィールスは大抵の時間、微笑んでいる。
「特異か」
と言って、フィールスはノラの体から手を離した。
「他人に手を出されるのはやっぱり不愉快だな」
「あの、兄さま」
真意を汲み取ろうとすると、フィールスはするりとそれを躱した。
「ああ。君が気にすることではないよ。いずれぼくがしようと思っていたことを、他人に先を越されたんで悔しがっているだけだ。ぼくは子供だからね」
そう言って、フィールスは椅子に凭れかかった。
「さて。君はぼくに何かを聞きにきたのだろう。内緒話だと思ったからみんな眠らせてしまったのだ。どこにどんな奴らが潜んでいるか知れたものじゃないからね」
ゆらゆらと、どことなく楽しげに椅子を揺らしながらフィールスはそう言った。
「なぜぼくらは、黒き翼を倒さなければいけなのでしょう」
ノラは即座にそう答えていた。そして驚いた。
意識を認知するより早く口が動いたのだ。驚くほど冴えた頭は、意識の検閲をすり抜けたらしい。
しかし、それは全く正しい質問だった。ノラはそれを聞くためにここまで来たのだ。
フィールスは、驚きとも納得ともとれるような、微妙な表情をした。
それから、目の前にある球体に触れた。
昼間と違い、それはただ丸いだけの透明な硝子玉のようだった。向こうの景色が透けて歪んで見えている。
フィールスが指で叩くと、硝子玉の中に、月明かりほどの光が灯った。けれど、やはり中には何もない。星のない夜の空のように、ひたすら薄ら暗いだけだった。
「魔法を使うとき」
とフィールスは球体に触れたまま話し始めた。
「君はどうか知らないが、ぼくには色んな形が見える。どんな、と言って口にだして言えるようなものではないけれどね」
ノラはその言葉に素直に頷いた。フィールスの言っていることがよく分かったからだ。
魔法とは、組み替えの技術のことだ。元々あるものの形を、ばらし、組み替え、別のものを作る。外から見ると、その過程が隠れているから、突然別のもが現れたように感じるのだろう。
そうして、魔法使いのいわゆる魔力というものは、どれだけ多くの形を動かせるか、どれだけ多くの形を知っているか、という技量のことを指す。
こればかりは訓練で差が付くものではなく、生まれつきの能力が全てだ。誰かに教えを乞うことも出来ない。それは、ノラが見ることの出来る世界の形と、フィールスの見ている世界の形が違うからだ。
「ぼくにも形が見えます」
ノラが言うと、そうか、とフィールスは笑って、また球体を爪で何度か弾いた。弾くたびに景色がはたはたと変わり、昼間見たサバンナや真っ青な水底や、他にも様々なものが現れて、次々と消えた。
そうして、渦巻く黒雲を映して、止まる。
「このドームはね、その形を疑似的に映し出すことが出来る装置のようなんだ。どういう作りなのかはまだ分からないけどね。触れるものがたぐり寄せられるのならば、遙か遠くの現象を映すことも出来る」
フィールスはそう言いながら、球体の上で指を滑らせた。景色が動いて、どんどんと黒雲の中に入って行く。
「ご覧」
促されて球体の中を覗くと、そこには一つの町の姿があった。
よく知っている町だ。本当は一度しか足を踏み入れたことがない。
それは谷の町の、中央部だった。サーカスに行くときに通った場所だ。そこにはやけに背の高い近代建築があって、谷の人間はそれを塔と呼んでいる。そうキィコが教えてくれた。
「塔――」
ノラの住んでいるこの場所と同じ名前だ。
けれど、球体の中の塔はすっかり形が変わってしまっている。巨大な一本の木だ。絡まる太い蔦のような幹のようなものの隙間に、かろうじて硝子窓のようなものが見える。
ノラがこの前見た時は、植物を焼き払った直後だったはずだ。いくら谷といえど、この生長の早さは異常ではないだろうか。
なにより奇態なのは、その大木の周りに、黒い翼を持った生き物が、いくつも飛び回っていることだ。
「黒き翼はその上に隠れているらしいね」
フィールスは淡々と呟いた。
「いくら谷の者と言っても、あの異形をそう簡単には受け入れられなかったらしい。随分苛められたみたいだ。可哀想に」
本当に可哀想だ、という語調でフィールスは言った。そして続けた。
「我々は、なぜ黒き翼を倒さねばならないのか」
言いながら、また指で球体を弾いた。中が真っ黒になる。何も見えなくなる。
「君がその疑問をどこで手に入れたのか、今は聞かずにおこう。ただ、手に入れたのならば分かるはずだ。今まで、ぼくらがどれだけ何も考えていなかったかということを。ね、そうだろう?」
そうだ、とノラは思った。
つい先ほど目を覚ましてしまうまで、ノラはこんな疑問を持たなかった。疑問を抱く余地が体の中に少しも存在していなかったのだ。
「ぼくらは、頭がわるい」
と、突然フィールスは言った。
「ぼくら魔法使いは、疑う力を奪われているんだ。それだけじゃない。あらゆることが制限されている。そうしてそれは勿論、仕組まれたことなんだよ」
そう言うと、フィールスはノラの手を取り、何かを握らせた。
冷たい、それは、小さな鍵だった。
「これは、ジャンがぼくと君に渡したものだ」
「ジャンが?」
「そうだ。ぼくはこれを君に渡すのを、今までためらっていた。なにが君の幸せなのか分からなかったからね」
幸せ、という言葉がフィールスの口から出るのはとても不思議だった。新しい魔法を作りだすために、自らの体を腐らせている姿と、その言葉は余りにもかけ離れている。
ノラがその小さな鍵をぼうっと眺めていると、フィールスの手がその上に重なった。
何かが、鍵の中に入って行ったのが分かる。
「ノラ。君にジャンの言葉をそのまま伝えよう。これはぼくが決めていいような問題じゃなかった。君が、自ら選ばなければ意味がない」
顔を上げると、フィールスは苦しそうな、淋しそうな顔をしていた。そうして、ジャンの言葉を諳んじた。
「全てを疑うんだ。そして選択し続けろ。幸せになることを恐れてはいけない。たとえそこに留まることが目的でも、俺たちは選び続けなければいけない。それが生きるということだ。生き物は、生きることで繋がっている」
それから、とフィールスの声は少し重たくなった。
「俺に何かあったら、この鍵が俺の変わりだ」
はっとして、ノラはフィールスの顔を見上げた。これはジャンの言葉だろう。何かあったら、という言葉にどこか違和感がある。
何かというのは何だ。フィールスはどこに行ったのだろう。呪いを解きに行ったのだと幼い頃は思い込んでいたけれど、それは具体的に、どこに、なにをしにいくことを指すのだろう。
フィールスは笑った。
「ジャンはそれしか言わなかった。お蔭でぼくは長いこと謎解きをしなくちゃいけなかったんだ。ジャンの言葉を鑑みるなら、もちろん君も自力で探すべきなのだろうけれど。もうそんな時間もないからね。たくさんヒントをあげよう」
フィールスが手を離すと、ノラの掌の上で、鍵がそっと縦になって浮かんだ。
「これを頼りにして行くと良い。常に鍵穴の方を向くようにしてある。その先に一人の老婆がいる。彼女に会ったら、鍵を渡して中を確認しにきたと言えば良い。あとは――自分の目で確かめておいで」
そう言って、フィールスはノラの頭を柔らかく撫でた。
「それで、ちゃんと自分の答えを出すんだ」
そのぎこちない撫で方に、ノラは久しぶりに兄に会ったような気持ちになった。子供のころから、フィールスはそうやって、どうにか精一杯の愛情をノラに向けてくれていた。
「気を付けて行っておいで。ぼくも――君が帰って来るまでには答えを出そう」
その顔を見て、ひとつの時間が終わるのを感じた。
同じことを考えようと、同じ道を辿り、同じ答えを出す時期は、とっくに過ぎたのだと理解した。もう、兄の後ろを歩くことをやめなくてはいけない。
一人で、答えを出さなければ。
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